甘く切なくあたたかく、優しい死を彼らに
Lacrimosa ep.1-01
――やばいっ。逃げなきゃ……!
先程男の手によって打たれた薬が一体どういった類のものであるのかわからないが、身体がびくとも動かない。殴り飛ばされたお陰で頭を打ちつけ、ほんの僅かな時間気を失っている間に手足は簡単に男達の手によって拘束されていた。手際のよさはこの場合流石と褒めてやるか、彼らの職業を恨むべきか。簡単に解けることの無いそれは手足を動かすだけでも肌に食い込んでくる。
常であればこんなもの簡単に解くことが出来るはずなのに、最悪なことに何故だか超能力が使えない。今は男達に縛り上げられた恐怖よりも能力が使えない恐怖が勝る。
「どうしたよ? お得意の超能力ってやつをまた見せてくれよ」
「お前なら俺らなんか簡単に吹き飛ばせるんだろう?」
下卑た笑い声を上げる男達は兵部が超能力を使えないのだと知っているのか、確信めいた表情を浮かべている。あの薬に何か仕掛けでもあったのか。いやしかし、そんなものがあれば真っ先に隊長が情報を掴んでいるはずだ。一瞬でも感情を露にしてしまった瞬間を男達は見逃さなかったのか。こういうときに、兵部は自分の幼さを痛感する。
明らかに男達の眼に獣染みた色欲を滾らせるのを見て取って、兵部は息を呑む。どんなに超能力者として戦いの前線に赴いていたのだとしても、兵部はまだ幼い子供に過ぎない。大人数人に取り囲まれ身体の自由を奪われて、肌に突き刺さる身の恐怖に平気でいられるはずがない。
それでも男達に浅ましく助けを懇願しないのは、単に彼自身のプライドの問題だ。こんなことで、謂れの無い暴力に屈したりはしない。したくはない。それが何の役に立つと囀られたとしても、それは譲ることの出来ない男としての矜持だ。
けれど兵部は、その強気な態度を続けることが男達の自尊心を傷付け嗜虐を煽るのだという事には気付けない。それに気付くには兵部はまだ幼かった。
べったりと、肌に張り付く服の感触が気持ち悪い。ほんの少し前の出来事を思い出して兵部は嫌悪に顔を顰める。
どうしてこんなことになってしまったのかと、考えることすら馬鹿らしい。兵部の周囲にいる人間は――いや、恐らく大抵の人間は超能力者という人種に対して畏怖の眼差しを向けてくる。
考えられないような超常現象を自在に操ってみせる人間離れした人間。
その存在は非常に稀であり、確認されている数は両手で足りるほどだ。生まれ付き何らかの特殊な能力を持って生まれてきた子供達は皆、軍に預けられる。彼らほど有能な兵器はない。しかし兵部達超能力者とてただ兵器として生きることを由としているわけではない。
戦いに赴いているのはあくまでもお国の為だ。そして、自分達の居場所を確保する為の。
「随分とお寒そうですね、少尉殿」
「ふん。どこかの脆弱な士官が馬鹿なことをしてくれたお陰でね……っ、ぐっ!」
「言葉を慎んだ方が宜しいのでは? どうやら少尉殿は現状を理解なさってはいないようだ」
くつくつと、喉奥で笑いを噛み締めながら男は慇懃に言い放つ。じくじくと蹴られた脇腹が痛んだが、力の入らない拘束された腕では庇うことも出来ない。だが男の狙い通りに動いてやるつもりも毛頭ない。
気丈に男達を睨み続けていると、唐突に横にいた男達が手を伸ばしてくる。その目的を感じ取り、兵部は身を捩って抵抗する。
「やめろっ! 僕に触れるな!」
「なにを仰る。少尉殿がお寒そうなのでその濡れた服を脱がして差し上げようと」
「断る!」
兵部が抗う度に髪を濡らした飛沫が辺りに飛散する。けれど、地の上でじたばたともがくしかできない少年がどうして迫り来る大人達を避ける事が出来るだろうか。暴れる身体を押さえつけられて、軍服に手を掛けられる。
そして何の躊躇もなく一気にそれが引き裂かれる。服は無残に破られ、衝撃に釦が弾け飛んでいく。下に着込んでいたシャツの襟元にも手を掛けられそれも一息に引き千切られる。
丸く満ちた月光の下に曝される少年の柔らかそうな白い肌に男達の口から感嘆の息が漏れる。好奇の目に肌を曝すことになり、兵部はその顔を蒼褪めさせる。脳裏にちらちらと過去の光景が過る。
あれはいつのことだったか。そう以前のことではなかったはずだ。あの時も数に任せて男達に取り囲まれて、身体を押さえつけられ服に手を掛けられて……。
「っぁ、……ゃ、ぃゃ……ぁ」
ガタガタと小刻みに身体が震え出す。身体の奥底から何かが込み上げてくる。だがそれを押さえ込まなければならない。また、同じことを繰り返してはならない。あの人とも約束をしたはずだ。そしてまたあの人も約束してくれた。
同じ轍は踏まない。けれど、男の手が下肢に掛けられた時に、ドクッと大きく心臓が跳ねる。奇妙な高揚感。力が漲って来るような感覚。
『私達は、どんな時でも理性を失ってはいけないの』
「――ッ!!」
戒めのように、その言葉が蘇ってくる。ああそうだ。理性を失ってしまえば、自分達が嫌悪する人間達が言うようにただの化け物となってしまう。それだけは止めなければならない。自分達は、力の使い方を間違ってはいけない。
だがだからと言ってこのまま大人しく男達の嬲り者にされなければならないのか。「自分」という存在を踏み躙られ、男として人間としての尊厳すらも奪われ、人形とならなければならないのか。
そんなのは認められない。理性と本能が鬩ぎ合う。
使えないと思っていた能力が戻ってきている。あれは一時的なものだったのか。では打たれた薬は一体なんだったのだろうか。身体はまだ、動かせない。
「最初からそうやって大人しくしてればよかったんだ」
相変わらず下卑た笑いを浮かべる男の声は、ただ兵部の耳を通り抜けていくだけだった。恐怖がその臨界点を突破してしまうと、頭の中は妙に冴え冴えとしていた。不思議なほどに今ならば冷静に考えることが出来る。
兵部を囲う男の数は全部で五人。先程までであったら抵抗など何も出来なかったかもしれないが、こちらには超能力がある。使い方次第では微量の能力でも大の大人を殺すだけの力を発揮させることが出来る。
やるならばいつだ。楽に殺したりはしない。あの時のように、一息に殺してやるものか。
じわじわと苦しめて、苦しめて、助けを乞わせるのもいい。
下肢に纏っていたズボンを引き下ろされた瞬間、兵部は動かない指先に力を籠めて念動能力を発動させた。
「そこで何をしている」
だがそれは、突然の闖入者の声に発動の瞬間に遮られた。虚ろとなったような眼差しで声のした方を見れば、茂みの中から白い何かがこちらへと近付いてくる。
その闖入者は男達にとっても予想外だったのか息を殺して何かが近付いてくるのを待っている。
「誰だッ」
鋭く発せられた男の声は、しかし闖入者に無言で返される。現れたのはまだ年若い青年だった。男達はそれまでの警戒を僅かに緩める。上官ではないか、それを懸念していたのだろう。計画性も何もない杜撰な行動だ。
青年は周囲を見渡して、現状を把握したのか兵部へと視線を向けてくる。真っ直ぐに射て来る眼差しに、今更のように今の自分の格好に冷や水を浴びせかけられたように芯まで冷え切っていく。
兵部の身体を眺めるように見た後に、青年は男達へと視線を移す。
「お前達の顔は覚えた。それぞれの上官に事の報告をさせて貰う」
「冗談を――。俺達は池で溺れていた所を助けていただけだ」
「それこそ冗談だな。溺れていた者の服がどうして破ける。まさか自分達が引き上げた時には破れていた、とでも言い訳するつもりか?」
男の言葉も青年は直ぐに切捨て、青年は嘲笑うかのように言葉を返す。一歩を踏み出した青年の歩み寄る足音だけが周囲に響く。その間、そこにいた誰もが何故か動くことは出来なかった。
青年が現れたその瞬間から、その場は青年に支配されていた。たかが青年一人を相手に大の大人が気圧される光景というのは傍から見れば滑稽だっただろう。けれど青年は、それだけの雰囲気を纏っていた。周囲の空気を飲み込んでしまう存在感が彼にはあった。
ただ青年が近づいてくる事を許し、男達は忌々しげに青年を睨む。青年はその視線すらもないものとし、兵部の傍らに膝をつく。兵部に対して笑いかけた青年は、すぐ近くに落ちていた使用済みの注射器に気付いた。
それを拾い上げると、兵部を軽く一瞥して男達を見上げる。
「最近医務から医療器具紛失の報告を貰っていたんだが――、詳しく事情を述べてもらわなきゃならなくなったな」
「……なんのことだかしらねぇな!」
男は言い終わるか否か、青年に向かって足を蹴り上げる。幾ら男が士官級だとは言え戦地に赴かない軍医の敵うような相手ではない。見るからに青年の身体つきは華奢であるし、彼らも障害にならないと判断したからこそ、暴挙に出ているのだろう。
五人を相手にすれば青年もただでは済まないかもしれない。そう思って兵部がまた超能力を使おうとした刹那。周囲には銃声が轟いた。
「まったくこれだから軍人は血の気が多すぎて嫌いなんだ」
「う、あ、ぁ、ああ……ッ」
「見苦しい」
青年の手には、いつの間にか銃が握られていた。恐らくは上着の下に忍ばせていたのだろうが、彼は躊躇いもなくその引き鉄を引いていた。男は撃たれた右足を庇いながら、地に転がっている。
それを冷たく見つめて、青年は残りの四人にも順に銃の照準を滑らせていく。男達が怯えたじろぐ様子を面白味もなんともなく青年は見つめて、兵部へと目を移す。その瞬間にびくりと身体が震えてしまったのは、青年の浮かべる顔には人形のように感情が見えなかったからだ。しかしそれが、兵部と視線が合った瞬間にふわりと人間味を帯び感情を見せる。
徐に纏っていた上着を脱ぐと、青年はそれを兵部の身体に掛ける。水と外気に冷えていた身体に青年の体温を残すその上着は暖かい。
「僕の声は聞こえるかい?」
兵部に掛けられたその声は、男達に向けられたものとはまったく違う、柔らかな声だった。その声に兵部は頷きを返したつもりだったが、首は少しも動いていなかった。少しも思い通りにならない自分の身体に兵部が顔を顰めているとそれだけで青年は何か悟ったのか、そっと身体を抱えあげられる。
行き成りの事に兵部が驚き声を上げると、この場には不釣合いなほどの穏やかな笑みを見せられる。
「打たれたのは恐らく筋肉弛緩剤の類だろう。どれ位の量を使われたかは分からないが、直ぐに自分で動かせるようになる」
「そう、ですか……」
しかしそんな事は兵部には関係がなかった。身体の自由が奪われた原因が分かったとしても、ただ余計に男達への憎悪が深まるだけだ。
力を入れられず青年に抱えられるままに身体を預けるその胸の内では、まだ先ほどの高揚も冷え冷えとした殺意も消えてはいない。燻ったままのその感情を持て余していると、すぐ耳元で青年がクスリと笑う。
「彼らの処分は僕に任せてもらっても構わないかな?」
「…………構いません」
本当ならば今この場で出来るならば兵部の手で処分を下してやりたい。だが青年の事情を汲めばそうすることも出来ないだろう。もしかしたらこの男達は兵部以外の誰かにもこうして薬を使って襲っていたかもしれない。
殺してやることもそうだが、彼等には社会的な処罰を下した方が効果はありそうだ。現に、二人の会話を聞いて顔を蒼褪めさせている者も居る。それまで兵部は男達の事など気にしたことはなかったが、もしかしたらそれなりの爵位のある家の出か、それなりに階級のある人間であったのかもしれない。
青年は片腕で弛緩した兵部の身体をしっかりと抱き止めると、右手の銃を握りなおす。そして一番端に居た男に銃口を向ける。
「そういうことだ」
それだけを告げて、青年はまた躊躇いなく引き鉄を引く。続けて二発、三発と打ち続け、兵部の鼻腔に火薬の匂いが届く。そしてそれに混ざった、血の臭いも。
一瞬、何が起こったのか兵部には分からなかった。見上げる青年の横顔は、また感情もなく冷え切っている。てっきり彼はこのままこの場を去るか、最低限彼らに死刑宣告めいた言葉を掛けるだけだろうと思っていたのに、その行動はあまりにも意外だった。
しかし兵部は周囲に漂う鼻腔を擽る臭いに精神が落ち着いてきているのがわかった。あの男達の、血の臭い――。
始めから青年がそうするつもりだったのかどうかは分からないが、燻っていた感情は急速にその身を小さく消していた。
静寂の戻ってきた周囲に、暫くしてまた新たな足音が近付いて来る。近付いて来る足音は一つだけ。
その足音を聞きながら、兵部の意識はそれまでの緊張が解けてしまったかのように深く落ち始めていた。
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