素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 08  

 昼休みともなればあちこちから賑わう声が聞こえてくるが、教室棟を離れ特別教室棟に入ればその声も少し遠くなる。それでも、閑散としているわけではなく、人を見かけないわけでもない。
 いつも通りに昼食を摂り終えて5限の授業を確認してから、兵部は教室を一人抜け出して特別教室棟に入っている理科準備室へと向かう。本来ならそこで昼食も摂りたいのだが、あまりしつこくして呆れられたくもない。5限の授業を確認するのだって、以前に確認をせず準備室に入り浸り授業に遅刻してしまったことが皆本にばれたからだ。ばれないかと期待したのだが、教師間の情報交換も意外と侮れない。
 自分に意識を向けて欲しい、とは思うけれど、その感情が困惑であったり呆れであったりするのは嬉しくない。だから、なるべくは優等生を演じる。とはいっても、明らかにその前に似非がつきそうだが。
 胸中で一人ごちるその内容に小さく苦笑して、いつもと違う雰囲気を見せる準備室に足を止める。まず最初に見つけた普段との違いは、ドアが少し開いているという点だ。この部屋の主は几帳面というべきか、真面目な性格をしておりドアを半開きのまま放置するということはまずない。
 次に、こちらの方が兵部にとっては重要だが、部屋の中から女の声がするということだ。一人ではなく複数。声色からそれが生徒であるということが分かるし、その声は兵部にも聞き覚えがある。
 これはもしかせずとも先を越されてしまったかと内心で舌打ちしてから、兵部は何食わぬ顔でドアを開けた。
「失礼します」
 浴びせられる複数の視線。そこに驚愕と嫌そうな雰囲気が混じっている事に気付き、その視線の主達へとにこりと笑みを向ける。
「やぁ。薫クン、葵クン、紫穂クン」
「げ。京介先輩」
「なんでここに……」
 一様に歓迎する雰囲気ではないその後輩達の態度に、兵部は笑みを浮かべたまま軽く首を傾げる。それに更に後輩の表情が引き攣ったように見えたことには軽くスルーする。寧ろそれが狙いともいえる。
「先輩に対してその態度はどうかな?」
 そう告げてやると本心から嫌そうに顔を顰めてみせる三人に、自然と笑みが深まる。
 と、そんな三人の態度に密かに満足していると、別の方向から何か物言いたげな視線が感じられた。そこへと視線だけを移せば、視線通りの表情を浮かべた皆本が椅子に座ったままこちらを見ている。
「何か? 皆本センセイ」
「……別に」
 したり顔で名を呼べば、苦虫を噛み潰したような顔を返される。相変わらず心情が顔に表れやすい。
 後ろ手にドアをしっかりと閉めて、はたと気付く。この現状を――正確には兵部がこの部屋に入るまでの状況を思い出して、皆本の性格を考慮して、無意識に笑いが零れていた。くすくすと笑っていると、急に笑い出したことを怪訝に思ったのか、先客達から胡乱な表情を向けられる。
 果たして、彼女達はこのドアの理由に気付けていたのだろうか。
「皆本センセイってやっぱり真面目だよね」
 向けられる視線を無視してそう言えば、皆本の眉間にぐっと皺が刻まれる。不愉快そうなその表情は、けれど実際は単に照れているだけだと、そう気付いたのはいつ頃だったか。
 状況の読めない後輩達は兵部と皆本とを交互に見比べて、そして矛先は当然のように兵部へと向く。
「兵部先輩。後から来たくせに割り込まないで下さい。私達の用はまだ済んでないのだけれど」
 紫穂のその態度は慇懃なものであるが、言葉と表情が全く合っていない。睨んでくるような勝気な表情に、兵部はああ、と呟いて笑みを貼り付ける。
「それはすまないね。でも、どう見ても君達は寛いでるようにしか見えないから」
「皆本先生とお茶をするのも立派な用事よ? 以前から約束してたんだから」
「いやいや。君達が一方的に言って押しかけてきただけだから」
 薫達三人が座っているソファセットのテーブルの上には、明らかに手作りと思われるクッキーの盛られた皿が置かれ、それぞれの前にはティーカップも添えられている。皆本のデスクの上にも、小皿に移されたクッキーと、恐らくは珈琲の入ったカップが置かれている。
 それはどう見ても、ティータイムを寛いでいるようにしか見えない。
 兵部と紫穂の会話に呆れたように皆本が注釈を入れると、途端に三人から非難めいたブーイングが起こる。こうして三人を受け入れている時点で了承しているも同意だろうが、やはり皆本はここを憩いの場とすることに良い顔をしなかったのだろう。
「それより、兵部はどうしたんだ?」
 適当に薫達を宥めていた皆本が三人の相手をしていると埒が明かないと判断したのか、兵部へと話を振る。それに釣られておまけのように6つの眼が兵部を捉えたが、それにはただ一瞥を送るにとどめて持ってきていたプリントを取り出した。
 もののついでに、と持ってきていただけだったが、案外役に立ったかもしれない。何故ならそれを見て、三人がどこか居心地悪そうに視線を外したから。用もなく、ではなくちゃんとした理由があるのならこの場に憩いに来ている三人も強く出ることも出来ない。彼女達とて分別がないわけではないのだから。
「今朝貰ったプリントなんだけど、一箇所おかしなところがあってさ」
「え、本当か?」
 慌てて居住まいを直す皆本に、兵部はプリントを手渡してその箇所を指差す。近付いた皆本からは甘い匂いが漂っている。傍にあるクッキーのせいだろうが、普段との違いに意識が取られがちになる。
 それを悟られないようにどうにか抑えて、その間違いを指摘すれば皆本の口からは深い溜息が零れ落ちる。
「あー……、気付かなかった」
「これ何かの問題集からの応用? こういうミスは珍しいね」
「確認はしたんだけど。よく気付いたなぁ……って、まさか他の授業中にやってたんじゃないだろうな?」
「4限の古文が自習で。その時に」
 言った途端じとっとした目で見上げてくる皆本に、軽く唇を尖らせる。何を言われなくても何が言いたいのかよく分かる。
「ちゃんと出された課題は終わらせたぜ? その余った時間で、だよ」
「……ならいいが」
 目の前の棚からファイルを取り出し、問題の原紙を探る皆本を見つめていれば背中に強く突き刺さる視線。肩越しに振り向けば、意外とでも言いたそうな瞳が待ち構えている。
 それに対してなんだい、と声を掛ければ、三人はそれぞれ顔を見合わせて先に薫が口を開く。
「いやー、京介先輩って意外と真面目なんだなぁ、と」
「せやせや。授業とか結構サボってるっぽいイメージあったし、課題もちゃんとしてるんやなぁ、と」
「でも皆本先生の授業だけだったりして」
 居心地悪く告げる薫や葵とは違い、紫穂はカップを手にしたまま平然とした顔で切り捨てる。薫と葵が慌てるにも言った後では遅く、自身の発言に何か問題でもあったか、とでも言いたげに紫穂は兵部を見上げる。
 今は兵部の隣で聞こえてきた噴出し笑いは保留にして、兵部は紫穂を見返す。知り合ってからはそう時間も経っていないし、何度も会っているわけでもないが、この少女が怖いもの知らずというべきか、可憐な顔で平然と毒を吐くことは知っている。しかも事実に近いところに切り込んでくるから、彼女はただ捻くれているだけではなくきちんと相手を見て効果的に攻めていることもわかる。その観察眼には時に参る。もっとも、だからといってそれを顔に出すような真似はしないが。
「そんなに僕のイメージって悪いのかなぁ……」
「悪い、っちゅーか、寧ろ先輩が真面目に授業出てる印象が持てへん」
「毎回上位の成績だし、それなりに頭は良いんだろうなーとは知ってたけど」
「人は見かけによらないってことかしら」
「……君達さり気無く酷いこと言ってくれるよね」
 呆れを混ぜて告げれば薫と葵が慌てたように言い訳を繕おうとし、紫穂はそのつもりですとばかりの表情を見せる。彼女達は根が素直で簡単に口を滑らせることも知っていたが、あまり良いとはいえない印象を皆本の前でしゃべらせたのは迂闊だったか。
 それさえも彼女達の思惑だとすれば、三人はつくづく兵部にとって厄介な人間として挙げられる。
 やはり今日はもう諦めるべきか、と考え始めた頃、傍観者に徹していた皆本が口を挟んでくる。
「三人とも。そろそろ片付けないと5限に間に合わないんじゃないかい?」
 三人、と告げることから薫達のことだろうと思っていると、やはり皆本の視線はソファで寛ぐ三人に向けられている。皆本のその言葉に三人ははっとしたような表情で揃って時計を見上げ、慌てだす。
「うっそ。もうこんな時間!?」
「ウチ全然食べれてへんで」
「家庭科の次に体育なんて有り得ないわ……」
 昼休みが終わるにはまだ時間はあるが、調理実習室から持ってきたカップやら皿やらを片付け、次の授業に備えて着替えを済ませてグランドに出るにはギリギリの時間だろう。
 三人が慌てる理由に納得していると焦ったままの声で名前を呼ばれ、兵部は薫へと視線を向ける。
「なんだい、薫クン」
「これ、あたし達が作ったクッキー。京介先輩にもあげる」
「いいのかい? 君達は食べてないんだろ?」
「次マラソンなんだ。お腹いっぱいだと絶対走れないし、お裾分け」
「食べたかったらまた作ればええんやし」
「嫌なら無理にと言わないわよ」
 先程言いたい放題言ってしまった罪滅ぼしか、単純にそう思ったからか。
 だが特に断る理由もなく折角の差し入れなのだからと、兵部はもちろん、と頷く。
「ありがとう。頂くよ」
「味の保障はバッチリだからね。皆本先生も褒めてくれたし」
 誇らしげに語る薫に楽しみだと返すと、三人は自分の分のカップを持って立ち上がる。
「それじゃ、皆本先生。放課後にお皿は取りに来るからそのまま置いといて」
「いや、僕が片付けておくから気にしなくていいよ」
 皆本の返答に顔を歪める三人に、兵部はそれと悟られることのないように笑う。どうやら、彼女達の思いは皆本には伝わらなかったらしい。
 彼に回りくどい変化球を投げても受け取られることはない。だがかといって直球を投げても、彼はそれをやんわりと外して受け止める。本当に気付かない時もあるが、皆本はそれほど鈍感でもない。或いはそれすら演技である時もあるのかもしれない。
 十代の自分達が向ける彼への恋情など、もしかすれば皆本には全てお見通しなのだろうか。卑怯だ、とそれを詰ったとしても、皆本がそのスタンスを変えることはないのだろう。自分達が教師と生徒であるという事実が続く限り。
 でもそれでも、だとすれば彼女達にはまだ可能性がある。だが兵部は、それを抜きにしても可能性は低い。今はまだ繋がりがあるが、もしその繋がりが消えてしまえば。
 その時は、自分はどうするのだろう……。
「兵部?」
「っ、あ、なに? 皆本クン」
 怪訝な声に呼ばれ、兵部は慌てて我に返る。顔を覗き込んでくる皆本を見返して、部屋に視線を配ればいつの間にか薫達は居なくなっていた。
「また呼び方が戻ってるな。お前も人のことは言えないぞ」
「はいはい。皆本センセイ」
「はいは一回だ」
 先のことを考えても仕方がない。それに、その前までには必ず別の繋がりを作る。今よりも深く、強固な繋がりを。
 密かにそう決意しながら、先程まで薫達が座っていたソファに座り彼女達の手作りだというクッキーに手を伸ばす。
「お菓子の調理実習?」
「ああ。こういうのを渡されるとあの子達も女の子だったんだって実感するよ」
「それ聞いたら確実に喚くぜ? あの三人」
「だろうね。だからあの子達の前では我慢した」
 笑みを含んだその声をどこか面白くなく聞きながら、手に取った一枚を咀嚼する。そして椅子を回して向かい合う皆本へと、にぃ、と唇を吊り上げる。
「僕がそれを彼女達に告げ口するとは考えないの?」
「お前はそういうことはしないよ」
 簡単に、あっさりと告げてくれるその言葉に出掛かった言葉が消える。
 黙ったままクッキーに手を伸ばしていれば、皆本はそれでも、と言葉を続けた。
「顔に出てたのか三宮に言い当てられてそれなりに騒がしくなったけどな」
「皆本センセイって顔に出やすいタイプだしね」
 先程表情を読み当てられたと自分で言ったばかりだからか皆本はそのまま押し黙り、沈黙を誤魔化すようにカップに口をつける。
 ここに来る前に決めていた予定とは違ってしまったが、これはこれでまたいいのかもしれない。彼女達が兵部にお裾分けと残していったからか、のんびりと居座っても皆本も何も言わないし、雰囲気もいつもよりも和らいでいるように感じる。
 これは彼女達に感謝すべきか、と考えても実際にそれを本人の目の前で口にしようものなら一体どんな見返りを要求されるか。ならばこれは胸中に留めることが正しい選択だろう。彼女達は可愛い後輩であり、見過ごせないライバルだから。
「あ、兵部」
「なに?」
「このプリントはこのまま回収して構わないな?」
 ひらり、と持ち上げられるそのプリントに、こくりと頷き返す。そして思いついたように立ち上がって、椅子に座る皆本を見下ろすように傍に立つ。
「なんだ?」
「お菓子食べてたら喉渇いてさ。これ貰っていい?」
 指差すのは飲みかけの珈琲。
 返される呆れたような表情に、重ねてちょうだいと首を傾げれば何故か難しい顔をされる。
「……僕の飲みかけだけど?」
「今から淹れてももうすぐ授業始まるよ」
 なら一階の購買か自販機で買って来い、と言われるかとも思ったが、皆本は小さく息を吐いてカップを持ち上げる。差し出されたそれを反射的に受け取って、ぱちり、と瞬きを一つ。
「全部飲んでいいから帰る前にそれ洗って来て」
「生徒を使う気?」
「嫌なら返せ」
「あはは。するする。頂きます」
 喉を通っていく冷めかけのぬるく苦い珈琲。緩みかける頬を引き締めて、次の授業の準備を始める皆本を見つめる。すぐ傍にいるのに、触れてはいけないことがもどかしい。
 視線に気付いたのか目線だけを寄越してくる皆本に、目元を和らげる。
「その皿も洗った方がいい?」
 指差したのはクッキーの盛られていた小皿。その上にあったクッキーは、薫達が出て行く前にはもう綺麗になくなっていた。
「いや、こっちはいいよ。ありがとう」
 首を振って否と答える皆本にそう、とだけ頷いて、その場を離れる。
 準備室にも一箇所だけ水道が設けられており、そこでカップを洗って近くのコップ立てに伏せて置く。その間皆本も立ち上がり何かをしている物音が聞こえてきたが、何をしていたのかは分からない。
 それでもカップを洗い終えて皆本を振り返れば、いつの間にかラップに包まれたクッキーを手渡される。半ば呆然とそれと皆本を見つめているとしっかりと両手に握らされた。
「折角彼女達がくれたんだ。持って帰りなさい」
「……あ、うん。ありがとう」
「そろそろ予鈴もなるだろうし、お前も教室に戻りなさい。課題の訂正した分は帰りまでに担任に渡しておくから。わざわざ教えてくれてありがとうな」
「偶然早めに気付けただけだし、ついでだからね」
 何のついでであったかあえて言わなかったが、毎日のようにここに入り浸っていればそれも分かるだろう。事実皆本は複雑そうな顔をして、だが毎回のことだからもう諦めてもいるのか何も言わずに教室に戻るように促すだけだ。
 名残惜しい気もするが、今回は一つ、一方的に兵部がそう思っているだけかもしれないが進展が見られたから良しとすべきか。
 笑みを零せば怪訝な眼を向けられ、それになんでもないと返してドアへと足を向ける。
「それじゃ、センセイ。また明日」
「ああ。授業中には食べるなよ」
「僕そこまで不真面目じゃないけどなぁ……」
「冗談だよ」
 落ち込む仕草を見せればからかいを含んだ笑いを返される。それに拗ねた顔を作って、皆本と視線を合わせると同時に小さく噴出すように笑い合う。
 鳴り始めた予鈴に、ざわめきの近付いてくる気配に気持ちを入れ替えて軽く手を振るとドアに手を掛ける。
「ごちそうさまでした、皆本センセイ」
「それは僕じゃなくて彼女達に言う台詞だろう?」
 苦笑いを浮かべる皆本に、それは本心からの言葉か気付いていてあえてなのか考えたのも一瞬。どちらであったとしても、そう返されるということはまだ距離は縮められない、ということだ。
 何も言わずにただ笑みだけを返して準備室から出ると、無人の廊下を歩きながら軽く唇をなぞる。その唇が描くのは、自身に対する自嘲に近い笑み。
「単純だなぁ、僕も」
 呟いて、哂いを零す。だが、焦って事を仕損じるよりも、今はまだこの距離で我慢するべきなのか。
 思い通りにならないそれが楽しいと感じるなんて、きっとそれは相手が皆本だからだ。些細なことで嬉しいと感じるのも、同じく。
 けれどいつかは、それを二人で共有していけたら、最高だろう。
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