素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 09  

「それじゃあ、今日の授業はここまで」
 鳴り響くチャイムに、椅子を引く音が重なる。号令に従い一礼して各々教室から立ち去っていくその生徒の中に、皆本は思い出したように声を掛ける。
「兵部君」
 ざわめきの中で、そう張り上げたわけでもない声はそれでもしっかりと本人の耳にも届き、足を止めて怪訝に振り向く。なに、と問い掛けるように首を傾げる教え子に、その口元に仄かな苦笑を浮かべて皆本は手招く。
 怪訝な表情のまま、それでもどこか呼ばれる嬉しさのようなものを滲ませて、彼は傍に居た友人に一言声を掛けてから教壇へとやってくる。その背中を仕方ないとでもいうように肩を竦めて見送る友人の姿が、皆本の視界の端に映った。
「なんですか? 皆本センセ」
 やってきた兵部に皆本は周囲を気にするように視線を巡らせた後、僅かに声を潜める。
「昼休み。用事がないなら準備室においで」
「……珍しいね、皆本クンからのお誘いなんて」
「バカ」
 意外そうに目を丸くする兵部に、皆本は顔を若干赤らめて軽く額を小突く。わざとらしく痛がる素振りを見せる兵部は無視して、皆本は短く息を吐いて返事を促す。
「用事があるなら仕方ないが……」
「皆本クンの為ならそれを最優先にするけど、どうしたの?」
 相変わらず、その口から発せられる背伸びしたような言葉に溜息を吐きたくなる。それをどうにか抑えて、僕の用事はたいしたことじゃないから、と告げる。
 そして放課の、僅かな時間しかないことを思い出して皆本は要点を述べる。引き止めておいて兵部を次の授業に遅らせるのは忍びない。しかしそれにしても、ただ此方からの用件を伝えるだけであったのに、僅かな会話でも疲れてしまうのは何故か。
「今日、桃太郎を連れてきたんだよ。この前見たいって言っただろ?」
 もう以前の話になるのだが。
 実の所、今朝連れて来たのはいいものの、当の本人達が忘れていたらどうしようという懸念がなかったわけではない。ころころと感情の変わりやすいこの年頃の少年少女達は、その場の思いつき思いつきで冗談のような本気を告げたり、本気のような冗談を告げたりと、言葉裏を探るのが大変なのだ。
 薫達三人の少女達については、元は彼女達が発見したのだし、いつ連れてくるのかと迫られたりもしたものだからそう心配はしていなかったのだが、目の前の少年は果たしてどちらであったのか。
 ふと、考えるような素振りを見せる兵部にもしかして忘れていたのでは、と嫌な予感が過ぎった時、唐突に視線を合わせられて皆本は仰け反るように身を反らしてしまった。その咄嗟の反応は無意識で、自分でも驚いてしまった。
「……なにしてるの、皆本クン」
「や、なんでもない……」
 今回ばかりは呆れたような視線も甘んじて受け、はぐらかすように誤魔化してから言葉を促す。
「薫クン達にはもう話したの?」
「ああ。昨日の内にね。桃太郎の餌を持ってくるからって、前日には教えてって頼まれてたんだ」
「ふーん。……昼休み? それとも放課後?」
「昼休みだよ」
 そう告げて、腕時計に視線を落とすと自然と笑みが零れる。今は3限と4限の間の放課だから昼休みまでは約1時間。それから昼を食べてから来る約束にしているのだが、彼女達はきっと今からそわそわして、4限が終われば桃太郎の餌と自身の弁当箱を持って駆け込んでくるに違いない。今日は薫達のクラスの授業を受け持ってはいないから想像するに留められるが、容易に考えられる。
 そうなればまたいつものように説教する自分まで見えて、苦笑は抑えられない。が、感じる視線に表情を引き締めて、胡乱に見つめてくる生徒の名を呼ぶ。
「……兵部?」
 見れば、兵部はどこか詰まらなさそうな顔をして黙っている。いつもならばからかいの言葉の一つや二つは掛けてくるのに、と思っていると、皆本を一瞥した後に視線を外して、教壇を降りる。
「兵部」
 ますますわけが分からなくて呼び止めるように呼ぶと、兵部は肩越しに振り返り、
「彼女達の邪魔をしたら可哀相だしね。僕は放課後に来るよ。構わないだろ?」
「あ、あぁ……」
「それじゃ、皆本センセ。次の授業に遅れるんで」
 彼にしてはいやにあっさりと立ち去る姿に疑問を抱きながらも、引き止めることも出来ず。閉まるドアを皆本はぼんやりと見つめて、小さくなる足音を掻き消すように近付いてくる複数の足音と話し声に、慌てて準備室へと身を翻した。

 数回のノックの後、そのままガラリと開け放たれたドアに皆本は椅子に身を預けたまま振り返る。ここでそんな行動を取るのは一人しか知らず、そして振り返った先に居た人物は想像通り。
「クラスと名前と用件を述べなさい」
「えー……。2年A組兵部京介です。皆本先生に呼ばれたので来ました。入ってもいいですか」
「どうぞ」
「失礼しまーす」
 最後の間延びしたような言い方に皆本は注意をすべきかどうか一瞬悩んだが、それは許容範囲に収めてもいいだろう。
 いつまでここに居座るつもりかは知らないが、ちゃっかりと鞄まで持ち込んだ姿に笑みを浮かべつつ、きょろきょろと辺りを探る兵部に部屋の隅にひっそりと置いたケージを指差す。
「そこにいるよ」
 皆本が勧めるまでもなくソファに鞄を置き、兵部はケージの中を覗き込むようにしゃがみこむ。物珍しそうな雰囲気がどこか年相応の少年のように見えて、その背中を作業を中断して背中を見つめていると、唐突に背中が振り返る。
 やはり、皆本が反射的に身体を仰け反らせてしまうのは無意識の反応らしい。
 どこか気まずいような雰囲気に皆本はどうにか言い訳を探ってみるが、兵部は一瞬怪訝な顔を見せただけで本日二度目ともなれば追求する気もなくなったのか、いないけど、と首を傾げる。
「え、いない?」
 一瞬聞き流しそうになったその言葉を拾い上げて、皆本は慌てて椅子から立ち上がり兵部と同じようにケージを覗き込む。
 昼休み、薫達が来た時はちゃんとケージの中に居たし、それから出して部屋の中を自由に遊ばせはしたがその後またケージの中に戻したはずだ。5限が始まる前にケージの中で薫達に貰ったひまわりの種を美味しそうに頬張る姿を見ているし、桃太郎が一人でケージを開けたとも考え難いのだが。
「……あぁ、遊び疲れて寝てるんだよ」
 巣の中に毛玉のように丸くなった姿を確認して、ほっと息を吐く。一時的に預かっている身、として桃太郎の世話をしている皆本にとって万一桃太郎が居なくなれば、元の飼い主の元に戻ったのならまだしも、問題だ。
 とてもではないがあの三人の少女達を宥めることは出来そうもない。三人集まれば女は姦しいというが、一人でも十分に姦しいあの三人をどう説得しろというのか。
「ふぅん。折角僕が見に来てやったというのに、齧歯類の癖に」
「なに動物相手に喧嘩売ってんだよ。動く桃太郎が見たいなら暫くいるか?」
 それは、何も考えずに自然と零れていた言葉で。動かした手も何かを考えてやったわけではない。
 ただ、見下すような口調でもどこか残念そうな雰囲気が滲み出ていて、立ち去るわけでもなくそこにいる姿がやはりどこか物足りなさそうに見えて。
 だから引き止める言葉を告げて、それはまるで子供相手にするように頭を撫でただけなのに。
 掌の下から気恥ずかしそうに、目許を赤く染めた表情で睨むように見上げてくる眼差しに、皆本は途端我に返って慌てて手を離す。兵部も、そう乱れたわけでもない髪を手櫛で整えながら、立ち上がりさり気無く皆本との距離をとる。
「……子供扱いしないでくれない?」
「あ……、すまん。でも」
「わかってるよ。皆本センセにしてみれば僕はまだまだガキで、僕が大人ぶるとセンセが大人になれないから、だろ?」
 いつかの言葉。兵部はその言葉を覚えていたのか。
 皆本とて、それに返された言葉を、その時の出来事を忘れたわけではない。
「ま。帰れと言われても居るけどね。あ、でも、今度はセンセの家で見せてくれるなら今日は帰ってもいいかも」
「家には上げません。好きなだけいろ。ただし、僕の邪魔したら追い出すからな」
 不自然に固まっていたぎこちない空気が、通気良く流れ出す。
 兵部はソファに座って課題の問題集を取り出し、皆本もデスクに向かい翌日の授業の確認に入る。流れる静かな時は、この場にはきっと不似合いなものなのだろうけれど、二人の間ではもう馴染んだもの。
 会話がなくとも互いに気を遣う必要はない。だが、確かに相手の気配を感じる。時折背中に向けられる視線を感じながらも、皆本がそれに応える事はない。相手もそれを望んではいないだろう。姿を覗き見ることを純粋に楽しんでいる、密やかな視線。けれど背中に、それが痛いほど突き刺さる。
 きっと知らないままの自分なら気付かなかったかもしれない。でも今は、その視線の理由も、意味も、知っている。いつまではぐらかすことが出来るのかは、わからない。
 働かない頭を一人こっそりと抱えて、皆本はケージを見下ろす。丸まったままの小さな身体を見つめていると、癒されるとでも言うのか、抱える悩みが馬鹿らしくなってくる。
 暫く机に頬杖をついて眺めていると一向に逸らされない視線がついに鬱陶しくなってきたのか、眠っていたはずの桃太郎が動き出す。立ち上がり、ケージ越しに見つめてくる眼差しが何かを訴えてきているようにも見えて、皆本は桃太郎をケージから出させる。
 そのままケージを開けた腕を伝って肩にのぼり、くり、と首を傾げる。愛嬌のあるその仕草に軽く笑みを零して腹を撫でると気持ち良さそうに鳴く。その鳴き声を聞きながら肩から掌へと移動させて、一連の流れを見ていたらしい兵部の対面へと皆本は移動する。
「コイツが桃太郎だよ、兵部」
「……なんかフツー」
「ははっ。普通のモモンガなんだから当たり前だろ」
 差し出された手に、皆本も触りやすいようにと手を動かした、刹那。
「いっ」
「兵部っ!」
 ぱくり、と兵部の指先が桃太郎の口の中に消える。
 皆本が慌てて桃太郎の身体を引っ張ると兵部はさらに顔を歪めさせて、どうにか吐き出させた指先には赤い血が滲んでいた。それまで全くそういう素振りは見せなかったのに、と皆本が呆然と桃太郎を見下ろしていれば、今度はその桃太郎が白い手の中に消えていく。
「って、ちょ、兵部っ。幾らなんでも鷲掴みは……!」
「随分な躾だね、皆本クン?」
「僕がそんなこと躾けるわけないだろ!?」
 怒鳴るように言葉を返して、兵部の手から桃太郎を引っ手繰るように取り戻す。圧迫されて苦しそうにはしているが、どうやら別状はないらしいことを確認して、ケージに戻す。どうしてあんなことをしたのか桃太郎に問い詰めてやりたい気はあるのだが、如何せん相手は動物。人間の言葉を理解しようとも、喋れることはないとは十分に分かっている。
 しばらくはおやつ抜きか、などと考えながら、完全に拗ねてしまったらしい兵部と向き合う。ふん、と顔を逸らしてそっぽを向く姿は中々に子供くさい。いや、兵部はまだ十代の少年だが。
「指、見せて。桃太郎離す時に傷口抉ったかも」
 桃太郎が変な病気など持っていないことは確認済みだが、傷の大小は問わず手当するのが当然だ。差し出された白い手を取ると、深い傷でもなかったのか血はそう流れていないが、痛々しいことに変わりはない。
「悪かったな。すぐに手当てを……」
「いい」
「え……」
 立ち上がろうとした身体を腕を掴まれて阻まれ、中腰の体勢のまま皆本は兵部を見つめる。その見つめる視線の先に血に濡れた指先が持ち上げられ、それが口元まで運ばれる。
 触れそうでも触れることのない、己の口許まで迫る指を、皆本はただ眺めていた。
「舐めて」
 たった三文字の言葉が、頭を殴りつけられるような衝撃を齎す。
 ぷくり、と傷口から浮き出て白く細い指を伝う赤い軌道を眺めながら、皆本は固まったまま動くことが出来なかった。

「保健室から救急セット借りてくるから、大人しくしてろよ」
 それだけを去り際に残して白衣を翻す姿を眺めて、兵部は逸る動悸を鎮めるように深呼吸を繰り返した。指に伝う赤はもうない。代わりにそこがてらてらと透明な液に濡れている。
 その指先をただじっと見つめていると視線を足元から感じて、見下ろせばケージ越しに桃太郎が見つめてきていた。その姿に見下すように鼻を鳴らして、兵部は緩く口元を吊り上げる。
 浮かべる表情に、動揺は見えない。
「所詮齧歯類の癖に僕に歯向かおうなんて百年早いんだよ」
 兵部が勝ち誇るように笑みを浮かべ、見せ付けるように傷を負った指先に舌を這わせば、部屋の中に甲高く桃太郎の鳴き声が響いた。
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