少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

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  僕と彼の生きる道 04  

 何処までも晴れ渡る、気温も心地良い晴天の日だった。
 チルドレン達といつものように賑やかな朝を過ごし、彼女達を学校へと見送ったその後に。
 何と無くその晴れ模様が勿体無いな、と一人ごちながらスーツに袖を通す。今週一杯は安定した晴れ間が続くといっていたから、あと数日の我慢。休日になれば清々しくベランダに洗濯物が干せるだろう。
 何事も起こらなければ今日一日も穏やかに過ごせるはずだ。だがそれでもこなさなければならない仕事がないわけではないし、事件も起こらないと断言することは出来ない。こんな晴れの日くらい、と思っても、事故も犯罪も待ってはくれない。
 晴れたくらいで事件発生率が減るのなら毎日晴れを願ってみようか。――そんな事が実際に起きたら別の問題が発生するけども。
「行って来ます」
 誰も居ないと分かっている空間だけれど、それでも口にする事で此処が自分の帰ってくる場所なのだと分かる。いってらっしゃいと、誰も居ないけど微笑んで見送ってくれる三人の笑顔が浮かぶ。
 始めはきっとチルドレン達との同居生活は上手くいかないと思っていた。出逢いが出逢いであったし、彼女達に対して苦手意識というものがあった。高が10歳の少女達に何を、と言われてもそれが事実だったのだから仕方が無い。
 だが、今ではどうだろうか。打ち解けてみれば――確かに彼女達には彼女達なりの悩みがあり捻くれてしまってはいるけれど――なんてことない普通の女の子なのだ。時折、その範疇から外れる事はこの際眼を瞑るとして。
 チルドレン達の通う小学校は、そろそろ一時間目の授業が始まった頃だろうか。最高超度の能力を持つが故に通う事の困難だった学校。勉学は何処でだって学ぶことは出来る。けれど、学校でしか学べないことも多い。そしてそこで学んだ事は、決して無駄にはならない。
 チルドレンに向けるこの感情は、妹に向けるそれにも、親が子に向けるそれにも近い。明確な感情は分からないけれど、胸の奥がほっこりと温まる様な日溜りにも似ている。義務でも何でもなく心底、ただいつまでもこの日常が続き、彼女達にとって幸せで温かなものであるといい。
 いつか来てしまうかもしれない未来の事を知っているから、余計に。そうならなければいいと奮闘していても、どうなるのか分からないのが未来だ。だけど未来は、現在の積み重ねでもあるから。何もしないよりは、いい。
「まったく。君は相変わらず女王達のことしか考えてないんだから」
 妬けるよ、と頭上から降って来た声に、皆本は歩みを止めて頭上を振り仰ぐ。そこにはいつもと変わらず学生服を着た兵部の姿。目を瞠る皆本を尻目に身軽に地面に降り立つと形ばかりの挨拶をする。
 街のど真ん中でまさかいきなり銃を取り出すわけにもいかず、兵部の動向を窺うも一体何をしに現れたのかその本意は探れない。怪訝なその表情を隠そうともしない皆本に、兵部はわざとらしく肩を竦めてみせる。
 困った子だとでも言い出しそうな表情に、皆本はカッと頬が熱くなるのが分かった。
「散歩の途中に君の声が聞こえたからね。逢いに来ただけだよ」
「聞こえたんじゃなくて透視したんだろう!」
「……そうとも言う?」
「そうとしか言わんっ」
 首を傾げながら上目遣いに見られたとしても、可愛くないの一言に尽きる。大体、見た目十代程であっても中身は立派な御老人。その実態を知っているだけに、今更可愛い子ぶられても薄ら寒いだけだ。
 人をからかっているのか本気でやっているのか、その境界線が曖昧なだけに対処するだけでも疲れる。真面目に反応を返すだけ無駄だと分かっているのに、元々突っ込み気質なのか無視することが出来ない悲しき性。落ち込むのが分かっているのに、何故わざわざ律儀に反応してしまうのだろう。
「愛だよ、それは」
「んなわけあるかぁ!」
 ボケられて、突っ込んで、落ち込んで。染み付いたパターンだ。
 パターン化しているだけに段々と落ち込んでからの立ち上がりが早くなったのはせめてもの救いか。しかし何の役にも立たない。それが現実。
「ああ。それに皆本君は突っ込むんじゃなくて突っ込ま……」
「ひょ〜う〜ぶ〜?」
「これは失敬。そんな事は僕達だけが知っていればいい事だね」
「………」
 地の這うような皆本の声に、兵部は真面目くさった顔でそんな事をのたまう。最早突っ込む気力さえもなくなってくる。
 大体、何で朝っぱらからこんな会話をしなければならないのだろう。そう考えて、皆本は自分が今出社途中だったことを思い出す。いくら毎朝余裕を持って家を出ているのだとしてもこれはロスタイムだ。
 しかし、今此処で兵部を見逃していいのか、とも思う。彼は犯罪者で、バベルの敵。皆本が捕まえなければならない相手。
 葛藤しながらもじっと兵部を見つめれば、同じだけの眼差しの強さで見返してくる。その瞳がふっと穏やかに和らいだと感じた瞬間、皆本はゆっくりと瞬いた。
(もう行くよ、兵部)
(ああ。行ってらっしゃい、坊や)
 皆本の意図を酌みとって兵部はその思念波を受け取り、言葉を返す。
 誰にも言う事の出来ない、知られてはいけない関係だから直接その言葉を口にすることは出来ないけれど。想いだけは、届けることが出来る。そしてその想いは、確かに二人繋がり合っている。
 一歩を踏み出す。
 それはまだ始まったばかりの今日という日常に溶け込むために。再び出逢えばその時は憎しみ合うのだろう。同じ想いの強さで。
 互いに惹かれ合いながらも憎しみ合う。愛しいから憎く、互いの思想を理解し得るから、そこだけは埋める事の出来ない溝にジレンマが生じる。互いにただ己の信じる信念を貫いていることを知っているから、遣る瀬無さに歯噛みする。妥協は決してすることが出来ない。
「――!?」
 歩き始めた皆本の足を止めたのは、耳を劈くような甲高い悲鳴だった。その尋常ではない叫び声に何事かと視線を巡らせて、目を瞠った。
 まだ満足に一人で歩くことも出来ない幼子が、覚束無い足取りで道路を渡っているのだ。その幼子の目指す先には、遊んでいるうちに手から逃げていってしまったのだろうボールが転がっている。ボールを追いかけて、幼子は親の手を離れ道路に出たのか。
 幼い子供は、親が確りと見張っていなければまだ危険なものの区別も付けられない。理性はあってもそれを制御する思考が充分でなければ無いのも同じ。あの子の中には此処が何処であるのかも、どんな危険があるのかもよくは分からず、ただ自分のボールを取り戻そうという事しか頭に無い。
 そして今その幼子に向かって走る、一台の車。母親の悲鳴を聞き、現状を知った通行人の誰もの脳裏に、最悪の光景が広がっているだろう。なのに誰も動かない。否、動けない。誰もが無理だと思っている。助けることは出来ないと諦めている。ただ惨劇を見まいと、顔を逸らすだけ。
 だから、その一陣の何かが走った時、誰もが目を疑った。
「――バカッ!」
 詰る言葉を、誰が聞き咎めただろうか。苛立ちに塗れ切羽詰ったような声。
 何の変哲も無かったはずの日常の朝の風景が、一瞬にして変わる瞬間。ブレーキを踏んだ車の、甲高いタイヤのスキール音が空気を切り裂く。
 ほんの僅かな間、まるで時間が止まってしまったかのように誰もが動けなかった。しかし、逸早く我に返った母親が道路に飛び出し、我が子の身を案じる。走り寄った彼女が見たのはスーツ姿の男性に抱えられ、ボールをその胸に抱いてぼんやりと宙を見つめる我が子。
 だがその視界に母親の姿を認めた瞬間、堰を切ったように溢れる泣き声。
「あ、あぁ……」
 無事だったその姿に腰が抜けへたり込んだ女のもとに、遅れて車の運転手が顔を蒼白にしながら駆け寄ってくる。怒鳴るべきか、謝罪するべきか。けれど恐らくはそのどちらも女の耳には届かないだろう。
 気が抜けたように我が子を見つめ、それでも泣き続ける姿に母親としての本能か。男から我が子を受け取るとしっかりと胸に抱き締める。
「……バカだろう、君は」
 すぐ傍に立った人物から零された言葉に、皆本はふっと口元を綻ばせるとそうかもね、と頷く。
「だけど、あの子も僕も、無事だよ」
「そういう問題じゃないッ!」
 珍しく声を荒げた兵部に、しかし今は珍しがる段じゃない。
「あ、あの……」
 おろおろと、怒鳴る兵部を諌めようという心積もりなのか。声を掛けてきた女を、まるで射殺さんばかりに兵部は睨みつける。明らかに怯えた顔を見せる女に皆本は大丈夫ですからと声を掛け、兵部を見上げた。
 兵部は、怒っているのではなかった。ただ、嘆いていた。きっと、長く生きている彼だから。その人生の中で、彼は、友が、仲間が、死に行く様を幾度も見てきたのだろう。
 それに兵部が生きたのは戦時中。その中には理不尽な死もあっただろう。死を避けられない無力さを嫌悪しさえもしたのだろう。
 そして今度は皆本までも逝ってしまうのかと、嘆いている。兵部を置いて、兵部の目の前で。
 だが皆本は、道路に飛び出した時何も考えては居なかった。いや、考えていた事があるとするならばそれはただ、あの子供は絶対に助けるという、たったそれだけ。だから自分が死ぬ事など考えては居なかった。そんなつもりも、なかった。
 頭でどうこう考える前に、身体が勝手に動いていたのだ。飛び出した身体は、止められなかった。
 それに。
「お前のお陰だよ、ありがとう。兵部」
「っ」
 本当は車を避けられるかどうか、ギリギリだった。けれど皆本が幼子を抱き留めた瞬間、兵部が瞬間移動を用いて助けてくれたから、だから車を避けることが出来た。兵部が居なければ、どうなっていたかは分からない。
「……最初から、僕に任せて置けばよかったんだ」
「うん。そうだね」
「……怪我は」
 何か言うのを躊躇って、兵部は素っ気無く言葉を落とす。皆本は四肢を動かし痛みを確認して、ただ大丈夫だよと笑う。眼鏡は歪んでしまったけどと、少し苦く。
 それから幾度も謝罪とお礼とを繰り返す女から逃げるように立ち去って、走り出した際に放り出した鞄を拾う。通勤時間と重なりそれなりに通行人もいたはずだが、どうやら中身も無事だったらしい。しかし、今から急いだとして遅刻は免れない。事情が事情だったのだからそう絞られはしないだろうが。
 だが、まるで何事も無かったかのように歩き出す皆本の腕を、兵部が引き止める。
「足、捻ったんだろう」
 怒ったように睨み付けてくる兵部が、足元を一瞥する。
「……ちゃんと医務室に寄るよ」
「駄目だ」
「え――」
 気付けば景色はブレ、突然のことに瞬いた皆本が見た景色は出てきたばかりの我が家だった。驚く皆本を他所に、痛いほどにきつく抱き締めてくる兵部の腕。何も言わずただ抱き締めてくる兵部に、皆本はそっと鞄を床に落とすとあやすようにその背中を撫でる。
 その掌が、震えている。今更と、笑おうとしてもその笑みは失敗に終わる。だからただ、崩れた笑い顔を兵部の肩に埋める。
 兵部の温もりが、何よりも皆本に安堵を与えてくれる――。
 どれだけ、ただ二人無言で抱き合っていたのか。
 離れがたいこの抱擁を引き裂いたのは無機質な機械音。震えを伴って存在を示すのは、皆本の携帯だ。
 どちらからともなく腕の力を緩め、皆本はディスプレイに表示されたその名前に小さく苦笑する。
 そう言えば今朝は朝一で会う約束をしていたんだっけか。中々顔を現さない友を心配して連絡してくれたのだろう。開口一番聞こえて来た声は、やはり幾分かその心情が滲み出ている。
 先程の事は隠す必要も無く――兵部のことを除いてだが――洗い浚い話し、心配する賢木を他所に足首の捻挫だけ手当てして会社に出る旨を伝えると、無理はするなと心配する声を残して通話は終わる。
「皆本君」
 何時の間にか姿を消していたのは、救急箱を探すためだったらしい。兵部の手にそれがあるのを見ると、皆本は素直にソファに腰を下ろした。裾を曲げ靴下を脱ぐ。表面を見るだけではなんともないが、触れたり動かしたりすれば痛みが走る。
 湿布と鋏、それに包帯を取り出すと、床に座った兵部の膝の上に足を乗せられた。手際よく湿布を貼り包帯を巻いていく手を、皆本はじっと見つめていた。
 ただ無言で手当てを行う兵部の表情は皆本からは見えない。前髪に阻まれたその奥で、兵部は一体どんな表情を浮かべているのだろうか。
 きゅ、と包帯の端を結んで手当ては終了だ。軽く足首を動かしてみても痛くはないし、包帯もきつくは無い。
「ありがとう、ひょう――」
 その名を呼ぶことは、出来なかった。
 手当てしたばかりの足首を掴まれ、純白の包帯のその上に柔らかに落とされた接吻。上目に皆本を見るその瞳は、怒りと哀しみと安堵が絡み合い複雑な色をしていた。
「ありがとう。――京介さん」
「っ」
 気付けばそう言って、兵部の身体を抱き締めていた。びくりと、強張りを見せた身体にもう一度ありがとうと告げると、ゆるゆると力が抜けその身体を皆本に預けてくる。
 どうしてだろうか。不謹慎だけれど、くすぐったいような気分だ。
「あまり無茶はしないでくれよ。……僕の寿命が縮む」
「それは困る」
 冗談では済まされない台詞に、つい真面目に返してしまう。硬い真面目なその声に暫し双方黙り込んで、同時に笑い出す。ああ大丈夫だ。自分達は笑っている。……まだ、笑っていられる。
「本当に行けるのかい?」
 汚れたスーツを着替え、フレームの歪んでしまった眼鏡も予備のそれに変えて、再びの出勤準備。その間ちゃんと一人で立ち歩き出来ていたのだから大丈夫だというのに、心配の声は止まない。
 けれど、それさえも嬉しいと感じてしまう。自然とにやけてしまう顔を尖った声で注意されて、皆本は顔の綻びを引き締める。
「大丈夫だよ。無理はしないし座っていれば足に負担も来ないしね」
 事故や事件さえなければ今日一日は平和に過ごせるはずだ。パンドラはきっと、動かない。
「行ってらっしゃい、坊や」
「……行ってきます」
 それは今朝の仕切りなおし。

 清々しい青空に一歩、足を踏み出した。
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