少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

戻る | 目次 | 進む

  愚か者達の狂詩曲 16  

 深夜の来訪は、誰に気付かれることなく行われた。
 カーテンが風に揺れるでもなく見えない力によって開けられ、ベッドの上に眠る男の姿を露にする。頭に巻かれた白い包帯が痛々しく、しかし眠る表情は穏やかで、そのことに密かに安堵し、侵入者は苦笑する。嘲るでも、皮肉るでもなく。ただ、純粋に心配していた己が、らしくはなくて。
「まったく君は……」
 眠る皆本の傍らに立ち、兵部は静かに見下ろす。眠りを妨げないように慎重に額に触れ、怪我の容態が大したことはないことに細く息を吐き、透視み取った出来事に眉を寄せる。
 透視したのは皆本の視点で見るイヴの姿、皆本自身の心情。
 ずっと皆本のことを馬鹿だ馬鹿だと思っていた。
 それは彼の素直さや生真面目さ、無知であることを自覚し抗おうとする姿勢を。無力であることを認め、綺麗事と知りながらもそれを貫こうと歩む姿勢を。
 だがそれ以上に、この男は大馬鹿だったのだ。
 自分のことを過大評価も過小評価もしない。今の自分に出来ることをしようとして、自らも省みず、その姿に、どれだけ周囲の者がもどかしい思いをしているのか。
 もっと知るべきなのだ。
 この男は。
 自分の価値を。

□ ■ □

 自然と浮上する意識に皆本は薄ぼんやりと目を開け、傍に誰かの気配があることに、緩慢に瞬いた後にゆっくりと口を開いた。
「……賢木?」
 心配して見回りに来てくれたのだろうか。
 そう考えて皆本は親友の名を呼んだが、途端、空気がざわりと蠢いたような気がした。どこか不機嫌そうなその気配に違ったのかと、では誰なのかと考えて(まさかチルドレンではあるまい。今は夜中だ)皆本が眉を寄せ、はっきりと見ることの出来ない視界に手探りで眼鏡を取ろうとして、小さく、溜息を吐くような呼吸が聞こえてきた。
「ヤブ医者じゃなくて悪かったね」
 どこか、人を皮肉るような軽口。
 まさか――と目を見開き、顔を向けて目を凝らすと、闇の中に居たのは親友ではなく、思い掛けない人物の姿。闇の中にぼんやりと浮かび上がる、白銀。
「兵、部! どうしてお前が……っ」
「君が怪我をしたと聞いてね。心配で見に来てやったんだよ」
 起き上がろうとする皆本を片手で制して、兵部はそう片頬で笑う。折角人が忠告してやったのに、と嘯く兵部を睨み据えて、皆本は警戒を強める。
「嘲いに来た――、の間違いじゃないのか」
 低く言葉を紡ぐ皆本に、兵部は仕方ないとでも言うように肩を竦める。と、横たわる身体の上に何かを放られて、皆本は意外に目を丸くする。
 胸元に投げられたのは、小さな花束のようなものだった。淡い花の香りが、皆本の鼻腔に届く。
「僕もそこまで非道じゃないぜ?」
「……」
 見舞いの花(なのだろう)を渡されて、皆本もさすがに押し黙る。害意を向けようとしない人間に対して警戒するのは、皆本には出来ない。
 どうしようもない戸惑いと、こちらが気を許した隙に手のひらを返すのではないかという猜疑を抱えたまま口をつかえさせながらも謝礼を述べると、兵部はただ、小さく笑っただけだった。それで妥協してやるというように、どこか呆れを含ませた雰囲気で。
 普段ならば一笑に付されるようなものであるのに、一体どういった心境の変化なのか。まるでこの兵部は偽者であるかのように、ペースを崩される。
 調子が狂う、と口の中で転がすように呟いた皆本に兵部は浮かべていた笑みを深めて、身を乗り出すように、覆い被さるように顔の脇に、片腕をついた。縮まった距離に、近付いたせいではっきりと見えてしまう兵部の表情に、皆本は瞳を揺らす。
「君のことを愛しているから――」
「――え」
「って言ったらどうする?」
 浮かべる表情をからかいの笑みへと変えて冗談だと茶化す兵部に、普段の皆本であればいい加減にしろ、と一喝して、それで終わるはずなのに。
 皆本は零れんばかりに大きく目を見開いて、だがただ驚愕の表情を浮かべているのには何かが違う。唇を戦慄かせ、双眸に涙の膜を張っていく皆本に、兵部が瞠目してまさか傷に障ったのかと手を伸ばす。
「どうし――」
 兵部の伸ばした腕は皆本に触れる前に払い除けられた。呆然と見つめていれば、皆本がキッと鋭くさせた眼光で兵部を睨み付ける。
 その変化に兵部は対処が遅れていた。――否、突然雰囲気を変えてしまった皆本に、それが良く知っているものと似ているような気がして、信じられない思いで身体を動かすことが出来なかったのだ。
 皆本は兵部を睨み据えたまま払ったばかりの手を強く握り締め、素早く上体を起こすとその勢いを殺すことなく、兵部を巻き込んでベッドの下に転がり落ちた。抵抗も、受身も取ることなく背中を床に叩きつけた兵部が痛みに顔を歪めるのを皆本は睥睨して――、その怒りに大きく見開いた瞳から、熱い雫を溢れさせた。
 ぼろぼろと止め処なく、声を上げることもなくただ只管に涙を流し続ける皆本に、兵部は言葉を失うほか出来なかった。その涙を拭うことも声をかけることも躊躇わせるほどに、皆本は兵部に対して泣いて、怒って、哀しんでいた。

 どれだけの間、そうしていたかもわからない。
 皆本は兵部に跨ったまま止めることも出来ない激情を流し続け、兵部はただそれを静かに受け止めていた。しかしいつまでもこのままで居ることも出来ず、兵部が溢れる雫を拭おうと伸ばした手の労わりに満ちた優しい仕草に、皆本の身体が怯えるように揺れ動いた。
「――……思い、出したのか」
 ようやく発した兵部の声は、震え、掠れていた。
 ビクリ、と肩を震わせた皆本に、兵部はそれが事実であると確信する。
 兵部が皆本へとかけていた、催眠能力――。やはり皆本には通用しなかったのだと、それが嬉しいのか哀しいのか、兵部には分からなかった。
「……いつから?」
 震える声を隠そうとしても、隠しきれてはいなかった。
 唇は奇妙に歪み、まるで追い詰められているような感覚に、胸の内で渦巻く感情の名前など、知るはずもない。
 涙の跡を残し、まだその瞳に哀しい熱を籠もらせて皆本が静かに口を開くのを、兵部はただ断罪を受ける思いで見つめていた。
「……さっき、だ」
「さっき?」
 一瞬理解できず、兵部は皆本の言葉を繰り返す。
 そんな兵部を見下ろしたまま、皆本は静かに呼吸を整える。真っ直ぐに兵部を射るその眼差しは、もう普段と変わらない。
「言っておくが、僕はお前の催眠にかかってたわけじゃない」
「――!」
 今度は、兵部が目を零れ落ちんばかりに見開く番だった。
 そんなはずはない。現に皆本は兵部とのことを忘れていて、それは演技でもなんでもない、紛れのない事実で現実だった。それはちゃんと透視して確かめているのに。
「っ」
 その時のことを思い返して、兵部は気付いた。
 確かに皆本は記憶を消していた。それは何の違和を感じさせることもなく。しかしそれはおかしなことだ。普通、何かしらのESPの干渉を受ければ、その形跡が残されているはず。だが皆本には、それがなかった。
 だから賢木や不二子ですら、気付くことはなかったのだ。かけた本人が気付かないのなら、他の人間が気付けるはずがない。
「――君は、……君は、何をした」
 疑念など持たない。
 兵部は断定し、確信する。
 その低い問い掛けに、皆本の唇が自嘲に歪む。――なんと、皆本には不釣合いな表情だ。だがそれは、兵部が浮かばせているもの。
「自己暗示を、かけた。お前に無理矢理記憶を奪われるくらいなら、僕は、僕自身の意思で、お前との記憶を――」
 ギリ、と奥歯を噛み締める音が響いた。
 相変わらず捕らえて離さない手にも力が籠もるというのに兵部はただ僅かに眉を動かしただけで、それを払おうとはしなかった。

 それは、皆本の最期の抵抗だった。
 折角、前進を図ることが出来ていたというのに、兵部は不変を、変わらないことを求めた。だが既に切欠を与えられていた自分達は立ち止まることなど出来ず、兵部は何事も無かったかのように、後退の道を選んだ。
 皆本はそれが悔しかった。哀しかった。認めたくはなかった。
 だから自ら記憶を失うことで兵部に抗った。決して、彼の意のままにはならないように。きっとはっきりと拒むことも出来たのに、皆本は拒まなかった。認めたくはなくても、裏切られたとは思わなかった。ただ、何があったのかを知りたかった。そこに、一縷の望みを賭けた。
 兵部との思い出全てを忘れるよう自己暗示をかけ、そのこと自体も忘れ去る。そうしてしまえば皆本は自分で思い出すことはない。誰に気付かれることもない。
 その時はそれでよかったのだ。
 いつかまた思い出せると、希望を持てたから。
 忘れても、憶えているから。
「――なのにっ! なのに、どうして言うんだよ!!」
 思い出したかった。
 思い出したくなかった。
 思い出せばもう一度、あの時の哀しみを体験することになるから。けれど、思い出せなければ、ずっとそのままだった。

 元々、皆本に催眠をかけたのは、賭けに近かった。
 兵部自身、皆本に催眠にかかって欲しいと思い、かからないで欲しいと思っていた。皆本の不意をつく形で強引に押し切ったこととはいえ、試していたのかもしれない。皆本の想いを。そんな必要も、なかったというのに。
 催眠は本人の望まないものはかかり難く、かかったとしても持続は出来ない。
 だから、皆本が兵部の催眠の手に堕ちた時、安堵したのか失望したのか。勝手に期待して裏切って裏切られて、もう、分からなくなっていた。
 笑い話にもなりやしない、馬鹿で愚かな男の話……。
「……キーワードは、何だったんだ?」
 ぽつり、と呟いた兵部に、皆本が眉を吊り上げる。
「そんなもん知るか!」
 皆本の言葉で、兵部は気付いていた。忘れるということだけでよかった自己暗示に、皆本が鍵を掛けていたことを。それは、魔法の鍵。閉ざした記憶を解き放つ為の、兵部にしか開けることの出来ない――。
 皆本は兵部がそれを言ってくれると信じていたのか。
 再び大粒の涙を零し始める皆本に、兵部はその涙を掴まれてはいない逆の手で拭いながら、最前の己の言葉を反芻する。徒な言葉ではなく、皆本のことを想い、皆本にしか囁かず、決して安易なものではない、言葉。
 その言葉に不意に思い当たって、兵部は丸くした目を優しく細めると、そっと皆本の頭を引き寄せて顔を近付けた。泣き濡れた顔でそれでも睨み付けてくる気丈さを微笑ましく愛しく見つめて、耳元にそっと囁く。あの時は本気半分冗談半分ではあったけれど、今度は、このどうしようもないほどの想いを込めて。

 ただ、君のことを愛している――と。
戻る | 目次 | 進む

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system