少年が求めたものはただ唯一の居場所

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  理想郷 02  

 穏やかな眠りを妨げる、不躾な機械音。
 その音に皆本は目を覚まし、まどろみの中で手探りに音源を探し出す。手の中で鳴り続ける目覚まし時計を停止させて起き上がろうとして、皆本は身体が不自由な事に気付いた。
「……」
 その原因は考えるまでもなく。皆本を抱き枕代わりとして、抱きついて眠る男の所為だ。
 ぼやける視界の中に白銀の髪を見つけて、ぐぐ、と眉が寄る。
「兵部さん、起きて下さい」
 呼び掛けても当然無反応。腕の中から抜け出したいのに、どういうわけかがっちりホールドされて動けない。眠っているのではないのか。眠っていての所業か。  込み上げてくる溜息を堪えて、仕方無しに名前を連呼してみても、男は寝顔を不機嫌なものに作り変えるだけで目覚める気配は微塵もない。
 どうして朝っぱらからこんな苦労を、と心の中で嘆きつつ、皆本は瞬間移動で抜け出す。ベッドの上の兵部は、皆本を抱き締めていた体勢そのままで眠り続けていた。
 ベッドの端に腰掛けて重く溜息を吐いて、ふと俯いた視界に入ってきたそれらに皆本は顔を真っ赤に染め上げる。カーテン越しに差し込む朝日に照らされるその身体には、幾つもの赤い斑点が散っていた。それが何であるかなど、わからないはずがない。程よい爽快感と若干の気だるさの原因――なのだから。そしてそれをつけたのは、紛れもなく兵部だ。
 恥かしいからと、見える部位につけられる事を皆本が拒むからか、その反動でか見えない、服に隠れる部位に残される痕は多い。見える範囲でも両手では足らず、自分では見えない範囲にはいったいどれだけつけられているのか。
 なんとなく、付けられた痕をなぞって、その時の状況を思い出して皆本は一人赤面する。何だか思い出さなくてもいい余計なものまで思い出しそうになって、自己嫌悪に陥る。兵部とそういう関係になってから、どれだけの時が経ったのか。未だに慣れる事はないし、慣れなくてもいいと皆本は思っている。痛いものは痛いし、嫌なものは嫌なのだ。
 それでも、痕を残されるのは恥かしいけれど嫌なものではない。それは直ぐに消えてしまうが、確かに行為をしたという痕跡であり、兵部に求められた証でもあるのだ。それが、嫌なわけがない。
 こんな自分でも、慈しんでくれる――。
 皆本の視線の先は、幼い時分に普通人によって肌に残された一発の銃痕。その時の痛みは、悪夢となって未だ皆本を苦しめ続ける。
『嘘、だ……。どうして!?』
 それを突きつけられても、どうしても現実を受け入れる事は出来なかった。
 嘘だと、冗談だと言ってくれることを信じても、いつまでもその言葉を聞く事はなかった。
 足場が崩れ落ちていくような喪失、目の前の景色が色を失くして行くような衝撃に、皆本は抵抗する事はなかった。抵抗する術がなかったわけじゃない。それでも、抵抗しても無意味で現実が変わる事はないのだと、受け入れなければならなかった。
 信頼していた人に裏切られる絶望に、皆本はその時全てのものを手放した。何を措いても大切だったものに裏切られたのだ。世界を失った皆本にそれ以上のものは存在しない。
 なのに。
 終わったと思った皆本の世界に再び息吹を与えたもの。それが――
「光一?」
「……ひょうぶ、さん」
 背中から抱き込んでくる腕に、皆本はぎゅっと瞼を閉じる。零れ落ちそうになった涙を堪え、肩越しに覗き込む兵部を振り返る。
「珍しいですね。兵部さんがちゃんと起きるなんて」
 普段であれば放っておけば兵部はいつまでも平気で寝続ける。低血圧というのも理由の一つなのかもしれないが、ただ本人が横着なだけだ。酷い時は昼近くまで寝ていた事もある。
 振り返った兵部は未だ夢心地なのか無防備であるが、ただ寝起きという理由だけではない不機嫌さが滲んでいる。もう一度皆本が兵部の名を呼べば、唐突に腕を引かれ背中からベッドに倒れ込む。
「ちょっ、危ないだろ!?」
「何考えてたの、光一」
「え?」
「僕を謀ろうだなんて甘いね、君は。こんな顔して……」
「ん…っ」
 仰向けに倒れた皆本の身体を跨ぐように兵部が伸し掛かり、潤んだ瞳に舌先が伸びてくる。咄嗟に顔を背ければ、頬に手を添えて戻される。起きたばかりだと言うのに力で兵部に敵う事は無く、暴れるだけ無意味で体力の無駄だ。そしてやり過ぎは余計に煽るだけだとこれまでの経験で分かっているから、皆本は大人しく施されるキスを受け入れる。
 だけど、それは仕方が無いからじゃない。
「また思い出したのかい?」
 普段よりも優しいその声音に、皆本は隠す事もなく首肯する。それに兵部は小さく溜息を吐き、あやすようにゆったりと頭を撫でる。
 信じていた人に裏切られた過去を持つのは、兵部も同じだ。だから、その時の感情は誰よりも理解する事が出来る。人一倍感情を、執着を寄せてしまうのはその所為なのかもしれない。だが、ただ傷の舐め合いをする為だけに、兵部は皆本を求めているわけではない。
 それに、受けた傷はそう簡単に癒えるものじゃない。
「今度思い出したらちゃんと僕を呼べ。いいな」
「……寝てると起きてくれないくせに」
 弱っているのかと思えば、普段と変わらない素気無い言葉を皆本は洩らす。それに兵部が言葉に詰まりかけながらも努力はすると呟けば、控えめな笑い声が響いた。
「今度からは呼ぶよ。今日だって起きてくれたし」
 それに一度言った事は必ず実行してくれるという事を、皆本は知っている。信じることを止めた世界で皆本が唯一信じるのは、兵部だけだ。嘘は吐かないと知っているから、全幅の信頼を寄せる事が出来る。
 しかしそれが、皆本にとって危ういものである事を兵部は危惧している。万が一などという事は起こり得ないと思っていても、未来で何があるのか分からない。その時もし兵部の身に何かがあれば、きっと皆本は壊れてしまうだろう。
 なまじ強大な能力を持っているだけにその被害、反動も計り知れない。
 傍にいるのは、同情か、愛情か。
「兵部、さん……?」
 真剣な眼差しで見下ろしてくる兵部を、皆本は困惑したように見つめる。離れられないように指を絡めてその手をベッドに縫い止めると、兵部はぐいとその顔を寄せた。
 キスされる。そう思って皆本が瞼をぎゅっと閉じても、いつまで経っても触れては来ない。その代わりに兵部が触れたのは。
「ひゃ、あ――」
 心臓よりも少し上の辺り。銃痕がある場所だ。皮膚の引き攣れたその場所を兵部は愛しむ様に口付ける。昨晩付けた痕に混ざって色濃く残る証。唇を寄せるたびに、若い肢体は抗えぬ甘い痺れにその身を震わせる。
 そうやって皆本が過去を思い出すたび、行為を重ねるたびに執拗に愛撫を重ねていくから、そこはもう皆本にとって性感帯に近い。思い出してしまう過去の痛みに混ざる、甘やかな痺れ。それをまるで刷り込みのように身体に覚えさせられる。少しずつ過去を、塗り替えられていく。
 痛みや苦しみが消えるわけではない。それでも、同時に兵部をも思い出し、ただそれだけでも皆本は救われる。必要だと、居場所だと言ってくれる存在に癒されるのだ。
「あ、や、だ…。も、……兵、部…さん」
 ズキズキと身体を支配し始める重い痺れ。絡めた指にも力が籠り、兵部の手に爪を立ててしまう。嫌だと身を捩っても、伸し掛かる身体は離れない。
 それどころか。
「名前。名前で呼んでよ、光一」
「や、だ……! 兵部さん、おねがい、だから…」
「イヤ」
 あっさりと哀願も切り捨てられ、皆本は言葉を失う。
「〜〜〜〜っ! 京介さん!」
「なに?」
 半ば自棄のようにその名を叫べば、ぴたりと愛撫を止め顔を上げる。楽しげな表情に、なにやら負けてしまったような気がして、悔しさに似たものが込み上げてくる。睨むように見上げても何処吹く風と、兵部に堪えた様子は見えない。
 溜息一つでは昇華しきれない遣る瀬無さをなんとか無理矢理昇華して、皆本が胸元へと視線を落とせばこれでもかと散った痕の数。ぎょっと眼を見開いてしまうのも無理の無い事だ。
「ほら、寝るよ、光一」
「はっ? また!?」
「僕はまだ眠いんだ」
 ぐいぐいと身体を引っ張られ、あれよあれよと抱き込まれてベッドに戻る。折角早起きしたのに二度寝してしまえば元も子もない。それにこのままいけば昼近くまで寝てしまう可能性が大きい。
「ちょっ、京介さん! 僕は起きるんだ!」
「うるさい。休日くらいのんびりして構わないだろ」
「アンタはいっつものんびりしてるだろ! 洗濯物や掃除が溜まってるんだって!」
 時間は無駄に出来ないんだ、と抗議しても拘束する腕はちっとも緩まない。それどころか兵部はすっかり寝る体勢に入ってしまっているらしく、皆本の言葉に耳を貸す様子など無い。
 どうにか試行錯誤して見るものの、どれも意味が無い。
「大体、寝たの何時だと思ってるんだい? 全然寝足りない」
「そっ、それは京介さんがしつこいからだろ!?」
「君が強請るから僕はそれに付き合ってるだけじゃないか」
「ねだってない!!」
 漸く言葉を返してくれたかと思えばそんな台詞。顔を真っ赤にしながら反論を試みれば、ニヤニヤとしたあからさまに何か企んでいるような兵部の顔。
 思わず尻込みすれば、再び兵部が伸し掛かってくる。
「じゃあ試してみよう」
「試すなーーっ!」
 上機嫌な兵部と青ざめた皆本。
 結局皆本が寝室から抜け出す事が出来たのは、既に日も高い昼近くの事だった。
 朝っぱらから兵部の所為で重い身体を引き摺りながらシャワーを浴び、心身共にすっきりさせてリビングに向かうと、待ってましたとばかりに皆本に飛びついてきたモノ。
 べったりと顔に張り付いたそれに驚いた声を上げながら、皆本はしまったと内心頭を抱える。兵部の所為で、すっかりと忘れていた。
「今日ハ寝坊ダナ、コーイチ」
「桃太郎! ごめんっ。今ご飯出すから」
 顔に飛びついた桃太郎を引き剥がして肩に乗せながら、桃太郎の好物であるヒマワリの種を用意する。ソファに落ち着いてテーブルの上にそれを広げると、喜び勇んで一つずつ頬張り始める。
 それを眺めていれば、皆本のお腹も空腹を訴え掛けてくる。兵部のお陰で朝食を食べ損ねてしまったし、時間的には昼食の時間帯だ。冷蔵庫の中身を思い出していると下方からじっと見つめてくる視線を感じて、ヒマワリの種に夢中だったはずの桃太郎を見下ろす。
「元気ナイナ、コーイチ。京介ノ所為カ?」
「あはは。うん。僕は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
 くり、と首を傾げる桃太郎に笑いかけながらその腹を指先で撫でてやると、気持ちよさそうに声を上げる。自然と頬も緩み撫で続けてあげていると、ふと不穏なものを感じ取り、はっと身体が強張る。急に動きを止めた皆本に桃太郎が不審に見上げると、その顔は一点を凝視している。桃太郎がつられて視線を辿れば、そこには兵部の姿。
 いつから居たのかはわからないが、どうやら先程の遣り取りを見ていたらしい。分かりやすい程に不機嫌な顔をしている。どういうわけか、一緒に住んでいても兵部と桃太郎の仲は悪い。
「浮気? 光一」
「う、浮気って。何言ってるんですか、兵部さん」
「また。呼び方が戻ってる」
 どうやらそれさえも地雷になるらしい。
「コーイチガ困ッテルダロ。我ガ侭言ウナヨ、京介」
「黙れ、齧歯類」
 桃太郎も皆本のことを思っての忠言なのだろうが、兵部相手ではただ徒に火に油を注ぐだけだ。どうしてこうも大人気ない真似を出来るのか、桃太郎と言い合いを始めてしまった兵部には溜息しか出て来ない。
 しかしいい加減で止めておかなければ、そのうち超能力を使い始めるのだからたまったものじゃない。壊れた家具の片付けは皆本の仕事になるのだ。
「ほら、京介さん。落ち着いて、ね?」
 非常に重く感じる腰を上げ諌めるが、どうやら皆本が呆れ返っている内に話題は皆本の事から互いの罵り合いに変わっていたらしい。止めるなとばかりに見返されて、つい言葉を失う。また、桃太郎も桃太郎で、
「コーイチモ! コンナ奴ヲ甘ヤカスカラツケ上ガルンダ!」
 等と言い出すから更にヒートアップしてしまう。
 どちらの味方についても、ただ余計な火種を蒔くだけだろう。
 何故毎回毎回似たような喧嘩が出来るのか不思議でならないが、まあ、喧嘩するほど仲良いと言うし、と納得しても、実際に本人達に言えば仲良くないと声を揃えて応えが返って来るだろうが。
「キィ――ッ!!」
「も、桃太郎っ!?」
 ついうっかり考え込んでしまった皆本を呼び戻す、桃太郎の悲鳴。慌てて一人と一匹を見てみれば、容赦なく兵部に握り潰され掛けている桃太郎の姿。
 眼を回した桃太郎に皆本は兵部に手を離させようとするが、すっかりその眼が据わっている。
「コイツがそんなに大事なの? 光一」
「そういう問題じゃないだろっ。桃太郎が窒息するって!」
「構わないだろ、こんな齧歯類」
「ああもう! 京介さんっ」
 癇癪を起こしたように大声を上げる皆本に、兵部は眼を瞠る。その固まった隙に勢いに任せて皆本がキスすると、パッと握力を無くした兵部の手から桃太郎が零れ落ちる。それを宙で受け止めて、今の内にと皆本はキッチンに逃げる。
「お昼ご飯作るから! 京介さんは服着替えて来て! ローブでうろうろするなって何回言ったら分かるんだ!」
 まったくもう、と怒声を残しながらバタバタと消えていく姿を見送って、まいったな、と兵部の唇から呟きが漏れる。自然と漏れる笑みは、どうやら抑えられそうには無いらしい。
 暫くくすくすと笑っていたのだが、また怒られてしまわないうちにと、兵部は寝室へと足を向けた。

 一日はまだ、始まったばかりだ。
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