素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 05  

「兵部。お前まだ帰らないつもりなのか?」
 放課後になれば必ずと言っていいほど現れるようになった生徒。最初の頃は口煩く注意していたのだが、言ってもあまり効果がないと分かってからはもう居座られる事は諦めている。
 それに来ても課題を終わらせているか読書でもしているか、皆本の邪魔をするわけでもない。ただ、その慣れない気配に戸惑いはするが。もちろん、慣れないというのは苦手という意味ではなく、違和感、のようなものだ。それまでなかったものが急にあるのだから、簡単には慣れない。
「傘忘れたんだよ」
「傘?」
 はて、この会話で何故傘の話題が出てくるのか、皆本はことりと首を傾げる。するとほんの僅か、馬鹿にするような顔をされ不快感が込み上げてくる。
 なんだ、分からないんだから仕方ないだろう。それにその顔は仮にも――認めてはいないが――想い人に向けるものなのか。――あぁ、いやいやそうではなく。一応、というのもおかしいが、自分は教師であるのだが。
「皆本センセイ、外」
 促されて、皆本は窓に目を向ける。外は薄暗く、どうやら雨が降りだしているらしい。そういえば、夕方からの降水確率は70%だったか。いつ降り出すかと思っていたが、ついに降り出したらしい。集中していて気付けなかった。
 降り出した雨を意識の中に入れてやると、雨音がBGMに変わる。
 僕が此処にいる理由が分かったかい、とでも言いたそうな兵部の表情にならば仕方ないか、と納得しかけて、ストップをかける。確かに今雨が降っているのは分かるが。
「授業終わったらすぐに帰ればよかっただろう」
 そうすれば家に辿り着くまでには雨に降られずに済んだはずだ。皆本の記憶が確かなら、6限目が終わった時にはまだ降っていなかったはず。どんよりとした曇り空を見ていれば、いつかは降り出す事も分かったはずだ。
 階下の地面の濡れ具合を見てみても、降り出してからまだそう時間が経っていないはずだ。
 そう言えば兵部は実にあっけらかんとしたような表情で
「だってそうしたら皆本センセイに逢えないだろう?」
 何を当たり前のことを、と言われても、それは兵部の中での当たり前だろう。皆本にとっては違う。確かに今日は兵部のクラスでの授業はなかったから今日はこれが初顔合わせだが、それは別に皆本の所為でもないし。
 意図して兵部を避けたわけじゃない。
「それで、皆本センセイは僕に濡れて帰れって言うの? 風邪引いたらどう責任取るつもり?」
 自業自得だろう、との反論は心中で押し留める。どうせ碌でもない言葉を返されるだけだ。それにこのくらいの雨に当たったくらいで風邪を引くような繊細さがあるのか。
 口には出していなかったつもりだが、顔には出てしまったのだろう。兵部の顔が不快に歪むのが分かって、皆本は慌てて表情を引き締める。
「職員室に行けば借りられるだろう」
「嫌だよ。誰のものとも知れないものなんて」
 この我が侭め。
 じっと見つめてくる眼差しが何を語らんとしているのか、分からないわけではない。分からなくはないのだが、分かりたくない。しかしここで視線を先に外してしまえば負けの気がするのは気のせいか。いや、負けというか、駄目というか。ドツボにはまりそうな気がする。
「送ってよ、皆本センセイ。どうせ車だろ?」
「タクシー代わりに使う気か」
「違うよ。センセイの車に乗りたいんだ」
 こういう時に、目の前にいる人物はただの大勢の中の一人の生徒なのではなく、皆本に好意を寄せる一人の男なのだと、分からせられる。大人にはなりきれない子供っぽさを残しながらも、その芯はもう完成しつつある。
 真剣な眼差し。本気を滲ませるその眼差しからは簡単に逃れられない。たとえ一瞬でも隙を見せてしまえば、そこからあっという間に切り込まれてしまう。――だから、暴こうとしないでくれ。お願いだから。
「……まだ仕事が残ってるんだ。遅くなるぞ」
 ふいと、不自然にならないように皆本はそう呟いて背を向ける。これであの眼を見なくて済む。そう思っても、薄暗い外のお陰で窓は鏡のように代わり、じっとこちらを見つめてくる兵部の姿が映っている。ここで気を抜いてはいけない。
 鏡の中で交わる視線。真剣さを滲ませていたその視線が、不意に柔らかく変化する。大人から子供に変わる瞬間。
「ありがと、皆本センセイ」
 今日だけだ。何故かそう言おうとした言葉は出てこなかった。だから再び課題をし始めた兵部に倣うように、皆本も目の前の仕事を片付け始めた。

 準備室の鍵を閉めると、皆本は壁に凭れるように立っていた兵部を振り向く。その後ろに見える外では、また雨足が強まったらしい。湿度が高くなったせいか、廊下にいてもそのジメジメとした感覚が伝わってくる。
「職員用の昇降口で待っていてくれ。僕は一度職員室に寄ってくるから」
「うん。わかった」
 素直に頷いて先に歩き出した兵部を見送り、皆本も少し遅れて歩き出す。人気の消えた校舎は閑散としている。部活動も既に終わり、残っているのは教師くらいではないだろうか。そう考えると、この時間まで兵部を残していても良かったものか、考える。
 ここは生憎と、というべきか皆本はクラス持ちではないから当然兵部の家庭環境も知らない。知っていることはといえば精々、生徒間、教師間で噂されるその話を聞くくらいか、授業中に見る彼の態度くらいだ。最近ではそこに皆本と二人で居る間、と増えるのだが、それでも学校に関係する以外の会話はあまりしないように思える。
 それに会話と言っても、兵部が話しかけてきてそれに皆本が受け答えをするだけ。皆本から何か兵部に話しかけても、ごくごく他愛もないことだ。そこからいろいろと兵部が広げようとするから、会話として成立しているだけ。
 結局何がしたいのだろうか、自分は。
「お待たせ、兵部」
 外をじっと見上げていた兵部は、呼び掛けるとゆっくりと振り返る。その顔がどこか安堵しているようにも見えて、皆本は戸惑う。まさか、来ないとでも考えていたのだろうか。
 だがいくらなんでもここまできて兵部を放って帰るような人でなしではないし、交わした約束は守る。それに、皆本の靴は此処にあるわけだし。今更逃げるような事はしない。
「駐車場まで少し歩くからな」
 広げた傘は男性用と言っても、それなりに身体の出来上がりつつある兵部と入れば狭くなる。一応は送ってもらうからと自覚しているからか、兵部は素直だ。素直に皆本と傘に入って、歩き出す。何か言われるかな、と構えていたから少々面食らう。
 濡れないように傘を傾けると、兵部の視線が皆本を捕らえた。だが、皆本はあえて視線を合わそうとはせずに、兵部を車の助手席に誘導する。
「ほら」
「……うん」
 兵部が乗り込むまで皆本はその傍らで傘を差し続け、ドアが閉まると運転席に回り込む。少ししか歩いてはいなかったが、足元が少し濡れてしまったらしい。これだから雨の日は嫌いだ。洗濯物も乾かない。
「皆本センセイ」
「ん?」
 声を掛けられ、横を向いた皆本に差し出されたハンカチ。今時の高校生でもちゃんと持っているのか、それとも兵部が珍しいだけか。
 名を呼んだきり何も言わない兵部に小さく苦笑して、皆本はそれを受け取る。どうやら兵部を濡らさないように位置を譲っていた事もバレているらしい。皆本はハンカチを右肩に押し当てて、水分を移す。
「別にそこまで気を遣わなくていいよ」
「風邪引いたらどう責任を取ると言った奴が何を言う」
「…………」
 無言のまま僅かに俯く兵部の姿を、皆本はどこか新鮮味を感じながら見つめていた。だが兵部がそう言わなくても皆本はただ自然と兵部を濡らさないようにしていただろうし、別に気を遣ったつもりもない。ごく自然と身体がそう動いていただけだ。
 濡れたハンカチを返そうとして、皆本はその手を引く。怪訝に見つめてくる兵部にやはり小さく苦笑して
「洗って返すよ」
 それだけを言って、皆本はエンジンを掛ける。隣から真意を探るような視線を感じながら、シートベルト、と呟くと渋々と視線が離れていく。
 助手席に誰かを乗せるのは久し振りだ。生徒を乗せるのは当然初めてで。兵部とは二人きりでいることもあるが、ここまでの近距離は初めてかもしれない。しかも逃げ場の無い密室。微妙に漂う気まずさを紛わしてくれるのは、外から聞こえてくる雨音。
「遅くなっても大丈夫なのか?」
「……平気だよ。うち、放任だし」
 少なくとも兵部は皆本の前で家に連絡は入れていない。昇降口で待っている間にでも入れたかと考えたが、兵部の口振りではそれもないだろう。僅かな間と、無関心ささえ漂わせる投げ遣りの言葉。
 なんとなく、そこは踏み込んではいけない領域だと、悟る。だから皆本もそれ以上は言わずに運転に集中する。その、暫くして。兵部が不思議そうな声を出す。
「皆本センセイ、家知ってるの?」
 流れる景色は兵部の見覚えのあるものだ。ナビはしていなかったのに、と視線を向けると、丁度信号待ちで皆本が振り向く。
「職員室で確認してきた。だから寝ててもちゃんと送ってやるぞ」
「え……。襲わない?」
「誰が襲うか! ……ったく、もう次からは送ってやらないからな。ズブ濡れになってでも一人で帰れ」
「やだなぁ、ほんの冗談だって。ほら、信号変わったよ」
 兵部に促され、渋々と車を動かす。なんとなく釈然としないが、後続車にまで迷惑を掛けるわけにもいかない。
 家の話題が出たときよりも車内の空気は穏やかに変わっている。それに兵部も気付いたのだろう。口元に苦い笑みを浮かべて、雨に濡れる景色を見つめる。
「別に普通の家庭だよ。ただ少し子供に関心がないだけで。でも別に蔑ろにされてるわけじゃないし、今は子供よりも仕事が大事なんだろ」
 兵部のそれは皆本に聞かせているのか、自分自身に言い聞かせているのか。それが事実であるのか、そう思い込もうとしているのか。
 だが他人で部外者でしかない皆本にその真実は分からない。皆本は正面を見据えて、ハンドルから片手を放すとその手を兵部の頭に乗せる。あやすように軽く叩くと、視線は正面を向いたまま
「あんまり大人ぶるなよ」
「……説教?」
「いや……。お前がそうやって大人ぶると、僕が大人になれないだろ?」
 だから少しは肩の力を抜けと最後に軽く肩を揉んで、皆本はハンドルへと手を戻す。
 暫く車を無言で走らせ続け、一軒の家の前で静かに停める。家から灯りの零れていない事に皆本は僅かに顔を顰めたが、なんでもないように兵部に着いた事を告げる。
 兵部はシートベルトを外し、しかし一向に降りようとする気配は見せない。怪訝に皆本が兵部へと身を乗り出すと、唇に触れた、何か。
 啄ばむようにして離れた何かを、理解する事は出来なかった。
「送ってくれたお礼。ねぇ、皆本センセイ。好きだよ。だから僕は貴方に対等に扱って欲しいんだ。……でも、これからは子供の特権も使わせてもらうよ」
 そう言い残して、兵部は車から降りると玄関へと走っていく。ドアの中に消える前に一度振り返ると皆本に手を振って、消えていく。
 それを半ば呆然と見送って、皆本はハンドルに突っ伏した。
 微かに、何かの言葉を紡いだ唇。

 呟きは誰にも聞こえない。
 その真相を知るのは、車を包み込むこの雨だけ――。
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