少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

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  僕と彼の生きる道 06  

 麗らかな昼下がり。
 天気のいいこんな日は、部屋に閉じ篭っているのも勿体無い。
 それが健康的な発想だと思うのだけれど。
「……君は健康的に主夫やってるよねぇ」
「え?」
 パンッ、と小気味よく洗濯物の皺を伸ばして、皆本は首だけでダイニングを振り向いた。
 清々しい晴天。
 心地良い日光に照らされて、風にそよぐ洗濯物。
 日溜りに立つ皆本が、少し眩しい。
 呆れ顔にも近い兵部の表情にわけがわからないと皆本は少し困惑して、しかし何も言ってこない事に首を傾げつつ洗濯物と格闘を続ける。だがその手付きは無駄がなく、皆本の背中を見ながら兵部は小さく溜息を吐く。
 けれどこれも、悪くはない。
「通い妻みたい」
 ふ、と呟いた言葉に、丁度部屋の中に戻ってきた皆本が空になった洗濯籠を床に落とす。驚いたようにその顔は数秒の間固まり兵部を凝視して、みるみる赤面していく。
 ああ怒られる。そんな事を暢気に考えていると、案の定、怒声が響いた。
「バッ、バカなことを言うな!」
「嬉しいくせに」
「嬉しいわけあるかっ!」
 窓は開け放たれているから、外にまで皆本の声は筒抜けだろう。しかし、誰が聞いていると言うのか。だけどもたとえ聞かれていたとしても別にどうでもいい。兵部は気にしない。
 顔を赤くしているのも怒鳴るのも、ただの照れ隠しだ。どうだ、皆本は可愛いだろう。そうやって自慢してやりたい。
 言い合っても敵わないと諦めているのか、溜息一つ吐いて口の中でぶつぶつ文句を言いながらも皆本は籠を片付ける。そうして今度はエプロンを持って現れる。
 本当はフリルのついたものを着て貰おうとしたのだが絶交宣言されかけてしまい、シンプルに黒のギャルソンエプロンだ。非常につまらないけれど、それもまたいいかもしれない。兵部だけのギャルソンだ。
「今日は何作ってくれるの?」
「和風ロールキャベツ。……僕なんか見てたってつまらないだろ」
 テーブルに頬杖をついて視線はキッチンに立つ皆本へと向けられている。
「そんなことないよ。僕は楽しい」
 だって好きな人が自分の為にこんなにも尽くしてくれているのだ。つまらないわけがない。
 そうにっこりと微笑みかけると、頬を染めてふいと背中を向けてしまう。その背中全体が、恥かしいと告げている。
「……見てる暇があるなら手伝え!」
 いつまで経っても背中からそれない視線に、ついに我慢の限界か、そう叫ぶ。
「ふむ。二人でキッチンに立つだなんてますます新婚みたいだね」
 よっこいしょ、と重い腰を上げて立ち上がろうとすると、慌てたように引き止める声が飛んでくる。手伝えと言ったその口が今度は来るな、と叫び、兵部は苦笑する。
 照れ屋も此処まで来れば筋金入りだろう。誰に見られているというわけでもないのに、二人きりと言う空間なのに、皆本はそういった雰囲気には慣れやしない。そこもまた、初々しくて可愛いとは思うのだけれど。
 家に来る積極性はあっても、所謂恋人同士のいちゃつきには消極的だ。別段それでも構わない。それがきっと皆本光一と言う人間なのだろうから。
 それにそんな彼を見ていることは好きだ。
 不器用ながらも一生懸命さが伝わってくる。最初の頃はきっとこの部屋に来ることでさえ勇気のいったことだったかもしれない。それでも此処に足を運んでくれると言う事は、少なからず皆本も兵部との二人きりの時間、というものを求めているからだ。
 歩みはゆっくりでいい。確かにそう多い時間が残されているわけではないが、だからこそこの大切な時間を有意義に過ごしていたい。それは焦ったからといって手に入れられるものじゃない。
「ねぇ、皆本君」
「なんだ? 言っとくけど今日はデザートはないからな。暇がない」
「えー。ケチ」
「ケチじゃない」
「……じゃなくてさ。皆本君?」
 少し、トーンを落として呼び掛けると皆本は作業を中断して振り向く。不思議そうなその表情は本当にそれ以外の話題が見つからないからだろう。らしいといえばらしいが、そう食い意地張っているように見えてしまうのだろうか。――確かに、皆本の作るデザートも好きではあるけど。
 でも確かに、これはちょっと唐突かもしれない。けれどなんとなく今、口に出して言っておきたいのだ。
「色々ありがとう、皆本君」
 それは何に対しての感謝なのだろう。正直なところ兵部にも分からない。
 今こうして食事を作ってくれること、世話をしてくれること、逢ってくれること、好きになってくれたこと。上げだせばキリがないほどにその候補は浮かぶだろう。だけどもそういうことじゃないし、それらは全て要約すれば、兵部の世界に皆本が存在してくれたこと、なのだ。
 存在しなければ出逢うこともなかった。言葉も交わせず今此処に抱く思いもなく、今日という日もない。
 呆然と、ただ呆然と皆本は兵部を見つめて、くるりと、また背中を向けてしまう。返してくれる言葉なかった。だけど兵部も、別に皆本に何かを言われたくて言ったわけじゃない。衝動、だ。
 ぐつぐつと鍋が煮立つ。トントンと軽快に包丁が落とされ、部屋の中に食欲をそそる匂いが広がる。それはきっとこれまで考えもしなかった平穏な日常だろう。幸せは些細なところにある。ただ、それに気付けるか否か。
 そして幸せの定義とは人それぞれであり、兵部にとっては今のこの状態なのだ。兵部の世界に皆本が居り、皆本の世界に兵部が居る。そして二人の思いは同じ場所に在る。
 欲は出る。それでもこの状態に満足している。
「ほら、兵部。テーブルくらいは拭いてくれよ」
「はいはい」
 放物線を描いて投げ渡された布巾。しょうがないという風体を装いながらも、別に嫌いじゃない。皆本は特別扱いをしない。されたいわけでもない。
 どんな立場であっても此処では互いに一個人にしか過ぎず、同等なのだ。それに兵部だってただ皆本にだけ従事させたいわけじゃない。自分達はそういう関係じゃない。だけど、誰にでも得手不得手はある。だから兵部は皆本の指示に従うだけだ。皆本も、兵部に難題を押し付けたりはしない。
 温かな湯気を立てた料理を皆本が運んでくる。それを兵部も手伝って、差し向かいに席に着く。
「おいしそうだね」
 それは素直な感想。あっさりと和風のだしで仕立てられたロールキャベツに、大根とワカメの味噌汁。そしてポテトサラダ。炊き立てのご飯もふわりとお椀によそわれている。
 いただきますと手を合わせ、メインのロールキャベツへと箸を伸ばす。箸を入れた途端に染み込んだだしが肉汁と共に溢れ出す。キャベツも柔らかく煮込まれ、味付けも薄すぎず濃すぎず丁度いい。
「おいしいよ」
「ありがとう」
 賛辞に皆本は頬を淡く染めて、漸く料理へと手をつけた。
 普段チルドレンと囲う食卓は賑やかだ。いつでも笑い声や賑わいが絶えない。けれど逆に兵部と囲う食卓は、静かで穏やかだ。なんでもない他愛もない会話をして、ゆっくりとした時の流れを感じる。
「よくこんなにレパートリーが出てくるね」
 味噌汁を啜りながら、ふと思ったことを口にする。これまで同じメニューは食べたことがないし、言えば出来得る範囲でリクエストにも答えてくれる。
 わざわざ自炊せずとも手軽に食事が出来ると言うのに、皆本は逆にそう言ったものはあまり利用したことがないのではないだろうか。
「そうかな。作ってくれる人も居なかったから必要に迫られて、だけどね。僕も一人暮らしは長いし、意外と外食するより自炊した方が安上がりなんだ。栄養価も偏るし。それに、今はチルドレンと一緒だからね」
「ふ〜ん。女王達が羨ましいね」
「……」
 それは率直な意見で、ただ単にそう思ったから口にしただけだったのだが。皆本は箸を下ろしてなにやら言いたげに兵部を見つめる。少し、その顔が赤く見えるのは気のせいか。
 兵部も釣られるように箸を置いて、なに、とその顔を覗き込む。すると途端に我に返ったように箸を動かし始め、しかし一口ご飯を口に運んでからぽつりと
「お前に作るメニューは、まだ作ってない」
 呟いて、皆本は兵部の作り出す沈黙に耐え切れず深く俯いてしまう。
 その旋毛を見つめながら、言葉足らずな皆本の台詞を反芻する。足りないピースを兵部なりに埋め込んで、読み解いたその行間にふと笑みが零れる。
 テーブル越しに皆本へと手を伸ばし俯いた顔を上げさせて、そっと頬を撫で擦る。あちらこちらに揺れ動いていた瞳を羞恥に耐え切れず硬く閉ざして、だが離れてはいかない温もりにゆっくりと瞼を持ち上げる。
「……離せよ」
「どうしようかなぁ。……皆本君がうんって頷くなら離してあげようか」
「?」
「デザート、皆本君を食べたいなぁ……」
「バッ!」
 反射的に浴びせようとした怒声も、声が詰まり出てこない。嫌ならば嫌だと言えばいいし、手も振り払えばいいだけだ。兵部とて無理強いしようという気はない。ただ思ったことを正直に告げただけだ。
 それが、皆本にとっては理解し難く受け入れ難いものだと分かっていても。それでも断るのならば意思は尊重するつもりだ。
 なのに皆本はそれきり黙り込んで、視線を外す。そうやって葛藤すると言う事は皆本の中にも少なからずそういう気持ちがあるということだ。だから兵部はつい調子に乗ってしまう。幾度繰り返してもそれはどちらも変わらない。
 気持ちの整理がつけられず皆本が本格的に悩んでしまう前に、兵部は頬から手を放す。あ、と声には出さずしかし何かを言いたそうに皆本の視線がそれを追いかける。目は口ほどに物を言う、と言ってもここまで分かり易すぎると少々困ってしまうものだ。皆本の気持ちなど無視してしまいたくなる。
「大丈夫だよ。分かってるから」
 羞恥が勝り、素直になりきれないという事も。
 行為だけではない、思いの繋がりを大切にしているという事も。
「ご飯冷めるよ」
「あ、あのさ、兵部」
「なんだい?」
「……片付けは、兵部がしてくれよ。そしたら……」
 そこまでが精一杯なのか皆本はふいとそっぽを向く。それで赤くなった顔を隠せるはずもなく、兵部は微笑みながら机を指先で叩き皆本の目を向けさせる。
「いいよ。アフターケアもばっちりしてあげようか」
「――っ、兵部!」
 言外に何を言いたいのか瞬時に悟り、真っ赤な顔で怒鳴る。
 しかしそれは揶揄であったのか、それとも本気だったのか兵部はただおかしそうにくすくすと笑う。その反応にからかわれたという気持ちが強いのか、腹いせに兵部の脚を蹴って皆本は途中になっていた食事を再開させる。
 わざとらしく痛がって見せていた兵部であったが、溜息一つ吐いて気持ちを切り替え箸に手を伸ばす。折角お許しが出たのにからかい過ぎて前言撤回されてしまえば元も子もない。
「こんな生活もいいものだね」
 穏やかな休日、晴れ渡った青空の下で風に靡く洗濯物。恋人と二人きり、囲ったテーブルには手作りの食事。ありふれた日常のようでも、かけがえないものである。
 それは兵部の独り言で、皆本も聞き流しているような風であったが、しかし確かに皆本は、うん、と頷いたのだった。
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