素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 07  

「なぁ、あれって皆本先生じゃねぇ?」
 葉に言われ振り向いたその先に。人混みの中に消えていこうとする皆本の姿。初めて見る私服姿に少しドキッとしながらも、今一番気にしなくてはいけないのはそこではなく。
 隣には皆本の腕に自分の腕を絡めて歩く女性の姿。なにやらかなり親しそうで、皆本も満更ではなさそうというか、
「何鼻の下伸ばしてんだよ」
 ふつふつと込み上げてくる怒りのようなものは、果たしてどちらに向けられたものだろうか。休日にまで皆本を見かけられた嬉しさよりも、それは遥かに上回っている。
 何と無く、自分が振ってしまったことだが、兵部に気付かせてしまった事を葉は少し後悔する。

「ねぇ、皆本クン」
 翌日。兵部はいつものように皆本の元を訪れていた。それは普段通りの行動ではあったが、その意識の大半は昨日偶然見かけることになってしまった光景についてに向けられている。あれが気になって仕方ないのだ。
 相変わらず皆本は呆れたような表情で兵部を迎えてくれたが、それも兵部の顔を見れば怪訝に変わった。一応、兵部から何か言い出すまでは皆本はその件には触れないつもりなのか、その後はいつも通り放置というか、兵部の好きにさせていたのだが。
 今までは別にそれを気にするような事はなかったのだが、人間とはつくづく臆病なものだ。いつも通りであっても何かあるのではと勘繰ってしまう。
「……なんだ?」
 今回ばかりは――この部屋に入ってきた時の兵部の様子が少しおかしかったからか――、兵部に先生と呼ばせる為に中々振り返ろうとしない皆本もすぐに振り向いてくれる。
 そんな優しさにも苛々してしまうのは、ただの八つ当たりだ。
「ねぇ、昨日何してた?」
「昨日?」
 兵部を訝しげに見つめて、皆本はふと宙に視線を飛ばす。瞬間、表情が苦く変わったのを兵部は見逃さない。
 皆本も、鈍感ではあるが兵部が何を言いたいのか何と無く察したのだろう。じっと、兵部を見つめる。
「不二子さんと一緒の所を見たんだな?」
 昨日の皆本の予定の中に飛び入り参加してきた人物。あれは皆本にとっても予想外だった。それをまさか兵部に見られていたとは。
 小さく苦笑する皆本に、兵部は彼があの女性の事を名前で呼んだ事に驚く。
「どんな関係?」
 自然と、問い掛ける声は低くなっていた。皆本とあんな親しそうに歩いていて、名前で呼ぶような関係のその人のことが気にならないわけがない。
「彼女は高校時代の先輩だよ。養護の先生の賢木。アイツの同級生」
「皆本クンは高校時代の先輩と腕組んで歩くわけ?」
 それを指摘されてしまえばと、皆本は口篭る。だがあれは不可抗力というか、ほぼ無理矢理に近かったのだが。そう兵部に言ったとしても、彼は信じはしないだろう。そんな雰囲気が兵部にはあった。
 余計な事を、と昔からトラブルメーカーに近かった不二子が恨めしい。しかしそれを何故兵部に詰問されなければならないのだろうか。皆本にだって、皆本なりの交友関係がある。
 それにまるでこれは
「……やきもち?」
 自信はなく、漏らした声は小さい。まさかな、なんて皆本は自分で振って笑い飛ばそうとして、それは出来なかった。
 小さな声でも、兵部の耳には確りと聞こえていた。珍しく赤く染まった頬が、何よりも兵部のその心情を物語っていた。だから、皆本は口噤む。
「悪い?」
「い、いや、悪くはないが……」
 睨むようにして言われ、咄嗟に首を振る。滅多にないだろう珍事に、皆本までも顔を赤らめ戸惑ってしまう。
 だが、兵部とてまさか顔に出てしまうとは思わなかったし、何より皆本本人に焼き餅かと指摘されるとは。ああなんだかすっかりとペースを乱される。こんなのは自分じゃないと思っても、どうしようもない。半ば責任転嫁のように皆本を恨めしく睨んで、気持ちを落ち着かせる。
「で、付き合ってるの?」
「まさか。急に呼び出されたから会ってただけだよ」
「へぇ? 呼ばれたら行くんだ」
 即答で否定された事に安堵するものの、その後の内容がいただけない。アポイントもなく皆本を呼び出すような女性。
 これも開き直りとなるのだろうか。もうこの際だと、兵部は皆本を問い詰めていく。
「あの人、昔から人の言う事は聞かないんだ。行かなかったらどうなるか」
「……好きなんだ」
「え?」
 断定に近い、疑問。
 皆本の不二子を思う表情は、ただの高校時代の先輩を思い出すそれとは少し違うように見える。愚痴のように零しながらも、その瞳はしょうがないと、笑っている。なんとも思っていないのなら、嫌だと感じているのなら、そんな慈愛に満ちたような、優しい表情はしない。
 皆本はしばらく兵部の顔をじっと見つめて、小さく吐息する。誤魔化す事はとても簡単に出来るが、皆本は何故かそれをしたくはなかった。
 けれど、その皆本の少し困ったような表情に、兵部は微かな胸の痛みを抱く。――困らせたい、わけではないのに。
「半年くらい、付き合ってた」
 それは、考えられる過去だった。だから想像する事も簡単なのに、実際に皆本の口からそれを聞くと胸を締め付けられる。別に誰と付き合っていたという過去があっても構いやしない。それは当たり前の事だから。
 ただそれでも。
「今でも好きなの?」
 その付き合っていた半年という期間は、どちらによって終止符を打たれたのだろうか。皆本の表情は、まるで未練を残しているようなそれだ。それを、忘れさせてあげるなんて、そんな事は言えない。
 急に現実が目の前に現れたように、感覚が覚束無くなる。
 迷子になってしまった子供のように不安一杯の表情を見せる兵部を見つめて、皆本は小さく首を振った。
「もう終わった事だよ」
「それって……」
 その言い方は、表情は
「まだ好きなんだ……」
「違うよ。確かにあの人の事は好きだけど、お前が思ってるようなことはない」
 それは、本当だろうか。その言葉を信じきれないのは、あの時の皆本の表情が忘れられないからか。自分にだって見せてくれない表情を、彼女には見せていた。それが気に入らない。
 子供染みた嫉妬だとは分かっていても、不快な気持ちはどうしようもない。それを払拭させてくれるのは皆本だけなのに、それを今求めるのは、間違っている。
 だけど――だからこそか、はっきりさせておきたい事はある。
「ねぇ、皆本クン」
「なんだ」
「……どうして、別れたの」
 ここまで聞いてしまったのなら全てを聞いておきたい。
 昨日街を歩いていた二人は本当に仲睦まじそうで、なのにどうして別れてしまったのだろう。二人の過去を穢す様な、度の過ぎたことをしているという自覚はあっても、どうしようもなかった。
 だって、皆本は、
「ったく。聞いても面白くないぞ」
「構わないよ」
 皆本は、兵部を邪険に扱い拒む事などない。
 別れ話が面白くない事くらい分かっている。綺麗な別れなんて有りはしない。たとえあったとしても、それは一部。
 皆本は小さく溜息を吐くと、ゆっくりと語り始めた。
「進路だよ。あの人は卒業したら留学する事になっていて、しばらくは日本に戻って来れそうもなかった。僕も、その時はまだ進路は決めてなかったけど、さすがに2年はね。長い。迎えに行くとも、待っているとも約束は出来なかった。だから、別れた。それに元々、彼女の留学は既に決まっていた事だったから」
 既に別れの決まっていた交際。それまでに気持ちが変わっているかもしれないし、変わらないかもしれない。そうして結局、気持ちは変わることはなく、不二子が日本を発つ前日に、別れた。別れを告げられた、という方が適切か。
 もしかしたら気持ちは、思いは変わっていたかもしれないけれど、二人とも確約できない未来に相手を束縛する事はしなかった。それでも、時折は思い出していた。たとえ別れは決まっていても好き合っていたのだから、当然だと思う。
 でもその思いも、月日の流れによって昇華した。忘れてもいたかもしれない。既に思い出となっていた。だから昨日、皆本は久し振りに連絡を受けて驚いた。番号は、互いに変えてはいなかった。それが嬉しかったのか寂しかったのかは、分からなかった。
 そこまでを皆本は話すと、兵部を見つめてそっと手を伸ばす。触れた途端、兵部の身体が過剰に揺れ動いた。
「お前がそんな顔してどうするんだ」
 泣き出しそうなというべきか、怒り出しそうなというべきか。複雑な表情だ。兵部がそんな顔をする必要はどこにもないはずなのに。……皆本の事が、好きだからか。
 皆本は手を引くと、微かに苦笑する。
「そういう別れもあるんだ。今じゃただの友達だよ。昨日呼び出されたのも、久し振りに帰国したんだからお祝いしろって奢らされただけだし」
「向こうがまだ好きっていう可能性は?」
 帰国直後に呼び出すなんて。それに二人とも番号を変えなかったのは、心のどこかでもしかしたらと思っていたからではないのだろうか。
 だがそれすらも、皆本は否定する。
「ないと思うよ」
 皆本は不二子ではないから確証は持てないが、それはないと言える。再び恋をするには、二人とも変わってしまった。だから、ないと皆本は告げる。
 それでも、兵部は納得は出来ないようで。
「もう逢うなって言いたい顔だな」
 先回りして、皆本はそう告げる。
 ぴくりと、兵部は身体を揺らすと窺うように皆本を見つめた。
「言わせてくれるの?」
 言えるのならば、言いたいのかもしれない。可能性を潰せるのならば、潰しておきたい。けれど。
「だめだ。お前にその権利はない」
「だったら」
 一度、言葉を飲み込んで、皆本を真っ直ぐに見つめなおす。
「その権利を僕にちょうだい」
 皆本を縛る事のできる権利を。不安など抱かなくて済むように。皆本が自分を見てくれるように。
 そうすればきっと、この不安も消えてくれるだろうから。
「……だめだ」
「ッ」
 拒絶。
 それは、分かりきっていたことなのに。
 カッと衝動的に沸き起こってくる感情を、兵部は制御できなかった。その勢いのままに、兵部は皆本に伸し掛かる。椅子が軋んだ音を立て、キャスターが転がり机にぶつかる。
「僕が子供だからってからかってるのか!?」
 まるで期待を持たせるような言葉、表情。裏切られたという気持ちが込み上げてくる。初めから、皆本に信じられていたわけではないけれど。まるで自分の全てを否定されたような気分だ。
 所詮皆本にとって兵部は大勢の生徒のうちの一人で、好きだというその感情さえも認められない。受け入れてくれているようでいて結局拒絶する皆本は、残酷だ。
「っ、い、たい。兵部」
 肩に食い込むように、兵部の握力は込められていた。だが兵部の感じた痛みは、そんな程度のものじゃない。心臓を鷲掴みにされたような、呼吸さえも奪われる、痛み。
 だけど皆本を傷付けたい、わけでもない。それでも、許せないとも、思ってしまう。好きだから。冗談や軽い気持ちなんかじゃなくて、本当に、皆本の事が好きだから。その一挙手一投足に馬鹿みたいに過剰反応起こして一喜一憂して、少しでも皆本の心の中に刻み付けられればと。
 ゆっくりと、肩を掴む手から力が抜けていく。深く俯いた兵部の表情は、皆本からは見えない。
「……ごめん」
 小さく呟いて、兵部は鞄を掴むと皆本を振り返る事無く部屋を飛び出していく。
 静まり返った部屋の中に、皆本の小さな溜息が響く。
「……謝るのは、僕のほうだ」
 皆本の後悔だけが、残される。だがもう、これで必要以上に関わる事は無いだろう。
 それで、いい。
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