甘く切なくあたたかく、優しい死を彼らに

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  Lacrimosa ep.2-03  

 純真でいられる彼を羨んでいるのか、憎んでいるのか。
 何故彼はと、僻んでいるのか。
 醜い心に自分自身ですら嫌気が差す。そうしていながら、偽善者の振りをしている自分にも、余計に。彼と自分では何が違うのか。どうして自分にはこんな運命しか用意されていなかったのか。
 八つ当たりだと自覚しておきながら、彼の知らぬところで彼に当たる。きっと彼にとっての自分は、自分じゃない偽者に違いない。
「きっと僕もあのままでいれば、彼と同じになれたかもしれないのに」
 そんな、夢物語はとっくに捨てたというのに。愚かにも拾い上げてきてしまったのか。
 口元に浮かぶ自嘲の笑み。こんな自分を知れば彼はどう思うだろうか。同情するだろうか、憐れむだろうか。だがそのどちらも、欲しくはない。
 陽の当たる居場所を用意された彼になど、自分を思う資格など与えはしない。
「一度黒く染まった白は、どんなに白く塗り替えても完璧な白にはなれない。良くて灰色だ。どっちつかずの中途半端な色。でも白く染まることは出来ず、だが黒くなることは出来る。……僕に用意されたのは、黒に染まる道、か」
 それとも、ただ自分で灰色だと思い込んでいるだけで、もうとっくに黒く染まっているのか。ついた穢れは綺麗にはならない。一生身についたまま。後戻りも出来ないから、落とすことも出来ない。
 綺麗にしたつもりでも、どこかで残り続ける穢れ。
「……さぁ、呪うべきは誰か」
 込み上げてくるおかしさをそのままにクスクスと嗤う。
 月明かりに照らされた部屋の中で笑い続ける皆本のその表情は、その通り笑っているようにも、泣いているようにも見えていた。全てを失くし孤独を選ばされた皆本に、真逆の存在はただ眩しいだけ。羨望を通り過ぎ憎しみへと成り果てる。
 一頻り嗤いを零して、皆本は表情を変える。どこまでも冴え冴えとした冷たい瞳。その眼差しがドアを見つめると、それがひとりでに開けられその向こう側に人影が見えた。
 その影に向かって、皆本は薄く笑みを浮かべる。
「仕事熱心だな」
「……何を話していた?」
 皆本の揶揄する言葉も無視をして、男は遠慮なく部屋に足を踏み込ませると後ろ手にドアを閉めた。射てくるような眼差しに皆本は笑みを見せたまま、小首を傾げて寝台に腰掛ける。
「特には何も。お前に報告することは何もないよ」
 それとも世間話も報告義務にあるのかと問い掛ければ、男は無表情なその顔を僅かに歪めさせる。きっと男のこの表情をあの子供は見たことがないのだろうと思えば、湧き起こるのは優越よりも苛立ちに近い。
「では、報告すべきことを報告してもらおうか」
 呆れを孕んだようなその声音に、皆本は静かに深く息を吐き出す。そして緩く頭を振って、それまでの意識を払拭させる。あれもまた、この男に対する八つ当たりだ。自分は他人に八つ当たりしなければ正気も保てないのかと、うんざりする。
 この男が悪いというわけではないのだと、十分に分かっているはずなのに。
 皆本が纏う雰囲気を軟化させれば、男の雰囲気も変わる。労わるような眼差しは、居心地も悪くなるが心地良くもある。彼は、この男は同情などはしないと分かり切っているから、それを受け入れられる。
「……昼は随分長引いたようだな」
「あぁ。今回は演習と同時だったしな。何人か出入りがあって、将校は……最後まで部屋にいたか」
「私はあれ以降見なかったからな。……だから、か」
 溜息と同時に吐かれた呆れに皆本は小さく喉を鳴らす。
「すまないね。日帰りの予定が一泊になって」
「お前の所為ではないだろう。明日も火急の用事はないから大丈夫だ。それに、寧ろ好都合ともいえる」
 吐き捨てるようなその冷めた声音に、皆本は僅かに口の端を吊り上げる。私情を挟むことのない男の淡々とした言葉は、皆本を下手に慰めることもなければ責めることもない。
 ただ皆本のそれを「仕事」の一つとして、「上官」として労うだけだ。それ以上でなければ以下でもない。
 ドアから身を離し部屋の中へと歩んでくる男を見つめながら、思い出したように口を開く。
「あまり僕に近付くな」
「どういうことだ?」
 笑みを含んだようなその声に男は怪訝に眉を顰めさせる。その表情を見つめながら、言葉を続ける。
「僕からはあの男の匂いがするそうだ」
 皆本の顔に浮かべられた歪んだような笑み。蔑むようでも自嘲しているようでもあるその表情に、男の顔が険しく変わる。
 一度何かを躊躇するように男は言葉を躊躇って、止めていた足を動かす。
「すぐに消える匂いだ。気にするな」
 感情の篭らない冷えた言葉に、皆本はゆるりと口元に弧を描く。
 正面に立つ男の視線に促されるように皆本は立ち上がり、自らの軍服に手を掛ける。床の上にそれを無造作に落としていきながら、注がれる視線を受け止める。
「やるなら早く済ませよう。僕は眠いんだ」
「お前が協力してくれれば早く済む」
 腕を掴まれ身体を寝台に戻され、皆本は無感情に見下ろしてくる男を見上げる。
 そしてこの身を見ても眉一つ動かすことのない男に、皆本はただ安堵を繰り返す。

□ ■ □

 翌朝兵部を迎えたのは皆本ただ一人だった。昨日と変わらず軍服に身を包んだ彼は、不思議そうな表情を見せる兵部へと仄かに笑みを浮かべる。
「アイツには火急の用が入ってね。一足先に此処を出たよ」
「そう……なんですか? 僕、お見送りできなかった……」
 残念に呟けば頭上から落とされる苦笑。気恥ずかしくなって勝手に頬が上気していくのを止めることも出来ずに、目許を赤く染める。
 軽く、睨むように上目に皆本を見上げれば、揶揄するように申し訳ありません、と堅苦しく謝辞を述べて姿勢を正す。けれど、視線が絡んだ瞬間に、二人は同時に噴出す。
「僕も、彼が出て行ったのには気付かなかったんだ。此処の兵を捕まえて知ったことでね。どうやら僕達は置き去られたらしい」
 苦笑を交えたその声に兵部は曖昧な生返事をし、どうするのかと皆本へと目線で問う。
 無事に演習を終え役目は昨日の内に果たしていたのだから、後はもう軍営地へと帰るだけでいいはずだ。その前に世話になった将校へと挨拶に伺うべきか、と考えていると軽く肩を叩かれ、部屋から外へと促すように背中を叩かれる。
 蹈鞴を踏むように一歩を踏み出して、皆本を見上げる。
「帰ろう。本当は昨日の内に帰る予定だったから、不二子さんが心配してるかもしれない」
「あ……、そう、ですね」
 普段なら不二子も共に配属されるのだが、今回はそこに彼女の名は無く自分だけ仲間外れなのかと随分と騒がれたものだ。配属は兵部達が決められることではなく仕方のないことではあるし、彼女もそれは十分に承知しているだろうが、一人残されることが気に入らなかったのだろう。
 演習が終わればすぐに帰ってくるからと宥めて、約束して、出てきたのはつい昨日の朝のこと。だのに連絡も無く帰宅が遅れれば、なんだかんだと彼女も心配しているかもしれない。
「表に車を用意させています」
「はい」
 踵を返し先を歩く皆本の後に続くように、兵部は宿舎を後にする。擦れ違う兵士の姿は無く、けれどどこかからは張り上げられた声が聞こえてくる。
 乱れることのないその声を遠くに聞きながら正門に向かえばそこには一台の軍用車とそして一人の下士官が直立不動で立っている。二人の姿を確認すれば彼はすばやく挙手の礼を取る。
「お早う御座います、兵部少尉殿、皆本准尉殿」
 礼を取った後、青年は二人を見て驚くように目を見開いたがすぐに表情を戻す。その些細な変化を皆本も兵部も見逃すことは無く、だが突っ込んで問い掛けるような真似をすることもない。
 彼の驚きがどこにあったかなどは容易に知れる。わざわざそれを告げさせる必要もないだろう。
 二人は何事もなかったかのように挨拶を返し、青年下士官の安堵に似たような雰囲気に皆本は口元に笑みを乗せる。
「朝早くからご苦労様。訓練に戻ってくれて構わないよ」
「はっ。失礼致します」
 最後に礼を取り去っていく下士官をなんとなしに見送って、皆本は助手席を開く。
「どうぞ、少尉殿」
 促されて兵部は軍用車へと歩み寄り、不思議に皆本を見上げる。見下ろしてくる眼差しが兵部の告げたがっている疑問を待っているようで、素直に口を開く。
「皆本さんが、運転されるんですか?」
「僕だって車の運転くらい出来るよ」
 苦笑の滲んだその声に、兵部は失言に気付き慌てて首を振る。当然、そんなつもりで言ったわけではないのだが、少ない言葉ではそう勘違いされても然るべきことだっただろう。
 そうではなくて、と否定して、気遣うように彼を見上げる。
「皆本さんもお疲れなのに……」
 いくら一晩身体を休める時間があったとしても、長時間の運転は身体にも堪えるだろう。ただ、身体を揺られているだけでも疲れるのだ。ハンドルを握り続ける彼が疲れを感じないはずもない。
 しかし、皆本は微かに目を見開いた後に、微笑む。
「まぁ、確かにちょっとまだ眠いけど……。居眠り運転をしないように話し相手になって下さいませんか、少尉殿」
 告げて、眼差しに悪戯な色を混ぜる皆本に、兵部も自然と頬を緩める。

 行きの道中は鬱陶しくて仕方のなかった車体の揺れも、帰りは気にするほどのものでもなく、寧ろ身体に与えられるその揺れが、心地良くも思えていた。
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