戻る | 目次 | 進む

  幸せ家族計画 11  

 毎朝仕掛けている目覚まし時計が鳴るほんの少し前に、司郎の意識は決まって目覚める。引いたカーテンから差し込む陽射しの強さで今朝の天気を知り、隣でまだ眠る人物を起こさないように慎重に身体を起き上がらせる。
 そしてまるでそのタイミングを見計らっていたかのように、頭上では目覚まし時計が一定の軽快な機械音を響かせるのだ。それが幾度も鳴らないうちにオフに切り替えて、そんなことが頭上であったことなど露程も知らないだろう寝顔に、ひっそりと顔を近づける。
「おはよう、紅葉」
 耳元で、けれど穏やかな眠りを妨げない程度の低音を響かせて、司郎の一日は始まる。
 起き上がった時と同じように、ベッドを軋ませないように大きな身体で身軽に抜け出す。ちょっとやそっとのことで起きないということは既に分かっているのだが、それでも気遣ってしまうのは最早癖――性格のようなものだ。ずれたシーツを掛け直して、これまた足音を忍ばせてドアも静かに開閉する。
 階下へと続く階段を眠気を覚ましながらゆっくりと降りて、一瞬躊躇った後に洗面所へと向かう。続きになっている浴室から聞こえてくる水音にまたしても足を躊躇わせてしまったが、開け放たれたままの脱衣所に見える脱ぎ捨てられた服にその気遣いも無用かと考え直す。
 顔を洗い、伸びた髭を剃り、寝癖なのか癖っ毛なのか己でも判別の難しい髪を整えて、漸くキッチンへと向かう。
「おはようございます」
「あ。おはよう、司郎」
「よーぅ、真木。おはようさん」
 キッチンに並ぶ皆本と賢木と朝の挨拶を交わして、司郎は二人の邪魔とならないように珈琲メーカーへと向かう。利便性を求めた結果、大の男三人が入ってもキッチンはそう狭くは感じない。
 まさかこうなることを見越してこのキッチンにしたのではないだろうかと疑ってみても、その時は司郎自身ここまで身体が成長するとは思わなかったし、同居人が更に一人増えるとは想像もしなかった。だからこれは偶然なのだろう、と考えることはとうに放棄した。
「司郎。今日は君達が最後に家を出ると思うから、戸締り頼むよ」
「分かりました」
 珈琲の豆をセットしながら、司郎は頷きを返す。こぽこぽと溜まり始めた黒に近い液体を確認して、司郎は今度は冷蔵庫の前へと移動する。
 傍からはこんがりと焼け始めたパンの香ばしい匂いに、味噌汁の出汁の効いた香り、ぱちぱちと弾ける鮭の匂いなど、漂い始めている。
 今日は和と洋両方か。それが一体どっちがどっちの好みであるかなど分かりきったものだ。統一すれば二人の負担も減るというのに、キッチンに立つことのないあの二人にそんな事を言っても無意味だろう。
 そう、考えていると。不意に近くから抑えた笑い声が聞こえてきて、司郎は顔を上げると罰の悪そうに視線を逸らす。傍に立っていたのは、賢木だ。
「パンは多分余ると思うから紅葉ちゃんに伝えといてな」
「……分かりました」
 くくく、と笑いを耐えようとする賢木に憮然と返事をすると、皆本が横から賢木の横腹を突くのが見えた。それに賢木が悪びれる様子もなく両手を合わせて、笑いながら頭を下げている。
 よもや学生時代からの知り合いだという二人も、まさか将来こうして同居生活を送るなどは夢にも思わなかったに違いない。思い返してみれば司郎自身も、将来は皆本の傍を離れて自立した生活を送ろう、と考えていたのだ。なのに成人を過ぎた今でも変わらず皆本の下にいる。
「今日の夜は久し振りに皆時間が合いそうなんだけど、司郎達は用事入れてるかい?」
「いえ。余程の事がない限りは定時に上がれると」
 小さい頃は皆本を現場運用主任として、司郎と紅葉、葉の四人はチームを組んでいたのだが、その成長に合わせてここ数年は別のパートナーと組んで任務に出ている。だから以前のように帰宅の時間が同じであることは余りなく、個人に仕事が与えられたりして六人全員が揃うことは少ない。
 昨夜でさえも、皆本と兵部がいつ帰宅したのか分からないくらいだ。だからこれでも、先程キッチンから皆本らしき声が聞こえた時はらしくなく躊躇してしまったのだ。
「それじゃ、本部集合でいいね。忘れるなよ、賢木」
「へーい。つーか、遅れんのは俺じゃなくてアイツの所為だっつの」
「賢木が甘やかすからだろう?」
「親の躾がなってなかったんじゃねーの?」
 賢木のその言葉は、冗談で、微塵も本気ではないのだと分かっている。けれど、分かってはいても聞き逃せないものもある。
 司郎は揃いのカップに珈琲を注ぎ終えそれを両手に持ちながら、静かに賢木を呼ぶ。
「賢木さん」
「んぁ?」
「皆本さんは俺達の自慢の親ですよ」
 そう言った途端に賢木はぽかん、と口を開けて、皆本は硬直したまま動かない。
 みるみる皆本の顔が赤く染まっていくのを楽しげに見つめて、賢木がどこかうんざりとしたような表情で犬猫を追い払うように手を振るのに、司郎はすっきりとした気持ちでキッチンを抜け出した。

 部屋を抜け出した時と同様に司郎は静かにドアを開けると、未だにベッドの上で眠る人物に微かな笑みを零した。
 やってきた人の気配にか漂う珈琲の匂いにかシーツがもぞ、と蠢く。しかしまだ覚醒にまでは至らないのか寝息すら聞こえてきそうな雰囲気に、持って来ていたカップを傍のテーブルへと乗せてベッドの 端へと腰掛ける。
「起きろ、紅葉」
「…………後1時間」
「寝すぎだ、馬鹿。せめて5分と言え」
「……じゃ、5分」
 ワンテンポ遅れてはいるものの、紅葉との会話は成り立つ。けれど油断すれば直ぐに彼女は寝息を立てるだろう。
 ふと息を吐き出して、シーツの中に隠れようとする頭を撫でる。
「珈琲が冷める」
「……仕方ないわね」
 もぞ、と再びシーツが蠢いて、むくりと紅葉が身体を起こす。寝起きの表情はまだうつらうつらとしていて、寝癖を直してやる司郎の手にも素直に頭を預けている。髪を手櫛で粗方整えて、司郎は一度ベッドの傍を離れる。
 引かれたままのカーテンを開け放ち日光を取り込むと、ベッドの上にぼんやりと座った紅葉が眩しげに目を細める。その姿をほんの数秒であったが脳裏に焼き付けて、ベッドへと戻る。わざわざこれくらいのことであれば超能力を使えば簡単に出来るのだが、必要最低限の能力は使わないと、そういう約束をしている。
 それはもう随分と昔に思えるような過去に。しかしその約束は今も尚、守られ続けている。
 手ずからカップを取って、紅葉へと渡す。淹れ立ての豆の香りを楽しむように両手で握り締めたまま紅葉は動かず、それに満足したのかゆっくりと口をつける。カップから離れた口が声は出さずにほぅ、と一息吐くのを見て、司郎は自分のカップを手にした。
「賢木さんが」
「うん?」
「賢木さんが、今日はパンを焼いたそうだ。和食と洋食、どっちがいい?」
「そうね……。久し振りに洋食がいいわ。カリカリに焼いたベーコンと、ふわふわのオムレツ」
 紅葉のリクエストを聞きながら、先程確かめてきた冷蔵庫の中身を思い出す。ベーコンも卵も、まだ余分に余っていたはずだ。後は確かジャムも数種類入っていたはずだから、それで大丈夫だろう。豆のストックも充分にあったし、そう言えば先日買った紅茶も残っていたはず。
 いつの間にと思うほどに冷蔵庫の中身は常に充実している。六人もいればそれなりに消費もしているはずなのに、材料が足りないと感じたことはないし丁度良く材料もなくなっていっていく。だから、どんなリクエストでも大抵のものは揃えることが出来る。
「そういや、皆本さんと少佐は帰って来てたの?」
「ああ。皆本さんとはキッチンで会った。少佐には会っていないが、まだ寝ているんだろう」
「そっか」
 どこか安堵するように呟く紅葉を見つめながら、司郎は先程聞かされた話を紅葉にも伝える。すると楽しそうに、笑みが広がる。
「楽しみね。楽しみすぎて全然バベルに行く気がしないわ」
「――おい」
「だってそうじゃない。本部待機だなんて自宅待機とそう変わらないわよ?」
 珈琲のお陰かすっかりと目の覚めたらしい紅葉の言い分に司郎は呆れたように溜息を吐く。振り回されることには悲しいかな、慣れてしまっているが、皆本が絡むと更に酷い。
 こうなるとは分かっていたのだが、言わなければ良かったか。けれど司郎が話す前に他の者に聞いたり、ギリギリまで黙っていたりすると後が怖いから、やはりこのタイミングで言うしかなかったのだと自分に言い聞かせる。言い聞かせて、もう一度溜息を吐くと睨むような視線を向けられる。
 それをあえて無視して、ついでにキリキリと痛みそうな胃も無視する。
「先週からの報告書。お前サボってるだろう」
 そう言ってやれば、カップを傾けようとしていた紅葉の手がギクリと止まる。渇いた愛想笑いに溜息も出やしない。
「だぁって面倒なんだもん」
「だってじゃない」
「それに司郎ちゃんがなんだかんだでやってくれるし」
「…………紅葉。もう少し自分でやることを覚えたらどうだ」
「司郎ちゃんのケチ。追い出すわよ」
「皆本さんに言いつけるぞ」
 まるで子供の喧嘩のようだ。
 しばらく無言で睨み合って、不承不承と紅葉が首を縦に振る。そのまま俯いてしまった口が、小さく卑怯よ、と呟いたのが司郎の耳にも届いた。
「俺も手伝ってやるから。さっさと片付けて今日は事件が起きないことを祈ってろ」
「だから司郎ちゃんって大好きなのよ」
 ころりと表情を変えて上機嫌に笑う紅葉に、司郎も釣られるように笑みを刻んだ。
戻る | 目次 | 進む

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system