少年が求めたものはただ唯一の居場所

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  理想郷 03  

 最初にそれを指摘したのは、午前中からずっと彼と二人きりで居る、澪だった。
「どうしたんだい? 澪。どこか分からない所でもあった?」
 読書を一時中断し、皆本は澪の手元を覗き込む。
 彼女もまた、兵部によってパンドラへと保護された超能力者だった。
 発見当時、澪は碌な食事も与えられていなかったのか、酷く身体が衰弱していた。無責任な話ではあるが、それは稀な事ではなかった。普通人同士の家庭に生れた超能力者が、そこで満足な庇護を受けられない事は無い事ではない。そしてその超度が高ければ高いほど、可能性も高い。
 幼少期というのはまだ自我も薄く、自分が何故超能力を使えるのか理解する事が難しい。リミッターを付けさえすれば超能力者であっても普通人と同じように暮らす事が出来るが、それが、親には耐え切れないケースもあるのだ。また、全ての者がリミッターを手にすることが出来るわけでもない。
 そして澪の生れた家庭が、そうであった。超能力を持っていたが故に親に見離され、満足に食事を得る事も教養を受ける機会も無く、感情乏しく知識も少なかった。
 その現実は、皆本にとって信じたくは無いものだった。確かにそういう家庭だけではないということは良く知ってはいるが、やはり超能力者と普通人は共存することは出来ないのか。ただ能力が秀でているというだけで、異端視され迫害を受けなければならないのか。
 澪は兵部に保護されたその後はパンドラでの生活で、欠けていた栄養を補い、多くの人と触れ合う事で少しずつ感情を表すようになっていたが、知識量はやはり実年齢の子達に比べれば明らかに劣っていた。
 そこで、皆本が澪の教師役を務めることになった。パンドラ内で一番澪と歳が近かった事もあるのだが、皆本の学力を買ったのだ。それは兵部のお願いでなくとも皆本は澪に気を掛けていたから断る理由もなかったのだが、唯一反対したのが澪本人だった。
 少しずつパンドラのメンバーにも打ち解けていった澪であったが、皆本にだけはどうしても慣れる事は無かった。しかし澪にとっては強制的に始まった勉強会を重ねるうちに、すっかりと懐いてしまったのが現状だ。傍から見れば兄妹であるように、澪は皆本を慕っている。
「澪?」
「な、なんでもないっ。大丈夫だから!」
「そう?」
 それにしてはあまり手は動いていないようだが、何事にもやる気が肝心だ。本人が大丈夫と言っているうちは、口出しせず見守ることも必要だろう。
 なんだか腑に落ちない点があるような気もするが、大丈夫と言い張る澪に頑張って、と声を掛け皆本は再び読書に戻る。今はこれまで教えてきたことのまとめのテストを行っている最中だ。とは言っても、元々学習するという事が苦手であったのかその進みは遅く、だが勉強会を始めた当初に比べれば大分成長しているだろう。
 満点を取れればご褒美をあげたほうがいいか、そんな事を考えながら皆本はページを捲り、こほ、と咳を一つ。そうやって咳をする度に澪は手を止めじっと皆本を見つめていたのだが、それに皆本は気付かない。

 どうやら皆本は、今朝から偶に咳をしているようだった。本人はただ喉の調子がおかしいだけだと言っていたが、本当にそうなのだろうか。
 しかしもし皆本に不調があれば、兵部が気付いているはずだ。何せ、皆本は兵部と一緒に暮らしているのだから。
「……」
 暗く、過去に抱いた気持ちを思い出しそうになって、澪は慌てて首を振り問題に取り掛かる。今はもうそんな事思いもしない。いや、正直に言えばまだ僅かに残ってはいるが、分かっているのだ。皆本は、特別だ。
 今取り掛かっている問題は、簡単な算数の文章問題だ。皆本が丁寧に何度も教えてくれたその問題の解き方を懸命に思い出し、試行錯誤を繰り返しながら、時折躓きながら問題を解いていく。
 それでもやはり、聞こえてくる咳の音が気になって仕方ない。なんだか咳の頻度も多くなってきたような気がするし、何より咳をした後の少し苦しそうに喉を押さえる動作が見ていられない。
「――ねぇ、皆本」
「うん?」
 本から顔をあげ、澪を見つめ返す表情はいつも通り変わらない。だけど咳を繰り返していた所為だろうか。少しその瞳が潤んで見える。
「皆本、風邪引いたんじゃないの?」
 澪の言葉に皆本は一瞬固まったように澪を見つめ、首を傾げる。う〜ん、と唸りながら何か考えているのか、だがその後に見せたのは苦笑に近い笑い顔だ。
「そうなのかな?」
「そうなのかな――って、わかんないの?」
「僕、風邪引いたこと無いから。どんな症状なのかは分かるけど……、これがそうなのかなぁ……」
 おっとりと言葉を返すその傍からまた咳を一つ。そんな皆本を澪は暫し凝視し、それまで座っていた椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった。大きな物音と澪の突然の行動に皆本が吃驚している間にも、彼女は皆本の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
 立ち上がった拍子に手から本が滑り、ページを開いた状態で床に落ちる。ぐしゃ、という音に皆本が本を気にしていれば、更にぐいっと腕を引かれる。
「病院行こ! もし風邪だったらほっとくと酷くなるんだからっ」
 澪にしては珍しく、焦ったような態度。その姿をただ呆然と見つめ、思わず小さく吹き出すと責めるように睨まれる。不謹慎であるとは分かっていても、一生懸命に心配してくれる姿が嬉しい。口調は咎めるようでいても、ありありと心配だと言っているのが伝わってくる。
 皆本は緩んだ口元を引き締めると澪の目線に合わせて屈み込み、その頭をぽんぽんと撫でた。すると、瞬時に澪の顔が赤く染まり上がる。それで自分がどんな行動に出ていることに気付いたのか、皆本の手を振り払って、俯いてしまう。
「心配してくれてありがとう。じゃあ今日は止めにしようか。僕は病院に行ってくるから」
「あ、あたしも付いてっちゃダメ?」
「澪に移しでもしたら大変だろう?」
「あたしは慣れてるから平気だしっ」
 衰弱した身体は病気にもかかりやすく、澪は以前はよく風邪を引いていた。しかしそれだけではなく、まだ両親の元に居る時も悪環境が病気を引き起こし、たとえ掛かったりしたとしても碌な手当てもしてはくれなかったのだろう。
 俯いたまま掌を握り締める澪に、皆本は静かに吐息するとまた、頭を撫でる。
「もし澪に移ったら、僕が心配するから。――だから、ね?」
「……わ、かった」
「うん」
 ぐしゃぐしゃに髪を掻き撫でると、照れ隠しの為か怒ったように手を振り払われる。澪が乱れた髪を整える様子を微笑ましく見ているとまた咳が出、皆本は慌てたように部屋から追い出されてしまった。
 閉ざされたドアを背に皆本が苦笑しながら頬を掻いていたその向こうで、澪が赤い顔をそのままに皆本に撫でられた頭を押えていた事を彼は知らない。それともう一つ。視界に映った床に落ちてしまった本を拾い上げ、丁寧に折れたページの皺を伸ばして大事そうに腕に抱えていた事も皆本は知らない。
 部屋から追い出された皆本はいつまでもそこにいることも出来ず、痛む喉を押さえてとりあえずは医務室へと向かう。そこならば薬品等は常備されているから、無駄足を踏むことはないだろう。普段であれば、皆本はどちらかと言えば誰かの看護としてそこを利用することが多かったが、まさか自分が病人になってしまうとは。
 しかし、どこから風邪を貰って来てしまったのだろうか。それまでの習慣か手洗いうがいなど欠かさずやってきたのだが、それでも引いてしまうときは引いてしまうらしい。
 貴重な体験だ、と楽観しながらも皆本は確かに自分が今不調であることを感じていた。超能力を使おうとすると常よりも疲労感が強い。それに風邪と自覚したからか、少し身体が火照ってきているような気さえする。
 と、不意に前方から来る人を皆本が認めると、相手も気付いたのだろう。意外そうな顔をして近付いてきた。
「お守り抜け出したのか? 光一」
「違うよ、葉さん。医務室に用事があるんだ」
「医務室? 怪我でもしたのか」
「風邪、引いてるみたいで。薬貰おうと」
 苦しげに咳き込む皆本を暫くじっと見つめ、徐に葉は額に手を当てる。それに驚いて引きかけた身体をぐっと腕を引かれ、その場に留められる。目を瞬いて見つめた葉からは、どことなく真剣な様子が伝わってくる。普段はふざけている眼差しが、真っ直ぐに皆本を観察する。  額に当てられた葉の手が冷たく感じるのは、それだけ身体が熱を持っているからだろうか。
 小さく唸った後に手を離した葉は、次いで何処から取り出したのかぺットボトルを皆本へと渡した。反射的に受け取ってしまったものの、皆本には葉が何をしたいのかがイマイチわからない。
「喉。渇いてるだろ」
「……そういえば」
 咳き込み続けていた所為か、葉の言う通り喉が渇きを訴えている。渡されたペットボトルは葉の飲みかけのようであったのだが、いいのかと問うてもいいからと言われ、有り難くペットボトルを傾ける。
 一口のつもりであったのだがつい二口三口と喉を鳴らし、渇きを癒していく。量を減らしたペットボトルを葉へと返すと、そのまま腕を引かれて歩き出す。
「葉さん?」
「一緒に行ってやる」
「え、けど……」
 葉にとっては来た道を戻ることであり、何か用事があったのではないかと問い掛けても軽く聞き流されてしまう。だが折角の好意を断るのも葉に対して失礼かと思い直し、皆本は少し歩調を速めて葉と並んだ。
「あの人は光一が風邪だって知ってんの?」
「兵部さん? 知らないと思うよ。昨日から逢ってないし、僕も澪に言われて分かったから」
 葉はちら、と横目で皆本を見、少し歩調を緩める。葉は普段通りに歩いていたのだが、微熱程度でも熱のある皆本にとってはきつかったか。呼気が少し荒く上がっている。
 なんとなく優越にも似たようなものを感じながら歩き続ければ、あっという間に目的地に到着してしまう。するりと、何の躊躇いも無く離れて行く手の温もりが名残惜しい。追いかけそうになった無意識の行動に、葉の口から苦笑が漏れる。
 突然笑い出した葉に皆本は不思議そうな顔を向け、何でもないと言葉を返されれば素直にそれを受け入れる。目の前のドアを開けると、なんだか賑やかな声が聞こえてきた。
 部屋の中に居た者達も開けられたドアに自然と視線を向け、皆本の姿を見れば破顔する。しかし、皆本に続いて入ってきた葉の姿を見て、大声を上げる者が一名。
「何でアンタが光一君と一緒に居んのよ!?」
「ウルサイ」
 開口一番食って掛かってきたマッスルに素気無く言い返して、葉は苦笑したまま立ち尽くした皆本の背を押し中へと入る。どうやら彼らは任務を終えて戻ってきたらしいのだが、誰か怪我したのだろうか。
 その心配が顔に表れていたのか、いつの間にか目の間にいた真木が大事ないと告げる。
「それより、皆本はどうしたんだ? 確か澪の勉強を見ていたはずじゃ……?」
「あ……うん。風邪、引いたみたいで。薬貰いに来たんだ」
「風邪……? 熱があるのか」
「ううん。咳が少し。あ、でも身体もちょっとだるいかな」
 皆本を椅子に座らせ、症状を聞きながら真木が薬を取り出す。その脇から水の入ったコップも差し出され、驚いてその先を辿るとどうやら紅葉が用意してくれたらしい。ありがとう、と礼を言えば、先程皆本が澪にしたようにくしゃりと髪を撫ぜられる。
「薬飲んで早く治しなさい」
「うん」
「光一君が風邪引くなんて珍しいわねぇ。夜更かしはダメよ。お肌にも悪いんだから」
「あはは……。そうだね」
 突然に背後から頭を抱き込まれ、それが誰の仕業かなど考えるまでもない。武骨な指につんつんと頬を突かれ、苦笑しか零れない。しかしマッスルを離そうにも皆本は両手とも塞がっており、好きにされるがままだ。
 ちら、と真木へと視線を送れば呆れたように溜息を吐き――それがどちらかに対するものかは考えるまでもなく――マッスルの身体を皆本から引き剥がす。マッスルも抵抗を見せていたが、皆本は病人だと思い出したのか大人しく見守っている。ただ、その目は明らかに残念そうではあったが。
「今日はもう部屋に戻るか、皆本。少佐もまだお帰りにはならないだろうし」
「そうね。こんな場所じゃ落ち着かないだろうし、戻ってゆっくり休んだ方がいいかもよ?」
 こんな場所、と言ってちらりと紅葉が視線を送った先は、マッスル。視線に気付いたマッスルが紅葉を睨むが、既に紅葉の意識は皆本に向いている。
 当の皆本の反応はと言えば暫く考えるように黙り込み、こくりと首を縦に振る。それが本心ではないという事は、誰の心にも解った。皆本は、そういう子だ。本当は何か言いたいことがあったのだろうが、それを隠して皆に心配をかけまいと行動する。
 だから誰にも言わず、一人で此処に来ようとしたのだろう。医務室に入ってきた皆本は、とても気まずそうな顔をしていた。それは、これでは嘘は吐けないとわかったからではないだろうか。

□ ■ □

 兵部が部屋に戻って来た時、既に家中の灯りが消されていた。不思議に思いながらも気配を探れば簡単にその訳は知れた。部屋の中に残された複数人の残留思念。そして兵部へと宛てられたメッセージ。
 微かにその口元に笑みを浮かべながら寝室を覗けば、皆本がぐっすりと眠っている。熱を出した、とメッセージにはあったが、寝顔を見れば今は下がっているようだ。起こさぬように額に掛かる髪を掻き上げたつもりだったが、小さく呻いて、ゆっくりと皆本が目を覚ます。
「具合はもういいのかい?」
「……兵部、さん? おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
 無防備に破顔する皆本に挨拶を返して、兵部はそれで、と答えを促す。透視した限りでは明日にはまた元通り元気になっているだろうが、ただ本人の口から聞きたかった。
 起き上がろうとするのを押し留めて頭を撫でると、ゆっくりと息を吐きながら何を思い出しているのか。くすくすと笑い声を立てる。
「大したことないのに、皆心配して兵部さんが帰ってくるまで此処に居てくれたんだ。僕、一人でも大丈夫なのに。マッスルと葉さんが話し相手になってくれて、紅葉さんと真木さんがご飯作ってくれて。――皆優しい」
 それはきっと、相手が皆本だからだ。この子供だから、皆素直に接してしまうのだろう。他の人間であれば、きっとそうはいかない。
 この顔を見れば、皆本が彼らのことをどう思っているのかなんて一目瞭然だ。接していくうちに全てが伝わってきてしまう。意地を張ることが馬鹿らしく思えるほどに。
「……でも、ね。兵部さん」
「なんだい?」
「……兵部さんが居なくて、寂しかった……」
 頭を撫でていた手を止めると、その手のひらを自分の頬に当てながら、皆本はそんな事を言う。滅多に言おうとはしないその本音に、思わず固まってしまっても致し方ないじゃないか。
 しかしながら当の本人はと言えば兵部の手を頬に当てたまま幸せそうな顔をして、静かに寝息を立てている。きっと、明日皆本が目覚めてこのことを伝えたとしても、本人は覚えてなどいないだろう。夢現に見た幻だとでも思っていたのかもしれない。
 暫し固まり続けていた兵部ではあったが、幸せそうな皆本の寝顔に釣られるようにふっと笑みを零し、額へと口付けた。
「おやすみ、坊や」
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