素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 03  

 それは高校最初の夏休みも開けたばかりの、まだ夏の暑さと休みの余韻を残す新学期直後の事だった。
「兵部ー、今日から来る新任、どんな奴だと思う?」
「さあ? 興味ないね」
 葉に言われて、兵部はそう言えば理科の担当教諭が1学期で辞職した事を思い出した。夏休みに入る直前の終業式でそんな話をしていたように思うが、もう一月以上も前の事だ。興味がないことを一々覚えてなどいられない。
 あっさりと受け流す兵部に葉は何か言いたげに視線を向けるが、一向に口は開かない。いい加減突き刺さる視線に面倒になって話に乗ってやれば、途端口を開く。
「何か知ってるのか?」
「うん。夏休みにちらっと見た」
「……真木さん追いかけてったついでに?」
「そー。職員室に行ったら偶々居てさ」
 真木司郎。この学校の数学教諭で、藤浦葉のはとこに当たる人物だ。幼少期より本家で遊んでもらっていた事もあり、葉にとっては歳の離れた兄のような存在に近い。しかし、この高校に入学を決めたのも真木が此処に勤めているからだ、という理由からそれだけではない執心振りが窺えるだろう。
 もっとも、それは真木本人も知る由もないことだが。精々が兄離れしない弟――のようなものとでも思っているかもしれない。
 教員にも盆休みはあるがそれ以外の休みというものもあまりないらしく、本家に数日帰省しただけで帰ってしまったらしい真木に、葉は毎日会いに行くストーカー……もとい、健気さを夏休み中見せていた。ちゃっかりマンションの鍵も手に入れているものだから、戦果としては上々か。
「それで? どんな奴だったわけ?」
「優男風。真木さんみたいにガタイがいいわけでもないし」
「あー、はいはい。惚気なら聞かないよ」
 犬猫にするように手を払ってやれば、葉はむっと顔を顰める。顔を顰めたいのはこっちの方だ。結局惚気を言いたいが為に新任をダシに使ったのか。
 それに、どうせ後数分もすれば此処にその新任教師はやってくるのだ。実際に隣の準備室にいるのだろうし。
 そして授業開始のチャイムと同時に、葉曰く優男風の新任教師は内ドアから現れる。
 スーツの上着を脱いだその代わりに白衣を着たその男は、確かに葉の言う通りだろう。ガタイがいいわけでもない、どちらかと言えば軟弱そうで、しかし掛けたレンズの奥の瞳は気が強そうだ。
 童顔なのか大学出たてと言われても納得出来そうな容姿に、室内がざわつく。
 そのざわつきに室内をぐるりと一瞥して、その男は黒板に己の名を書き綴った。

 皆本光一。

 どうやらそれが新しい担当教諭の名前らしい。
「初めまして。退職された佐野先生の代わりに君達の授業を受け持つ事になった皆本光一です」
 声質も柔らかだ。声変わりは当然しているだろうが、低くはなく落ち着いた声、とでもいうのだろうか。黒板の字も――これは自分の名前だからかもしれないが――読みやすい丁寧な字だ。
 中には居るのだ。読めはするが汚い字を書く教師が。それは慣れれば問題ないだろうが、少し辟易する。
「授業を始める前に、まず皆にテストを受けてもらう」
「えー」
「一応君達の成績は見せてもらったけど、これからの授業をスムーズに進めていく為だ。問題は中学校と一学期の復習だから難しくはないはずだよ。ほら、教科書閉じて」
 上がる生徒達のブーイングも諌めて、皆本は教科書が片付けられるのを確認すると各テーブルずつにプリントを配っていく。
 実験室は数人ずつグループになって机に座っている為に隣との間隔も狭い。それを分かっているはずなのに、カンニングはありえないと思っているのか、それも実力のうちと考えているのか。
 生徒全員に行き渡ったのを確認すると、皆本は腕時計に目を落とす。
「時間は30分。分からなくても最後まで諦めない事。――始め」
 一斉に、静まり返った室内にペンの走る音が響く。問題は皆本が始めに言ったとおりこれまでの復習問題で然程難しいレベルのものではない。これならば制限時間一杯掛ける必要もないだろう。
 30分もの間、皆本はどうしているつもりなのか。ふと気になってプリントから視線を上げると、室内を見渡していたらしい皆本と視線が合ったような気がした。すぐにその視線は皆本の方から外されたが、問題を読み解いていると近付いてくる足音。
「どこか分からないところでもあった?」
 どくんと、心臓が跳ねた気がした。耳元で皆本の小さく抑えた声が聞こえ、フレグランスの仄かな香りが鼻腔を擽る。
 兵部が何も言わないでじっとしていると少し困惑したような呟きが漏れ、兵部君、と名を呼ばれる。どうして、なんて馬鹿らしい疑問か。解答用紙には既に氏名を記入済みだ。
「……いえ、なんでもないです」
「そう。じゃあ、頑張ってね」
 兵部が答えると、皆本はそれだけを言って教壇へと戻っていく。まるでそのタイミングを計ったように、室内に響いた高い音。
 その音に釣られたように皆本の足が止まり、ややして後方へと歩いていく。男女別、五十音順に前から机に座っていく並びで、室内の後方は女子生徒の席だ。小声でのやりとりが兵部の耳に聞こえてくる。

 −大丈夫? 
 −はい。すみません、皆本先生。
 −いいよ。気をつけてね。
 −ありがとうございます。

 どこか浮ついた、弾んだ声に苛立ちが生まれる。ついシャープペンを握る手に力を入れれば、芯が折れた。ついでに机の下で軽く足を蹴られ、犯人が誰かなんて見なくても分かる。
 左隣からじっと向けられる視線も無視して、カチカチと芯を伸ばしてまた問題に取り掛かる。
 ――ああ。折角気分が良かったのに台無しだ。
「…………」
 問題を解く手がぴたりと止まる。どうして気分が良かったんだ? ただ、今日初めて会った新任教師と少し言葉を交わしただけなのに。それのどこが。
 一度考え出せば走り出した思考は止まらない。途中で投げ出すのも気持ち悪く、また教壇に戻った皆本を盗み見れば、端の方で椅子に座ってじっと教科書を眺めている。僅かに俯いたその姿勢では生憎表情が見えない。

 ああ、イラつく。

「ひょーうーぶっ」
「黙れ」
 教室へと戻る途中、浮ついた声と共に背後から何者かに伸し掛かられ、兵部は素気無くその身体を引き剥がすと、一人でさっさと歩き出す。
 兵部にこんなことをするのは葉しかいないし声で既に分かるし、何を言いたいのかもわかる。
 だから五十音順の並びは嫌いなんだ。どうして兵部の次は藤浦なんだ。なんで深田でも深町でもいいからこのクラスには居なかったんだ。
「やだなぁ、兵部。俺まだ何も言ってないのに」
「うるさい黙れ。真木さんにお前の悪行バラすぞ」
 子供染みた脅しでも、これは葉に限り有効な手段だ。
 どうやらすっかり虫の居所の悪いらしい兵部に葉もそれ以上言おうとはしない。葉も真木に過去のあれこれをバラされても困るし、これまでの付き合いで踏み込める領域くらいは分かっているつもりだ。それでもただ、兵部が他人を気に入るとは珍しい、と思っただけなのだが。
「次の授業なんだっけー」
「葉の嫌いな笹原女史の数学さ」
「げ。あーもう、なんで俺らのクラスは真木さんじゃないのさー」
「知るかよ。真木さんがお前なんかに教えたくないって言ったんじゃないか?」
「…………根に持ってるね、兵部クン」
「何の事だか知らないね、藤浦クン」
 葉の深々とした溜息が廊下に響く騒音に消える。

 この僕がまさか一目惚れだなんて信じられるわけないだろう。何も知らない相手、ただ一言二言言葉を交わしただけの相手なのに。
 それなのに理屈でも何でもなく、あの人を手に入れろと本能が囁いていた。

 あれは、僕のものだ。

「こら、兵部」
「っ」
 急に現実に聞こえて来た声に、兵部ははっと目を覚ます。微かに痛む頭を押さえて顔を上げると、至近距離に皆本の顔があって驚く。その兵部の反応に、皆本も驚いたように少したじろいだ。
 皆本の手に握られた教科書、今自分が居る場所を確認して、兵部は先程のは夢だったのかと納得する。そう過去のものではないはずなのに、随分と昔の記憶のように思える。
「全く。勝手に部屋に入ってきて居眠りとはどういうつもりだ?」
「いいじゃないか。もう放課後なんだし」
「良くない。此処はお前の部屋じゃないんだぞ」
 あの頃に比べれば、随分と気軽に皆本と話しているものだ。当時は確か、必要最低限のことしか話していなかったように思える。その中で皆本の中に自分の印象を残そうと色々と努力したものだ。
 その甲斐あってか一年も終わり頃には皆本からも話し掛けてくれるようになって、そしてつい先日。想いを告げた。
 皆本がそれを冗談か若しくは勘違いだと解釈しているのは知っている。それでも今は構わないと思う。少なくともそのお陰で、以前よりも親密に話せている……はずだ。
 なんだかんだ言いながらも皆本は兵部を全否定する事はないし、以前のまま接してくれている。準備室に勝手に出入りする兵部に対しても、口で注意はするが強制的に追い出した事はない。
 それが皆本の優しさなのかもしれないが、少なくとも今はそれに甘えることにする。
「ねぇ、皆本センセイ」
「なんだ?」
 呼びかければ、きちんと振り向いてくれる。
「追試ちゃんと出来てただろう?」
「……ああ。さすがだな。今度からちゃんと解いてくれよ」
「見返りは?」
「んなもんあるか! 学業は学生の本分だ。ちゃんとやるのが当たり前だろ」
 気付いてないならそれでも構わない。
 いつかはきっと自覚させてやる。

 皆本センセイはもう僕に惚れてるんだよ。
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