素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 06  

 遠くまで聞こえそうなその元気な声を耳にして、兵部はまさかと一瞬浮かんだ考えを否定しながらも否定しきれずに、導かれるままに足を進めた。
 教員用の玄関へと続く廊下。まだ早い朝の時間帯、正門とは別方向のその場所に生徒の姿は見えないが、誰が通るとも分からない。現に兵部は此処に居るのだから。
 声の主は誰か知っている。一学年下の明石薫だ。という事は、彼女の親友という残りの二人も一緒に居るかもしれない。聞こえてくる話し声は、その二人に向けられたものではない。
 嫌な予感というものは高確率で的中するもので、彼女達の話し相手となっていたのは皆本だ。
「珍しいじゃないか。君達がこんな時間に居るなんて」
「うるせー。あたし達だっていつも遅刻してるわけじゃねーよ」
「ほら、女の子がそんな言葉遣いするんじゃない。それで、僕に用があるんだろ?」
 皆本にやんわりと窘められて、薫は押し黙る。小さく何か言い訳か文句か言っていたようだが、生憎と兵部のところまではその声は届かない。
 女子生徒を相手にしているからか、それとも単なる兵部の妄想か、皆本の声は随分柔らかく聞こえる。誰にだってそうやって甘い声を出すから勘違いする奴が出てくるんだ。
 この声が、自分だけに向けられればいい、なんて思う。でもそんなの無理だと分かりきってる。だからただ勘違いする自分は、焦れるしかない。
 付き添いの二人に何かを急かされる様に促されて、薫はずいと皆本に歩み寄った。
「あのさ! ……も、桃太郎、元気?」
 薫の勢いに気圧されかけた皆本は、けれどその言葉の内容にああ、と合点が言ったように頷く。
 桃太郎? と一人離れたところで兵部が首を傾げていても、四人の会話は続いている。
「元気だよ。心配してくれてたんだな」
「あ、当たり前だろ。あたしが見つけたんだから」
「ねぇ、皆本先生。桃太郎の様子見にお家に行っちゃダメ?」
「あ! 紫穂ナイスアイディア。なぁなぁ、皆本先生、あかん?」
 桃太郎とはペットか何かのことか。いつの間に皆本はペットなど飼い始めたのだろう。そんな話、一度だって聞いたことはない。
 そして何故それを薫達は知っているのか。兵部だって知らないのに。ああそんなことにもいらいらしてしまう。
 あれこれと思考を巡らせていると聞こえて来た言葉に、つい身を乗り出してしまう。心中を語るのであれば、まだ僕も行ったことないのに、だろうか。
 三人が兵部と同じ想いで皆本に好意を寄せていることは知っている。皆本もそれに気付いていて、知らない振りをしていることも知っている。そのことで悩んでもいるくせに、お人好しというか甘すぎるというか。
 自分のことはこの際棚上げだ。だって皆本は僕のものだから。
 だけど、皆本は三人を拒むだろうか。それとも家に招くだろうか。
「駄目です。簡単に生徒を家に上げるわけにはいかないだろ?」
「何で駄目なんだよ、皆本のケチ」
「ケチとかそういう問題じゃなく――。明石、ちゃんと先生と付けなさいといつも言ってるだろ」
 やはり三人が相手でも、皆本は皆本なのか。安心して、喜ぶ自分がいる事を自覚する。けれど皆本はこれが兵部であっても、そう言って断るのだろう。
 どうしたらその心の中に足を踏み入れる事ができるのだろうか。今は、例えれば玄関先で足止め状態だ。そこから先には一歩も中に進めない。チャイムを押せばドアから顔を出して用件は窺ってくれるのに、中には入れてくれない。
 だからどうにかドアを閉められないようにと、兵部はドアの隙間に片足突っ込んで。皆本はその足を傷付けない様に言葉でやんわりと拒絶する。ドアを閉めればいいのに、それで傷付く事を悲しんでいる。
 ムカつくほどに優しい人だ。優しさは時に刃にも勝る傷を付けることを知らない。
「その代わり今度桃太郎を連れてくるから」
「本当!?」
「ああ。けど内緒にするんだぞ。前もって教えておくから」
「絶対だかんな?」
「勿論。ほら、折角早く来ても教室に居なきゃ意味ないだろ? 行きなさい」
「はーい」
 此方へと向かってくる三人に、兵部は影へと隠れて去っていく背中を見送る。そうして現れた一つの背中に、静かに声を掛ける。
「おはよう、皆本センセイ」
「うわぁ!?」
 完全に不意を突かれたからか、素っ頓狂な声を上げて皆本は振り返る。悪戯が成功したようで気分がいい。もやもやしていた気分も皆本の叫びでどこかに飛んでいった。
 吃驚した、と皆本は兵部を凝視して、ふと首を傾げる。時折見せる、無防備な姿だ。普段隙など見せないようにしているくせに、些細な時に隙だらけになる。
 だけどそうやって無用心なまでに無防備な姿を曝してくれるから、逆にこっちは戸惑ってしまう。信頼を裏切るようで、踏みとどまってしまうのだ。
 きっと想いを告げたその時から、裏切っているのに。
「何で兵部が此処に居るんだ?」
「んー……、散歩?」
「……僕に聞かれても分かるわけないだろ」
 呆れたように溜息を吐く姿に苦笑して、兵部はそのまま皆本を引き止める。此処で皆本を放してしまえば、また準備室に籠ってしまうだろう。あそこは皆本の城だ。籠られてしまえば、対応に困ってしまう。無理強いをしたいわけじゃない。少なくとも今は。
 けれど先程薫達にも捕まっていたし、あまり引き止めて時間を割かせても迷惑だろうと、兵部は単刀直入に用件を告げる。
「桃太郎ってなに?」
「え? ……あ、聞こえてたのか?」
「うん。幾ら人気がないっていっても気をつけないと変な噂流されるよ」
 不思議そうな顔をしていた皆本も、たった今話していたことを思い出したのだろう。少し困った顔をして質問を返してくる。それに忠告も交えて答えてやると、苦笑いが返ってくる。
 まあ、皆本にとっては不意打ちだっただろうし、先程の会話だけで変な噂を流されては邪推のし過ぎだ。――もっとも、皆本以外の当人達は喜びそうだが。
 ああそれは許せない。もしそんな噂流れたら全力で消してやる。……その前に既成事実でも作ろうか。
 感情が乱される。その自覚はある。だから兵部はそれを表には出さないようにする。皆本を怯えさせたい、わけでもない。……はずだ。自分の心がよくわからない。
「それで、桃太郎ってのは?」
 再び問い掛けると、皆本はうんと曖昧に頷いて兵部を促して歩き出す。つまり、誰かに聞かれても別段困る話でもない、という事なのだろう。
 兵部も僅かながらに話を聞いていたのなら大体は想像が付く。
「学校に迷い込んでいたモモンガだよ」
「モモンガ? なんでまたそんなのが」
「多分誰かがペットとして飼っていたのが逃げ出したのか、捨てられたのか。……とにかくそのモモンガを彼女達が見つけて、でも誰も家で飼えそうにないから僕が飼うことになったんだ」
「へぇ」
「元々躾けてあったからか部屋の中でも大人しいし、飼うのもそう困らなくてね。最初から僕にも懐いてくれて、可愛いんだ」
「ふぅん……」
 そのモモンガのことを思い出しているのか、皆本の浮かべる表情はひどく穏やかだ。
 なんとなくそれが気に入らない。この感情がそのモモンガに向ける嫉妬でも、馬鹿馬鹿しくても気に入らないものは気に入らない。
「ねぇ、皆本センセイ」
 呼びかけに振り向いた皆本が、足を止めた兵部に倣うように足を止める。思いつめたように真剣な兵部の表情に、掛けようとした声も掠れてなくなってしまう。
「その桃太郎と僕と、どっちが可愛い?」
 ああなんて馬鹿な質問をしているのだろうか。目を丸くする皆本に、少しだけ言った事を後悔する。
 それでも皆本はきっと茶化す事無く真面目に答えてくれるだろうと期待してしまうから、こんな馬鹿げた質問もしてしまうのだ。
 それはどれくらいの時間だったのか。
 流れる沈黙を破ったのは皆本で、僅かに空いた二人の距離を縮めてそっと手を伸ばす。
 その手で軽く頭を叩かれて、兵部は瞠目する。
「馬鹿だな、比べられるわけないだろ」
 示された答えが兵部の望むものでなかったとしても、その言葉に安堵する。
 自然と緩くなる口元をそのままにいつまでも頭上に置かれた皆本の手を払い、僅か上にある顔を見つめる。
「それはどうして?」
「どうしてって……、人間とモモンガじゃ比べる対象にならないだろう」
「……うん。わかってた。わかってたよ、皆本クン。期待した僕が馬鹿だった」
「な! 何だよその言い草は」
 そこで違う答えを期待してしまうのは、惚れた欲目とかいうものだ。だが皆本の性格を考えれば、そんな言葉が出てくるはずがないのだ。
 それでも、不機嫌に顔を顰める皆本に君の方が可愛い、なんて思ってしまう兵部は既に末期だ。本当に何故こんな鈍感な人間に惚れてしまったのだろうか。
「兵部? お前人の話ちゃんと聞いてるのか?」
「聞いてるよ、聞いてます。……あ、皆本センセイ。もう一つ質問」
「……なんだ?」
 不機嫌さを装いながらも、皆本はそれでもちゃんと兵部に応えてくれる。
 だからこの質問は少し、やっぱり子供っぽいのかもしれない。
「僕も見てみたいな。その桃太郎って」
 純粋な興味を半分と、嫉妬を半分と。
 皆本は訝るように兵部を見つめていたが、学校に連れて来ると宣言した事も聞かれていると分かっている上でか、断る理由もないからか、こくりと頷く。
「ありがとう、皆本センセイ」
「いーえ。それより兵部も教室に戻ったらどうだ?」
「うん。そうだね」
 あっさりと兵部が頷いた事が意外だったのか、皆本は驚いたように眼を丸くする。その反応につい、笑いが零れてくる。
 一応聞き分けくらいはできるんだけどなぁ、と皆本に持たれる印象に少々落ち込みたくなる。だがそれは逆を言えば、皆本は兵部がここでごねる事を期待していたのではないだろうか。
 本人に確認すれば確実に否定されるだろうから、その疑問は自分の胸だけに留めておく。そうやって少しずつ、自分のことを考える時間が増えればいい。此方は元々長期戦の覚悟もしているのだ。ただ、それに理性が耐え切れるかは別として。
 思わぬ伏兵が居た事に焦りはしたものの、モモンガ如きに何が出来るというのか。

 だがその考えが覆されようとは、このときの兵部は微塵も思いもしなかったのだ。
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