素直になれない男と素直すぎる少年

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  月は夢を見るか? 01  

 放課後も幾ばかりかを過ぎれば、昼間の喧騒など忘れて校内は静かなものである。しかし開け放した窓からはグラウンドにいる部活に精を出す生徒達の元気溢れる声や、音楽室の方角からは微かな演奏が聞こえてくる。
 明日の授業の為に必要な資料やプリントを確認していると、一つの足音が向かってくることに皆本は気付いた。それは準備室の前で止まり、唐突にドアが開け放たれる。
「皆本クンからの呼び出しなんて珍しいね」
「教師を君付けで呼ぶな! それと、ちゃんとノックをしてクラス氏名用件を言え」
「えー。めんどう」
 振り返った皆本の注意にもどこ吹く風。心底面倒くさそうな表情をしては、その生徒は堪えた様子もなく平然と入ってくる。
 服装等特に問題もなく生活態度も良好であるはずなのに、何故か皆本の前でだけは不真面目な態度をとる。幾度注意しても聞く耳は持たず、舐められているのかと皆本が肩を落とす事も暫し。
 改められない態度に皆本は更に口を開こうとするのだが、これまでの経験上無意味と知っているから止む無くその口を閉じる。これ以上は体力と時間の無駄遣いだ。
 それに今回はそのことに時間を取られている場合ではない。
「まあ、いい。……兵部、最近何かあったのか?」
「なぁに? 皆本クンてばようやく僕に興味持ってくれたの?」
 くすくすと、笑みの混じったその言葉にカッと頭に血が上る。明らかにからかわれてるとわかっていても、怒鳴らずにはいられない。
「ふざけるな!」
「やだなぁ。そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
 兵部との会話は、いちいち話が脱線する。こちらが言いたい事を分かっていて、その上であえて見当違いなことを言うのだ。皆本が反応しまいと思っていても、どうしても反応してしまう。
 飄々とした態度のまま、兵部は更に皆本の気を煽るようにあちこちと部屋の中を見渡す。その意識の中に皆本の事が入っているのかどうなのか。けれど、再び皆本が怒鳴りだすそのタイミングを計ったかのように、兵部は唐突に視線を向けてくる。
「それで? 僕を呼び出した用件はなんでしょう、皆本センセイ」
「……」
 散々からかわれているからか、自分で注意していても兵部に先生、と呼ばれるとどうしても何か企んでいるような気がしてならない。座りの悪さのようなものを感じる。つい、窺うように見てしまう自分を自覚しながら、皆本は溜息を吐いて一枚のプリントを兵部に差し出した。
 渡したそれは、つい昨日行われた定期考査の解答用紙。返却は明日の授業で行うはずだったのだが、気になることがあり皆本はこうして兵部を呼び出したのだ。
「お前が点を落とすなんて珍しいじゃないか」
 万年主席、という程でもないが常に上位に居る兵部が点を落とすのは珍しい。それも、平均点以下に、だ。そういうことも間々あるのかもしれないが、どうにも見逃していい落差じゃない。
 空白の目立つその解答用紙に、もし授業内容に分かりにくい事がありこんな点を取ったのならと、皆本は考えたのだが。
 果たして、兵部は然程興味なさそうに己の解答用紙を見つめ、それで、と言葉を促してくる。その様子に不審さを感じるものの、皆本は戸惑いながら、
「お節介かもしれないが、今回は何で調子が悪かったんだ? 授業はついてこれてるか?」
「勿論だよ。皆本センセイの授業は分かりやすいからね」
「それじゃあ……」
「ねえ、もしかしてそれが心配で僕を呼び出したの?」
「あ、ああ……」
 皆本の言葉を遮り核心を突いてくる兵部に頷けば、得たり顔を向けられる。一人納得する兵部にどういうことかと目を白黒させていると、唐突に顔が近付けられた。
 至近距離で見つめられ、覆い被さってくるような体勢に逃げ場も無い。
「ひょう、ぶ……?」
「皆本クンの気を引きたかったから、って言ったら怒る?」
「お前また君付け……、て、え?」
 元に戻った呼称に注意しようとして、皆本はぱちりと瞬く。兵部はその後に、何を言っただろうか。最初は呼称に気が行って聞き逃しかけたのだが。
「……僕の気を、引く?」
 一体何を言っているのかと、皆本は兵部を凝視する。理解出来ない言葉を放つ兵部が、理解出来ない。聞き間違いかと思っても、兵部は皆本の反芻したその言葉を否定しない。それどころか、頷いてさえいる。
 皆本が兵部を見つめ続けたまま困惑していると、頭上で呆れた様に溜息が吐き出された。その態度に皆本はむっと顔を顰めるが、今はそれよりも兵部の言った言葉の意味が気になる。
 大体何故、そんな事の為に成績を落とす必要があるのだろうか。
「本当、皆本クンって鈍感なんだから」
「なっ。それより、だからお前――」
「わーかーりーまーしーた。皆本センセイ。……これでいいんだろ?」
 態度は相変わらず不遜であるが、訂正された呼称にとりあえず頷く。どうせ直ぐにまた戻るのだろう、と思っている時点で信用はしていないのだが、何事も長く続けていく事が大切だ。
 離れて行く様子の見えない兵部を押し返して、しかし身体はびくともしない。その上、逆に腕を掴まれてしまう。
「まだ気付かないの?」
「気付くって――、何にだよ」
 これまでの兵部との会話の中に、何かヒントらしきものはあっただろうか。
 本気でわからないと言う顔をする皆本に、兵部は僅かに顔を歪めた。……ほんの少しでも気付いてくれればいいのに。いや、それほどに皆本は鈍感だから、兵部は今回のような行動に出たのだが。気に掛けているのも教師としてだろう、と考えると腹が立つやら悲しいやら。
 戸惑う皆本に顔を近付け、そして兵部が囁く。
「皆本センセイのことが好きなんだよ」
 言われた言葉に、皆本は目を丸くして固まった。
 深読みする必要のないそのストレートな言葉に、遅れて顔が赤くなる。
「な、なな、なん……っ」
 壊れたレコーダーのように意味を成さない言葉を繰り返し、後ずさろうとして机の角に思い切り腰をぶつける。だがそんなことを気にしていられないほど、皆本は混乱していた。
 そもそもまさか告白されるだなんて微塵も思っていなかったし、相手は生徒で教え子で、男だ。唐突な出来事に停止する思考は、冗談と返すことも出来ない。
 兵部に腕を解放されても、皆本はただ凝視し続けることしか出来なかった。
「冗談――なんて言わないからね」
 弛緩しかけた身体が、一気に強張る。
 それを見て、兵部が一瞬悲しげな表情を見せたかのようにも見えた。
「僕も別に皆本センセイを困らせるつもりはなかったけどね。いい加減、はっきりさせようと思って」
「……なに、を」
 掠れた、少し怯えるような声を出す皆本に、兵部はゆるりと口端を持ち上げる。これから何を言われるのか、自然と皆本の身体が強張った。
「皆本センセイも僕のこと好きだろ?」
 小さく、まるで秘め事を囁くかのようなその声に、皆本は声を詰まらせた。違う、と否定したくても声は出ず、視線を逸らしたくても外せない。心の奥まで見透かすような瞳に魅せられる。
 その呪縛を解いたのは、廊下を駆ける一つの足音だ。その音に我に返るが、その後に聞こえて来た声に鼓動が跳ねる。
「皆本ー? 皆本センセー!」
 その声は、聞き慣れた声だ。次いでガタガタとドアが揺れ、一向に開く気配のないドアに皆本は兵部へと視線を向ける。兵部は、忌々しそうにドアを見つめていた。
 開けられないドアに、来ない返事に居ないと判断したのか、ドアの向こうの生徒は悪態を残して諦めて去っていく。
「まったく……。鍵掛けて正解だったな」
「お、おまえ……っ」
「いいだろ。邪魔なんか入れたくなかったんだよ」
 憮然と呟く様は年相応に見えるが、すぐにまた真剣な眼差しを向けてくる。あれで有耶無耶にしてくれるほど、兵部は甘くないらしい。
 だから皆本も諦めて、正面から兵部と向かい合う。
「僕は兵部を生徒以上として見たことは一度もない」
 確かに仲の良い生徒の一人ではあるが、そこにそれ以上の感情を挟んだ事はない。
 皆本はそうキッパリと言い放つが、兵部はその答えに不服らしく、顔を顰めて呆れたように溜息を吐く。
「あ、そ。センセイがそういうならそういうことでもいいや。僕は諦めないから」
「兵部……」
「絶対僕に惚れさせてみるから。覚悟しておきなよ、皆本センセイ?」
 自信満々にそう宣言する兵部に、皆本はただ面食らうだけ。何故そこまで言い切れるのか疑問ではあるが此処はただ適当に聞き流していた方がいいだろう。
 どうせ年上への憧憬を恋情として捉えているに過ぎない。その対象が自分である事が不思議だが、悪い気のするものじゃない。暫く相手をしてやれば間違いだった事に気付くはずだ。
「とりあえずそれは置いといて。今度追試するから真面目に解いてくれるな?」
「真面目にしたらご褒美くれる?」
「兵部!」
「ははっ。冗談だって。本当に皆本センセイは可愛いなぁ」
「大人をからかうな!」
 これまでは真面目な生徒であったはずなのに、兵部の素というものはこんなものだったのか。確かに誰でも多様な面は持っているだろうが、なんとなくショックを覚えてしまう。
 皆本は痛み出した頭を抑えて、話はそれだけだと兵部を帰らせる。兵部も大人しく準備室を出て行ったのだが、その間際に言い残していった言葉に、皆本は深く頭を抱えることになる。
「僕意外と嫉妬深いから、あんまりあの子達と仲良くしすぎないでよ」
 それが誰を示しているのか皆本に心当たりがないわけではない。先程、準備室にやって来た人物であり、此処数ヶ月の悩みの種でもある生徒達だ。
 一体何故それを兵部が知っているのか。
 解決させなければならない問題が逆に増え、皆本はひっそりと涙するのだ。
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