少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

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  愚か者達の狂詩曲 17  

 子供の泣き声は止まらない。寧ろひどくなってしまったようなそれに、兵部は困ったように笑う。だがそこにどうしようもなく、嬉しいという感情が混ざってしまうのは、仕方ない。
「どうして余計に泣くのかな、この坊やは」
「う、るさいっ! 誰のせいだとっ」
「僕のせいだね」
 涙声で詰る皆本に兵部は言い訳する事もなく素直に非を認め、あやすように背中を撫でる。これ以上は泣いてやるもんか、と皆本が目に頬に唇に力を込めても、込み上げてくる激情は抑えることも出来ず、涙を止めることが出来ていたのも、ほんの一瞬。
 堰切ったように大きく顔を崩して、皆本は全身を震わせて泣いていた。泣きすぎて、自分がどうして泣いているのかも忘れて。ただ、これまで吐き出せなかったものすべてを吐き出すように。
 兵部はそれを無理に泣き止ませようとはせず、皆本の好きにさせていた。だから余計に、皆本は泣いてしまう。
 ひどい男のくせに、本当は優しくて寂しがり屋で、どうしようもない、男。
 どうしてそんな男を好きになってしまったのかなど、もう分からない。あんなことをされても、まだ好きだと思ってしまう。……いや、以前よりももっと、この男のことを愛しいと、離れたくはないと感じている。
「どうやって……落とし前をつけてくれるつもりだ」
 ぽっかりと空いた空白の時。
 決定打は皆本の自己暗示だったかもしれないが、きっかけは兵部が生み出した。兵部があんな真似をしなければ、皆本も行動には出なかった。二度もあの時の苦しみを味わうことはなかった。
「ごめん」
 それは兵部の口から正直に、だがそれ以上の想いを込めて零れてきた。
「……謝ってほしいわけじゃない」
 謝罪など求めてはいない。謝るくらいならば、最初からこんなことなどしなければよかったのだ。
「でも、ごめん」
 兵部が皆本を疑わなければ、きちんと対話をしていれば、こんなことにはならなかった。だがたらればなど、過ぎたことを悔いても遅いとわかっていても、あの時の自身を、後悔せずにはいられない。
 こんなに、こんなにも皆本を泣かせてしまうなど、それがどうしようもなく苦しいと、思いもしなかったのだ。
「好きだよ」
「っ、だから――」
 そういうことじゃない、と言い募るはずだった言葉は兵部の口に飲み込まれて消える。
 すぐに入り込んできた舌に舐られ、苦しいほどに貪られて、互いに熱の籠もった吐息を洩らしながら、再び唇を重ね合わせる。息を吐く間もないほどに、深く、激しく。
 静寂の中に、二人の熱い呼吸が響き渡る。
「っ、ご、まかすなっ……」
 抱き込む身体を押し退けながら、唾液に妖しく光る唇で皆本は兵部を詰る。
 だが兵部はそれにすっかりと普段の調子を取り戻したように不敵に笑んで、掴み取った皆本の手を自身の熱を孕んだ部位に押しつけた。そこがすっかりと熱く膨らんでいることに皆本が驚き、手を引こうとするのを阻んで更に強く触れさせる。
 服越しとはいえ、まざまざと見せ付けられる欲の昂りに、皆本は兵部と目を合わせることも出来ずにうろたえ、あちこちに視線を彷徨わせる。
「誤魔化してなんかないさ。君が欲しい。だからキスしたし、欲情もしてる。……嫌?」
 真っ直ぐに嘘偽りない眼差しでそう告げる兵部は、卑怯だ。だから皆本はそう思ったことをそのまま口にして、悔しく、兵部を見返す。
「……嫌だったらとっくに握り潰してる」
「相変わらず怖いな」
 兵部は苦笑して、肩を竦める。その肩口に皆本は顔を埋めて、深い溜息を吐き出した。
 久し振り、でも、いつもと変わらない。なんでもないやりとりを幸せに感じて、だけどほんの少し、怖いとも思う。
 今度は皆本から唇を重ね、診察着をめくって侵入してくる男の手に、慌てて身を起こす。不満げに見上げてくる兵部に皆本は顔を赤らめて、今更のようにきょろきょろと辺りを見渡した。
「さ、さすがにここではどうかと……」
 まさかこんな時間に誰かが来るとも思えないが、後々居た堪れない思いをするのは皆本だ。
 雰囲気に流されない皆本に兵部はつまらなく唇を尖らせて、仕方がないと息を吐く。それにムッとしている間に皆本の視界は唐突にブレ、景色が変わっていた。
「……ここ」
 見覚えのある内装。チルドレンと暮らす部屋ではない、けれど馴染みのある、場所。
 兵部と皆本の二人だけが知る、隠れ家。
「こっちに戻ってきてからちゃんと掃除したから安心しなよ」
「……お前がやったのか?」
 意外に目を丸くする皆本を、兵部が拗ねた顔を見せながらゆっくりと背後のベッドに押し倒す。しかし皆本の上に覆い被さる途中で兵部は何かに気付いたように顔を顰めて動きを止めると、不思議な顔をする皆本に困ったような笑みを浮かべて身体の位置を入れ替えた。
「この家に他人は入れたくないからね」
「そっか……」
 兵部の上に跨って、つい先程まで同じ体勢をしていたというのに皆本は落ち着きのない様子を見せる。物言いたげな視線を兵部に送り、しかし兵部は眉を下げて困った顔を返すだけ。
 皆本が降りようとすれば兵部がそれを押し留めて、不満というよりも不安、という顔をする皆本に
「君が遠慮なく叩きつけてくれたお陰で背中が痛いんだよ。だから今回はこれで」
 そう言った兵部に、皆本は言葉を詰まらせるしか出来なかった。
 手加減をした覚えはないし、だが兵部がちゃんと受身を取ってくれると思っていた……、というのは言い訳に過ぎないだろうか。
 情けなく眉を垂らして悩む皆本は、行為を取りやめるという選択はないのかと兵部が密かに安堵に笑っていたことは知らない。
 意を決した皆本が顔を上げ、その顔をゆっくりと兵部に重ねていく。瞼を伏せることもなく、いつまでも互いの瞳を見つめたまま、けれど唇が触れ合う寸前に、そっと目を閉じる。
「……ん」
 零れた吐息は、どちらのものだったのか。
 重ねた唇を薄く開いて、舌を絡ませる。舌先から広がる官能に皆本が身を捩ると、ベッドが重く軋みを上げた。舌を擦り合わせ、痛いくらいに吸引される。奥から湧き起こる疼きを止めることも出来ず震える身体を兵部の上に崩して、触れ合う性器に身が竦む。
 それを知りながら、兵部は背中に回した腕を腰へと滑らせて強く密着させる。擦れ合う性器から齎される刺激が、もどかしくてたまらない。
「あっ……、兵部っ、だめ…っ」
「だめ、じゃないだろう?」
 舌を絡め皆本の理性を甘く溶かしながら、兵部は更にぐいぐいと腰を押し付ける。腕の中でびくびくと身体を震わせ、熱を上げる皆本の身体に更なる欲心が煽られる。
 戸惑い、躊躇う声を上げて皆本は首を振り、頑なに目を閉ざす。そうしていないと、我慢が出来そうになかった。自分でも不思議に思ってしまうほど、自制ができない。兵部が欲しくてたまらなくて、飢餓を覚えるほどに兵部が足りない。
「ち、がうっ…、服……汚せない……っ」
 日が昇れば戻らなければならない。不二子や賢木には既に関係はバレているが、これまで散々迷惑をかけてきたというのに気取られるようなことをすれば、一体二人にどう顔向けすればいいのか。知人に情事を悟られることほど居た堪れないものはない。
 どうにか止まないキスの合間に痺れた舌を縺れさせながら告げると、兵部はようやく唇を離して、軽く息を吐いた。それは兵部が皆本に折れる時の合図だ。
「じゃあ君が脱がせて」
「……なん、で」
 囁く兵部に恥ずかしさも相俟って素気無く返すと、兵部がしたりと笑う。
「えー、だってどこかの誰かさんが背中を痛めつけてくれたお陰で腕を動かすのもきつい――」
「あーっ、っもう! 分かったよっ。僕が悪かったっ。僕が悪いんですよね反省してます!」
 言葉を遮り早口に言い切って、ギロリと憎たらしく笑う男を見下ろす。すぐに返された苦笑にはそっぽを向いて無視して、皆本は診察着に手をかけた。脱がす指が震えているのは気のせいだと、そう思うのに逸る心音が気を急き立てる。もたついてしまう指に焦りが苛立ちに変わり、ほぼ勢いで服を脱ぎ捨てる。
 ベッドの下に落とした服が皺になるかもしれないと気付いても降りて畳む気にもなれず、息を吐いて兵部を見下ろして、その息が止まる。今度はこの男の服を脱がさなければならないのだと考えると、どうしても恥ずかしくてたまらなくなってくる。
「どうしたの? 皆本クン」
 分かっているくせに、知っているくせにそう声を掛けてくる兵部が小憎たらしい。
 どうしても震える指先を一度強く握り締め、唇を噛んで心を決めて、皆本は学生服の釦へと、指を伸ばした。……自分はまた彼と想いを交わすために、ここにいる。二年という年月が流れていても、皆本の想いは、あの時のまま。
「っ」
 また、止まったはずの涙が溢れてくる。
「ご、ごめん。兵部。なんでも……なんでも、ないから」
 泣きたいわけではないのだ。それで、兵部に哀しい顔をさせたいわけでもない。なのに涙は止まることを知らず次々と溢れ出し、擦っても擦っても頬を伝う雫が消せない。
 自分が泣けば、兵部を追い詰める。哀しませて苦しませてしまう。皆本を泣かすことを後悔して、自分が齎したものの結末に嫌悪して、自分を許せなくなる。そんなことはさせたくないのに、皆本の意思とは裏腹に涙腺が壊れたように、泣きたくもないのに涙が零れる。
「皆本……」
「違う。違うんだ。悲しいんじゃない、嫌なんじゃない。……嬉しいんだ。嬉しくて、どうしようもなくて……、やっぱり僕はお前のことが好きなんだ」
 嗚呼この溢れて止まない愛しい感情を、一体どうすればいい。
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