少年が求めたものはただ唯一の居場所

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  理想郷 09  

 朝はいつも傍らにある優しいぬくもりで目が覚める。体温を分け与えるように、もらうように、逃がさないように抱きしめた腕の中で、あたたかな身体がそっと身じろぐ。
 眠っていることを気遣うようにそっと身を起こして、見つめられる視線を感じる。
 触れることはせずにただ見つめてくる眼差しは真摯で、切実で、虚を抱く腕で再び抱きしめたくなって堪らない。
 閉じた瞼の裏に、穏やかな朝陽が姿を見せる。かけがえのない毎日。望んでいた、幸福な風景。
 波にたゆたっていた魚が海底に淡く影を落とすように、子供の影が瞼を覆う。
 ほんの微かにベッドが軋んだ音を上げ、身体が沈み込む。徐々に近付いてくる気配は息を呑んでいるかに慎重で、怖々としていて、吐息も交じり合う距離で躊躇して静かに触れ合う。
 唇に触れる柔らかな感触。あたたかで優しいそれに、泣き出しそうなほどの幸福を与えられる。甘く甘く、溢れんばかりのやさしい想いが、唇から流れ込んでくる。
 ぴくりと、反応する指先に唇が慌てて離れていく。ゆっくり、そっと瞼を持ち上げれば、あたたかい陽射しの中で顔を赤く染めて子供が所在なく座り込んでいた。
「おはよう、皆本クン」
「……お、はようございます。京介さん」
 か細く早口に挨拶を返した子供は逃げるようにベッドから抜け出ようとして、その細腕を捕まえて、暴れる身体を腕の中に閉じこめる。
 やさしい匂いを吸い込んで、あたたかな温もりを肌に感じて、何気ない日常の中に溢れている幸せをまた一つ、拾い上げる。
「逃げなくてもいいだろ?」
「逃げてなんか……」
 抱きすくめた背後から耳元に囁きかければ、ふいと顔が逃げていく。けれど、上昇した体温に、赤く色づいた耳朶に、そんな意地っ張りも可愛らしい。
 くすくすと堪えきれずに笑いを零していればざわりと空気がどよめいて、手の甲に走る痛み。
「痛いって、皆本クン」
「知りません」
 つん、とそっぽを向く子供にどうしたものかと表面だけの溜息を吐いて、腰を抱く腕の力を強める。
 びくんっと驚いた身体に今度は心中で笑みを落として、腕の力を緩めてやる。子供を捕らえるためではなく、ただそこにあるだけになった腕に、子供が不安に振り向く。
 慈しむ色の中に沈む不安を感じ取って、微笑を浮かべて顎を掬う。
 緊張に身を堅くして、それでもどこか期待するように求めるように見つめてくる眼差しは心地よく、けれどそうしてそれをただ見つめ続けていれば、我に返ったように子供がはっとした表情で逃走を試みる。
「まだまだだね、光一」
「っ」
 小さく笑って、かわいげのない言葉を発そうとする口を塞ぐ。
 後頭部を包み込んで、くすぐるように口内を荒らす。逃げる舌を絡め取り、やんわりと歯を立てると跳ねた身体が静かに弛緩していく。
 縋り始めた身体を支え、次第に求め始めてくる子供に褒美を与えるように頭を撫でてやると、子供が幸福に、甘く鳴く。
 喉の震えに、乱れてきた子供の呼吸に名残を惜しみながら絡めていた舌を解き、唇を離す。
 熱い、熱に浮かされたような吐息を吐き出し、しなだれかかってくる身体を壊れものを扱うように、ようやく手に入れたかけがえないものを逃がさないように、抱き締める。

 幸福と、呼べる時間。


「あ」
 小さく声を漏らした子供に、首を傾げて顔を覗き込む。その時に髪が肌を掠めてくすぐったかったのか、子供が身体を竦ませてそっと距離を作る。
「桃太郎にご飯やらなきゃ」
「平気だよ。少しくらい遅くなっても」
 自分以外の名前にふつり、とむかつきを湧かせてしまう狭い心。
 まるで咎めるような視線を送ってくる子供に大丈夫だと囁くと、でも、と躊躇いながらも腕の中から離れていく気配はない。
 君だってまだこのまま居たいんだろうと、抱き締めて、口付けて、なんだかそれが必死にご主人様の気を引こうとするペットのようで、笑いが込み上げてくる。
 けれどたまには、そんな気分を味わってみるのもいいかもしれない。
「京、介さん……?」
「なんでもないよ」
 笑んだまま頬に口付けると、まるでそれが伝染したように子供の顔にも笑みが浮かぶ。
 ――けれど、何事もそう簡単にはいかないのが現実で。
「キョースケ、コーイチ! 腹減ッタ、飯食ワセロー!」
 遠慮の欠片もなく突撃してきたげっ歯類によってそれまでの幸福は無惨にも粉々。
 我に返りこれ幸いと腕から逃げ出した子供に腕の中の空虚を感じ取って、矛先は当然闖入者に向けられる。
「この齧歯類!」
「ナ、ナンダ!?」
「ちょ、京介さんっ。こんなところで超能力使わないでよ!?」
 朝から賑やかな珍騒動。
 至って本気だけれどどこかスキンシップの延長上のような馴れ合い。
「京介さんの短気」
「あれは齧歯類が悪い」
 子供に呆れた表情を向けられても、こればかりは譲れない。
 けれど、途方に暮れたように困った顔をする子供を更に困らせてしまうのも、大人げない。
「ま。僕たちもご飯にしようか。遅くなったし」
「京介さんが起きて早々、へ、変なことするからだろ!」
 顔を真っ赤にしてどもりながら怒鳴る子供に、こてん、と首を傾げる。
「変なことって?」
「自分の胸に手でも当てて聞いてくださいっ」
 今度は顔を耳まで真っ赤にして叫び逃げた子供を見送って、言われた通りに胸に手を当ててみる。
 けれどそこには、凍て付いていた氷があたたかな春の陽射しに溶けていくような、そんなあたたかくやさしいぬくもりしかなく、またこてん、と首を傾げた。
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