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  out of control  

「本当にこの場所で合ってるの……?」
 外れていて欲しい、という願いの込められた呟きに、松風はそれを知ってなお、頷いた。悲愴に頬を強張らせる少女たちの姿など見たくはなかったが、松風ですら嘘であって欲しいと願わずにいられない現実を無視することはできない。
 この中では恐らく、松風だけがもっとも冷静な判断を下すことができるだろうから。
 少女たちの中で一番に動揺から立ち直ることができたのは、松風の見立て通り、悠理だった。悠理は彼との関わりも浅い。戦力の要となるのも、今回は悠理になるだろう。
 けれど悠理は薫に酷く弱い。薫が傷付くことになるかもしれないことを、果たして彼女は遂行できるだろうか。
 松風が懸念を混ぜて向ける視線に、悠理はしかし気丈に頷いて見せた。だが、やはりその表情はかたい。
(それでも俺たちはやるしかないんだ。なんとしてでも皆本さんを止める。止めなくちゃいけないんだ)
「行くぞ!」
 自らを鼓舞するように松風は声をあげる。普段よりもワンテンポ遅れて、しかしやるしかないのだと覚悟を決めた応えが返ってきた。
 松風たちがやって来たのは、一日で外周を歩いて回れるほどの小さな孤島だった。島の人口も僅かなほど。観光地として栄えているわけでもなく、島に立ち寄る外部の人間は一週間に一度訪れる、連絡船の乗組員のみ。
 島は南北に伸びる形をしており、北岸は切り立つ崖となっていて僅かな住民は船の着きやすい南岸側に居を構えている。そのため北岸側には人の立ち入りはほとんどなく、住民たちさえ寄り付かない北岸は手付かずの荒れた地となっている――というわけではなかった。
 既に現地の下調べは済ませていた兵部曰く、この島には戦中にできた海軍工廠――つまりは軍事工場が存在していた。当然、終戦と共に閉鎖・廃棄されているが、数年ほど前から再び人の手が入り稼働していることが確認できた。
 そして近年建てられたと見える白を基調とした洋館が、松風たちを出迎えた。
「工場……があったようには見えないわね」
「この崖の高低さを利用して地下施設を作っていたんだと思う。多分、あの洋館はカモフラージュじゃないかな」
「だとしたら地下への入り口はやっぱり……」
「恐らく。三宮」
 松風が指示を出すより先に、紫穂が足元の地面に触れ透視を始めていた。目を閉じて意識を集中させていた彼女が、目を開けて頷く。
「地下にそれっぽい空間があるわ」
「ウチの空間認識でも確認取れた。間違いないで」
 葵のお墨付きを受けて松風も小さく頷き返し、だが、と続ける。
「今回の俺たちの任務は工場を改めることじゃない。あくまでも皆本さんたちの奪還――、最悪でもあの人の意図を知ることだ」
「そうね。それにコソコソしててもどうせもうバレているんでしょうし、時間の無駄ね」
「あっ、三宮……!」
 音を立てて茂みから姿を現した紫穂に、慌てて松風も続く。不用心な行動は避けるべきだ、と忠告しようとして、何故こうしてよく知った人物に対する警戒を抱かなければならないのかと当惑する。
 勿論、それは財団によってもたらされた凶報――皆本光一がギリアムに与したという事実のせいだ。
 それを聞かされたとき、松風はいったい何の冗談なのかと笑いたかった。けれどいつにない険しい表情の兵部を見れば、そんなことはできなかった。
 信じたくない気持ちはその場にいる全員が抱いた思いだろう。だが財団がそのような嘘を吐くメリットを挙げることはできず、実際に確かめるほかなかった。
「今はあなたが指揮官なんだからしっかりしてよね」
「……ああ。すまない」
 軽く睨むように見つめられて、松風は素直に謝罪を口にする。自分が彼女たちを率いなければならないと理解していたはずなのに、冷静ではないのは自分も同じであったのか。
 しかし紫穂はどうしてそう普段通りでいられるのだろうかと彼女の後ろ姿を眺めて、それが自分の思い違いであるとすぐに気付かされる。
 気丈に振る舞って見せても、紫穂の体は小さく震えている。もし本当に皆本が自分たちと敵対するのなら――、皆本に見捨てられたのだとしたら、それは薫たちにとってどれだけの衝撃と絶望を与えることになるのか。
 その恐怖を前にそれでもなお紫穂が自らを奮い立たせているのは、共に過ごしてきた薫や葵、大切な仲間のためなのだろう。
 付き合いの短い松風でさえ気付けるほどの紫穂の虚勢に、ずっと付き合いの長い二人が気付かないはずがない。
 そっと、紫穂の左右に寄り添う影。
「これはチャンスなんだ。やっと皆本に会える。そう考えるとなんだか嬉しくて武者震いしてくるよ」
「せやな。元気にしてるとええけど、ウチらの心配なんか必要ないかもしれへんな」
「皆本さんのことだから案外、向こうの超能力者を手懐けたりしてたりして」
 そう言ってそれぞれ顔を見合わせる姿はこの島に来たときよりも――、報せを聞いてから久しく見ることがなかったほどに明るい。
 安堵できるわけではないが、それでも今の彼女たちならば普段通りの力が出せるだろう。
 松風は悠理とともに顔を合わせ、力強く頷きあった。
「乗り込もう。くれぐれも――」
「わかってる。油断はしない。ううん。皆本相手だからこそ、油断はできない」
 松風の言葉を遮る頼もしい声にそれぞれ気を引き締め、まっすぐに洋館を見据えた。
 入り口に辿り着くまで、外部にトラップなどは仕掛けられていなかった。奇襲をかけるつもりもないのか、あっさりすぎるほど簡単に玄関に到着する。
 だからこそ、この扉の先に待ち構えているものを最大限警戒する。紫穂の透視で扉にも仕掛けがないことは判明している。問題なく超能力を行使できるため、ECMもまだ稼働していない。
(そういえば皆本さんには指導してもらってばかりで、訓練でも直接手合わせをしたことはなかったな)
 そう考えてふと、兵部の言葉を思い返す。
『皆本相手に策を練ろうとするな。奴は奇策も凡策にも対応する。競り合えば必ずお前は負ける』
 腹が立ってもいいはずの台詞なのにそうは感じないのは、松風もそれが紛れもない事実だと悟っているからか。
 敵であったはずの兵部までが皆本をそう評価しているのだ。奇策にも凡策にも対応してくる皆本はさぞ、厄介な相手だっただろう。
(逆を言えば兵部の相手をしていたから皆本さんはどんな策にも対応できるようになったんじゃ――とは、さすがに言える雰囲気じゃなかったな)
 その時の忌々しげに歪められた兵部の顔までも思い出して小さく噴き出した松風に、複数の責めるような視線が突き刺さる。
 松風は慌てて咳払いして、薫たちの顔を順に見つめる。
「最後に確認しておこう。敵の数は不明。けれど皆本さんたちが複数のクローンチャイルドを従えていることは確認されている。皆本さんはアイン、ツヴァイ、と呼んでいたそうだが」
「ドイツ語で数字の1と2のことです」
「ああ。それと賢木さんが連れていた一人をノインと呼んでいたという報告もある。ノインは9だ」
「それって最低でも9人はおるいうこと?」
「わからない。そうかもしれないし、数字が欠けているのかもしれない。あるいはそれ以上の可能性も」
「……悪趣味な呼び方ね。数字でなんて……。まるで物かなにかみたいじゃない。皆本さんらしくない」
 吐き出すように呟いた紫穂の言葉に沈痛な空気が漂い始める。だが、いつまでも扉の前でまごついているわけにもいかない。
 強引にでも空気を戻して、松風は続ける。
「とりあえず最低でも3人はいるということだ。そしてクローンチャイルドだけじゃなく賢木さんにも警戒しておくべきだ」
「賢木先生が参加してくるようならそっちは私が引き受けるわ。皆本さんの傍についていながら何をしていたのか、たっぷり聞き出してあげなきゃ」
「……頼もしい限りで」
 紫穂の凄絶な笑みを前に表情をひきつらせつつ、松風は薫に対し頷いて見せた。
 薫は緊張を――強張りを取り戻した表情で静かに扉を開け放った。すぐさま飛び込むように悠理、葵らが続き、周囲を警戒する。
 二階部分まで吹き抜けたエントランスホール。先に透視した通り、視界に移る範囲に人影はない。だが、確実にここで誰かが生活している気配が存在している。
 見える範囲すべてを警戒しながら進み、最初に声をあげたのは紫穂だった。
「ダメ! 薫ちゃん、戻って!」
 紫穂の鋭い声に、何かに気付いた薫の足が止まる。同時に耳を済ませていた全員が、風を切る鋭い音を聞いた。そして。
「遅ぇよ」
「――賢木先生……」
 薫が進んでいた二歩ほど先の床に、鉛の弾がめり込んでいた。
「わざと外さなきゃ当たってたぜ、今の」
 二階の吹き抜けに、見慣れた姿が立っていた。その手に構えられた銃口は、紛れもなくこの洋館の侵入者へと向けられている。
「どういうことなの……、やっぱり」
「どうもこうも、全部聞いたからここに来たんだろ? ま、お前らが会いたがってるのは俺じゃなくてコイツだろうけどな」
「っ」
 おどけるように肩を竦めて構えを解き、賢木が二階の奥を振り返る。警戒心のない無防備な姿にもかかわらず、誰一人としてそれを考える余裕はなかった。
 コツ、コツ、と近付いてくる規則正しい足音。逸る鼓動に掻き消されそうな音が途切れた頃には、そこには見慣れた人物が何も変わらない姿を現した。
「久し振りだね、皆。できるならこういう形で会いたくはなかったけど、仕方のないことなんだろうな。――よく来たね、破壊の女王」
 自嘲するように、寂しげに皆本が呟いたその言葉に、薫の体が大きく揺れる。
 咄嗟に開かれた口は何を叫びたかったのか。だが薫がそれを告げる前に、正面に2つの影が降り立った。
「紹介しよう。今の僕が率いるチルドレン――、ギリアム様から預かった大切な子どもたちだ。アイン、ゼクス、お客様との遊びの時間だ。終わったらお茶にしよう。今、ドライとツヴァイがお菓子を焼いている」
「了解、ドクター」
「――あん? 俺はここにいていいのかよ?」
「お前がいなくなったら誰が僕を守るんだ? 相手は彼女たちだぞ」
「んなもんフュンフでもツェンでも呼べば――」
「あの子たちは勉強中だ」
「……へいへい。大事なボスに傷はつけらんねぇわな」
 まるでこちらを脅威とも見なしていない、ピクニックに出掛ける前の用事を片付けるようなお気楽さに、誰もが言葉を挟むタイミングを失くしていた。
 薫たちの知る皆本は、決してどんな状況であろうと相手であろうとも、片手間で対応することなどなかった。常に真剣に向き合い、全力で薫たちのサポートをしてくれた。
 なのにこれはどういうことなのだろうか。
 歯牙にもかけない態度のまま、皆本はこれを「遊び」と言っただろうか。
 薫たちが恐怖に身を震わせ、血の滲むような思いでこの場に立っているというのに。これに憤りを感じずに何に怒ればいいのか、松風にはわからなかった。
 本当に皆本は洗脳を受けていないのか──?
 これが皆本の本心だというのか。
「――ツェン? 皆本さん、あなたは何人の子たちを」
「10人だよ。僕は彼女らをナンバーズと呼び、実験に協力してもらっている」
「実験……? いったい何を。お兄様がそれを命じたのですか」
 思い浮かぶままに疑問を投じる悠理に皆本は控えめに微笑みかけ、首を横に振った。
「君に話す必要はない。さて、いい加減この子たちも待ちくたびれたようだ。――しっかりと遊んであげてくれるね。薫、葵、紫穂」
 そして、と皆本が松風に視線を移す。
「君がどれだけ成長したのか、見せてもらうよ」

§ § §

 人間は順応する生き物だ。多少の不便があろうとも、自由がなくても、それを当たり前として受け入れ始める。
 もっとも、それも差し迫った命の危険や、相手に今すぐこちらをどうこうする気配がないことも理由のひとつではあるだろうが。
 そうなれば日がな一日をまんじりと過ごすことにも飽き、快適な監禁生活をより充実したものへと変えるべく憐れな捕虜から図太い捕虜へとランクアップを果たしていた頃。
 神の悪戯であるが如き転機が目の前に転がってきた。
 あるいはそれは、破滅へ誘う悪魔の囁きであったのか。
「今日はいったい何のお菓子を作っていたんだい? お陰で監獄にあるまじき甘さがすっかり取れなくなってしまった」
 クローンたちも気が散って仕方がない、と嘆くギリアムは、しかし言動に反して愉快そうに見える。思惑通りでありながらも、ただでは終わらせない皆本たちの態度が気に入っているのだろう。
 神経の太さへの称賛と皮肉を織り混ぜた世辞を鼻先で笑い飛ばして、賢木はギリアムをじろりと睨み付けた。
「わざわざクレームでもつけにきたのか? お暇なこって」
「君たちよりは忙しくしているよ。今日は君たち――、いや、皆本くんに聞きたいことがあってね。破壊の女王、という女性の存在について」
 支配者然としてゆったりとした動作でソファに座り、ギリアムは何気ない口振りでその名を紡ぐ。そして動きを止めた皆本と賢木を眺め、確信を得たように口角を持ち上げた。
 最初に硬直から解かれたのは賢木だった。一拍遅れて皆本も自然な動作でギリアムと対角にあるソファに腰を下ろす。賢木は景色を眺めていた窓際――部屋を見渡すことのできる位置から動かない。
「どうして、とは聞かない。どこでそれを聞いた?」
「女王という存在は知っていたさ。兵部が度々口にしていたからね」
 この瞬間、皆本と賢木は意図せず顔を見合わせていた。どちらの顔にも気の抜けた表情が浮かんでいる。
「だがそれが何を示したものなのかはわからなかった。調べたが見つからず、余程周到に隠されているのか何かの暗喩かとも考えたが、中々答えに辿り着けなくてね。それがある日あっさりと判明したんだ。拍子抜けしたよ」
 大仰な仕草でギリアムは肩を竦めた。そしてこれから取るであろう行動を期待して、皆本を見る。
「破滅の女王は君の大切なチルドレン――明石薫のことだろう?」
 違うかい、と囁いた唇が笑みを作る。
 皆本は何も答えなかった。眉ひとつ動かさず、ただ殊更ゆったりとした仕草で目を伏せる。
 沈黙でさえ肯定であるという静寂の中で、ギリアムは言葉を続けた。
「なるほど、明石薫が女王なる存在であれば、兵部京介が彼女に執着する理由もわかる。……だがそれは明石薫に対する理由であって、女王に対する理由とはならない。では、破滅の女王とはどのような存在なのか」
 ギリアムは組んだ足の上で緩く手を重ね、深くソファに体を預けた。
 そして同情めいた視線を、皆本へと向ける。
「架空の未来だとしても、愛する人を手にかけなければならないのは悲劇だね。皆本くん」
「……ただの予知された未来だ。そしてその未来は消えた。たとえもしそんな未来が現実に訪れようとも、僕は違う」
「それはどうだろう? 未来の君も同じように苦悩し、同じように決意をして、それでも引き起こされた結末ではないかな」
「お前に僕の何が分かる」
 強い口調で言い返して、皆本は視線をギリアムから賢木へと滑らせた。うまく感情を抑えられてはいるが、賢木が驚いていることは手に取るように分かる。
 賢木も白紙となった未来の一端を知る人物ではあるが、仔細を知っているわけではない。皆本もわざわざ伝える内容ではないと判断して、これまで伝えてこなかった。
 起こらなければいい――起こしてはいけない未来だからこそ、口にすることが憚られたこともある。
「それを知っているということは不二子さんから聞き出したのか」
「ああ。彼女は君たちの未来を酷く憂いていたよ。お陰で僕も興味が湧いた。……いや、そういっては君に失礼だ」
 おどけた軽い口調で告げられる謝罪を聞き流して、皆本はギリアムの真意を探ろうとし――やめる。皆本が考えるまでの必要はなく、ギリアムはそれを語るだろう。
 それこそがここにきた理由なのだから。
 ギリアムの暗い目がまっすぐに皆本を見つめている。それは本心を暴き出そうとするように粘着質で、仄暗い破滅へと誘い込むようなどろりとした熱があった。
「彼女を、取り戻したくはないかい?」
 皆本は僅かに目を見開かせ、そして手のひらをきつく握りしめた。
「君はこれまで彼女を女王としないために、悲劇を引き起こさないために身を粉にして尽力してきた。兵部京介との対立も、であるからこそ君には見過ごすことのできないものだった。……今の状況は君にとっても喜ばしくはないことだろう」
「僕に寝返れというのか」
「――白紙となった未来。その可能性が潰えた未来ではあるが、彼女は今、自らを女王として名乗りを挙げている。この先に待つ未来図は、果たして予知と違うのだろうか?」
 迷いこそギリアムの狙い通りだとわかっていても、皆本は考えずにいられなかった。すでに未来予知からはいくつかのことに変更が加わり、可能性としての未来は潰えた。だがその根源たるギリアムはこうして健在であり、恐らくはあの未来の舞台は整いつつある。
 だからこそあの未来を再び見えることはないという確信と、しかし違う形で舞台が用意されるのではないかという不安は常に皆本の胸中に同居していた。
「君を洗脳するのは容易い。だが僕は言葉を違える真似はしない」
「……僕と女王を対峙させ、そこに兵部を引きずり出す算段か」
「そう。君たちは餌だ」
 ギリアムにとって皆本の苦悩も悲嘆も、引き起こされる悲劇でさえも単なるエンターテインメントでしかない。いや、それだけの価値があるかも疑問だ。
 なかなか姿を見せない兵部に痺れを切らしていたところで、ちょうどよく食いつきの良さそうな餌を見つけた。だからそれを釣り餌に竿を振ってみようと考えた――そんなところだろう。
 囚人は悲嘆に暮れることも心慰める反応を見せてくれることもなく、それどころか日に日に図太さを増していくとなれば、どこかで釘を刺しておく必要もある。表面上は繕っていても、今の状況は決してギリアムにとって満足のいくものではないということか。
「すぐに答えを出す必要はない。じっくり考えてくれたまえ。だが――君はもう答えを出しているのではないかな」
 俯く皆本の肩に手をかけ、そうおかしそうに囁いてギリアムが部屋を出て行く。
 しばらくの間、皆本も賢木も身じろぎひとつ取ることはできなかった。しかし溜息を溢した賢木が、ゆっくりとした足取りで皆本のもとへとやってくる。
 顔を上げて賢木を見つめると、浅い頷きが返された。皆本は覚悟を決めるようにぐっと下腹部に力を入れ、情けなく眉を下げた。
「悪い、賢木。しばらく僕に付き合ってくれるか?」
「謝る必要ねーだろ。最初から俺はどこまででもお前に付き合うつもりだぜ?」
「僕がやろうとしているのはただギリアムのいいなりになることじゃない。僕は――」
 皆本の覚悟を聞いて、賢木は目を瞠らせ、そして唸るような声を上げた。
「……自分が正しいと信じ込んだアホがその正義に酔い痴れて貫こうとしたとき、一番迷惑をかけられるのは世界だ。悲愴な覚悟を決めた誰かが戦争しようだなんて大ホラ吹いて始めることができるのは小説か映画くらいなもんだろうぜ。そしてそれは悲劇じゃねぇ、起こるべくして起こされた喜劇だ」
「だがいずれそうなる。今はとっくに撒き散らされた火種にいつ火をつけるのか、機を見ているだけに過ぎない。ならイニシアチブを取れるのは今しかない」
「けどよォ、あいつの言葉に乗ったところで俺らが自由に動ける保証はない。それこそ、奴の目論見通りに終わる可能性もある。むしろそれが一番高い」
「それは僕もわかっている」
「……敵を騙すには――か? この場合の敵ってどっちだよ」
 皆本の説得は無理だと悟ったのだろう、賢木が大仰な身ぶりで肩を竦める。賢木が言いたいことは皆本にも分かるのだ。この戦いに勝ち目はない。
 どれだけの万策を期そうとも、敵はギリアム一人ではないのだから。
 賢木が皆本を止めようとする気持ちも十分に理解できるし、有り難いとすら思う。だがその優しさにいつまでも甘え続けるわけにはいかない。
 そろそろ皆本も覚悟を決めなければならない。遅すぎる覚悟ではあるが、間に合ったはずだ。
(本当に恵まれているな、僕は――)
 唇を自嘲に歪ませて己の手のひらを見下ろす。皆本は慎重に息を溢すと、まっさらなその手をきつく握りしめた。
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