少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

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  愚か者の見た夢 16  

 ベッドに押し倒された身体の上に緩慢に覆い被さってくる男を、皆本は戸惑いの含んだような眼で見上げていた。壊れ物を扱うようなその仕草に、直感めいた不安が過る。何かが違うと、頭の中で訴え掛けてきているその何かは分からないけれど。
「ひょう、ぶ……」
「どうしたんだい?」
 きっと情けない、途方に暮れたような顔をしているのだろうと自覚しながらも、皆本は兵部から顔を逸らさない。真っ直ぐに見下ろしてくる男の顔はいつも通りなのに、どうしてこう不安に駆られてしまうのだろう。
 送られてくる慈しむように温かい眼差しにコクリと喉を鳴らして、皆本はなんでもないと首を振る。きっとあんなことがあったばかりだから、まだ頭の中が少し混乱しているだけだ。
 施される口付けも、撫で擦る手の平もいつもと何も変わりはしない。
「ん、ァ……、も、っと」
 絡めていた舌を解かれて、皆本は兵部の首裏に腕を回すと自分から求めるように顔を近づける。躊躇いがちに閉ざされた口唇を舌先で舐め上げ兵部を見つめると、見下ろしていた双眸がふっと細められ伸ばしていた舌を絡め取られる。
 そのまま口内に侵入してきた兵部の舌に翻弄されながらも、皆本は愛しい身体を抱き締める。このまま快楽に溺れてしまえば忘れることが出来るだろうか。それはまるで逃げているかのようだったが、今皆本を不安に貶めることが出来るのも安心させることが出来るのも、兵部でしかなかった。
 なのに縋った相手は皆本のそんな不安などお構い無しに、いけしゃあしゃあと雰囲気をぶち壊してくれるのだ。
「随分積極的だね、皆本君」
「ぅ、るさいっ」
「ああ、そっか。久し振りだからかな。感度もばっちりだし、早く入れて欲しいんじゃ――、っ」
 楽しげに言いたい放題言ってくれる兵部に手近にあった耳朶を引っ張ってやると、悲鳴こそ上げなかったが恨めしく睨まれる。それを同じだけ睨み返して、皆本は兵部の身体を押し退ける。どれだけの年月を生きていても、この性格だけはどうにかならなかったのか。好きな子を虐めてしまうタイプなどと、そんな括りにされたら堪ったものじゃない。兵部は紛れもなく知能犯と鈍感男とを紙一重で行き来する人間だ。
 こんな時くらい不安を察してこっそりと能力を使って悟ってくれてもいいのに、妙に律儀というか臨機応変になれていないというか。都合の良い事を考えていることは分かっているが、透視されたら怒るかもしれないが、要は不安に駆られた気持ちを察して欲しいと、ただそれだけなのに。それともこれがそれを察しての兵部なりの気の紛わし方なのか。
「からかうなら僕は帰るっ」
 それは半ば本心から告げた言葉だった。
 結局少女の返答は今しばらく保留という形を取り、一人バベルへと返還された皆本は夜になるとチルドレンには残業があると告げ、再び兵部に拉致られて現在に至っている。昼間来た同じ部屋に連れて来られて碌な会話もなく現状まで辿り着いたのに、からかわれて不愉快な想いをするだけなら帰って安眠を得たい。
 そんな愚痴を胸中でだらだらと並べ立ててやりながら腕を突っ撥ねてみるが身体はぴくりとも動かず、逆にぎゅうぎゅうと腕の中に抱き込まれる。ベッドと兵部とに挟まれて息が苦しい。このまま圧迫死だけは避けたい。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎるし笑い話にもならない。離せと背中を叩いてみても腕の力は緩まることが無い。その細腕のどこにそんな力があるんだ、と思うほどにその力は容赦ない。
 本当に圧迫死するんじゃないか、なんて馬鹿げたことを考えていると身体にぞわりとした震えが走る。耳を、舐められたのだ。くちゅり、と立てられる水音に、それだけで直に愛撫を施されたように身体が痺れてしまう。ああ、単純になってしまったこの身体をどうにかしたい。
「ごめん。冗談だから。久し振りだからがっつきそうでね、つい」
「……つい、で虐められるなんて冗談じゃないな」
「うん。……ちゃんと、するからさ」
 あやすように頭を撫でて、兵部は身体を起こす。身体が離れて呼吸が楽になった反面、離れてしまった温もりが寂しい。ぽっかりと穴が開いてしまったかのような虚無感を抱く。さっきまであんなにもやもやと苛立ち心がささくれ立っていたのに、こうも簡単に懐柔されてしまうとは頭まで単純になってしまったのか。
 けれど、戯れのような触れ合いはしていたものの、こうして身体を重ね合わせるのはどれくらい振りになるのだろうか。
 がっつきそうなのは、相手の肌に餓えているのは皆本も同じなのかもしれない。触れ合いたくて仕方が無い。その温もりを肌で実感していたい。その存在を、確かめたい。際限ない欲望が溢れ出しそうになる。自分はこんなにも貪欲だっただろうか。
 頬に添えられた低い体温に皆本は自分の手の平を重ね合わせて、兵部を見上げる。開いた片手で兵部の身体を引き寄せると、ゆっくりと唇が重なり合う。
「――っぁ、ん」
 視線は絡めたまま、角度を変えて互いの口唇を啄ばみ合う。沸き立つ水音に聴覚を刺激されながら、何度も、何度も。ただそうして唇を触れ合わせているだけでもくらくらと甘い痺れが脳髄を襲う。
 いつの間にか、両手はしっかりと兵部に繋がれベッドに縫い付けられていた。重なり合った手の平がじっとりと汗ばんでいる。だがそこに不快感は無い。唇がゆっくりと離れ、互いの熱い吐息が直に触れ合う。視線が絡み合った次の瞬間には、皆本は全てを受け入れるように瞳を閉ざしていた。
 まるでそれを合図と待っていたように再び舌が口内へと侵入を果たしてくる。口の中の粘膜を丹念に舐められ愛撫するように舌をくすぐられて、繋ぎ合った手の平をきつく握り締める。硬く身体は強張りを見せ、内側から熱が込み上げてくる。
 刺激を求めてもどかしげに腰が揺らいだのでさえ無意識だった。しかしそれに兵部は勘付いたのか、それともがっつきそうだと告げた言葉通りにそう焦らす余裕も無いのか。繋いだ片手を離すと皆本の胸元に触れてくる。
 乱れも無く着込まれたスーツ。そのストイックさの下に淫靡な身体が隠れていることを兵部は知っている。
 口付けと呼ぶにはあまりに生々しく情欲的な戯れを繰り返しながら、兵部の指はスーツを開けさせネクタイを解いていく。手探りで見つけたシャツの釦に指が触れると、絡め合わせていた舌が震える。
 絡めていた舌を離して、兵部はくすりと笑う。
「今更待ったは聞かないよ」
「だれ、が、言うか」
 ムッとして皆本が言い返すと兵部は口元に薄く笑みを浮かべて、急く事は無い仕草で釦を外していく。焦らされているわけではないがゆったりとしたその動きに皆本は兵部から顔を逸らす。顔を見ていれば確実にねだってしまいそうだった。早く、と。
 釦が一つ、また一つと外されていく度に鼓動が跳ねる。慣れているつもりになっていても、今から抱かれるのだと知らしめられる時というのはいやでも鼓動が高まってしまう。身体はもうその先にあるものを知っているから、歯止めが利かなくなってくるのだ。
 袖から両腕が引き抜かれ、服がベッドの脇へと落とされる。あれはもうクリーニングに出すしかないなと頭の隅でぼんやりと考えていると、きゅっと胸の尖りを摘まれる。
「あっ!」
「他のこと考えるなんてまだ余裕があるね?」
「っん、ふ……っ、やめ」
「てほしくないだろ? もう乳首硬くなってるよ」
 くすくすと笑い声を立てて、兵部は指で摘んだものとは逆の乳首に唇を寄せる。その硬さを確かめるように舌先で弾いて、口唇で挟み込む。芯を持って尖り始めたそれに歯を立てられるとびくん、と腰が跳ねた。
 逃げるように皆本の身体が揺らぎ、惑う両手が兵部の肩を掴む。布地の感触に躊躇った手の平が首元へと滑り落ち、兵部の着込んだ学生服を脱がしていく。胸に愛撫を受けながら皆本は覚束無い指先で釦を外し服を開けさせていた。
 露になった少し低い体温の肌を抱き寄せると、施されていた愛撫の手が止まる。触れ合う肌に安堵していた皆本は何故、と熱に潤んだ瞳で見上げる。あまりにも無防備な、あどけないような皆本の仕草に兵部は小さく苦笑して服を脱ぎ捨てる。
 そして兵部が所在無くシーツの上に落ちていた皆本の手を掴みあげて、指先に恭しく施される口付け。
 ただそれだけのことなのに身体はびくりと震えてしまう。濡れた舌の感触に急に恥かしくなって自分の手を取り戻すと、皆本は困惑に眉を寄せたまま兵部を見つめる。
 これまで幾度となく肌を合わせてきたけれど、そうして兵部がまるで傅くような仕草を見せたことは、一度も無かった。彼は、誰かに傅く立場の人間ではない。寧ろ傅かせる側の人間だ。
「兵部……?」
「好きだよ、皆本君」
 不意に告げられた告白に皆本は顔を真っ赤に染め、くしゃりと顔を歪める。ずるい、卑怯だと胸中でどれだけ詰ってみても、実際に唇から零れる言葉は違う。話を摩り替えられたようで、それがわかっていても見つめてくる瞳が蒸し返されることを拒んでいる。
 そしてそれ以上の意味はないのだと、告げようとしている。だからそれに、流されるしかない。
「僕もだよ、兵部。……君が好きだ」
 しかし、零れる言葉は真意以外何物でもない。好きというには深く、愛しているというには激しく。思いを告げるだけの言葉を見つけられない。代用する言葉では物足りない。
 返された言葉に兵部は柔らかくその頬を緩めて目元を和ませて、胸への愛撫を再開させる。じわじわとゆっくりと、確実に侵食を始めてくる熱に皆本は胸に埋められた兵部の頭を抱き締める。
 指に銀糸を絡め、びくびくと身体が震える度にその指先はもどかしく強請るように髪を掻き混ぜる。時にぎゅっと指先に力を込めるとまるで咎めるように尖りを爪で引っ掻くように辿られる。
「っ、ぁ、あぁ……っ」
「ふ……っ、他の場所も、触って欲しい?」
 敏感に尖った乳首を責めながら、兵部は指先で身体のラインを辿り中心の膨らみをそっと包み込む。布越しにも感じられる昂りと熱さにきゅっと指先に力を込めると喘ぐ口から切なげな声が上がる。
 だが皆本の身体は逃げを打つことなく、寧ろ求めるようにその脚を広げていた。正直なその反応に兵部が些か瞠目していると、髪を引かれて我に返らされる。
 皆本が軽く睨み付けると兵部は苦笑するように笑って、ベルトに手を掛ける。下肢から下着ごとズボンが引き抜かれると先端を濡らした屹立が兵部の眼前に曝される。手筒で擦るだけでもそれはびくびくと震えて体積を増し蜜を溢れさせる。
「は、あ、あ、――あぁっ」
 指を蠢かされただけで水音が沸き立つ。くちゅくちゅと止まないその音に皆本は首を振る。その仕草は嫌がっているのではなく、耐え切れない熱に浮かされているものだった。
 眼鏡を掛けているのにぼやける視界でどうにか焦点を定めると、何故かカッと体温が上がる。反射的に顔を逸らすと、無防備な耳に吐息が掛かる。逃げようとしても、遅い。吹き付けられる吐息に身体はぐずぐずと蕩け出す。
「いっぱい我慢してたみたいだね? もう君のイきそうだよ」
「――言うなっ、バカ、……っぁ、ひっ」
「バカとは酷いなぁ。僕の所為でこうなってるんだから責任取ってあげようと思ってるのに」
「も、黙れ、お前」
 耳元に囁かれる楽しげな声に皆本はうんざりと言葉を返す。減らず口、と告げてやれば「どっちが」と笑いと共に返されるだろう。だが皆本の口が減らないわけではない。兵部の相手をしていると自然と突っ込み所満載となるから突っ込んでいるだけだ。
 はーっ、と喘いだのか溜息を吐いたのか判別の難しい反応を落として、皆本は行為を促す為に自分を見下ろす男の耳元へと唇を寄せた。勿論、意趣返しとしてその耳朶に噛み付いてやるのは忘れずに。

 自分達の間に甘い関係は望めない。どんなに甘いと呼ばれる雰囲気を作り出したとしてもまるで夢を見ていたかのように、眠って目が覚めれば変わらない日常が待っている。それを少しでも変えようと頑張っていても、平行線は交わらない。
 それは不毛な関係とも言えるだろう。
 何も望めない、何も願えない。いつでもそれは戯れのようで本気になることが出来ない。いやもしかしたらどちらも本気で遊んでいるのかもしれない。どちらもきっと長続きしないのだろうと解っているのに、解らない振りをしている。自己矛盾を巻き起こす分からず屋の、恋。
 どんなに好きだと愛を囁いてみても、それが本当に報われることは無い。だけど相手を求めていることは真実で、これから先の未来を変えたいと願っていることも事実。でも望む未来は違う。だからいつまで経っても交じり合えない。
 どこかで妥協点が必要なのだろう。でもその妥協点すら見つからない。見つけてはいけないような、気がしてしまう。

「気がそぞろだよ、皆本君」
「ん、っぁ、ご、め……、は、んんっ」
 後ろから肉を穿つ男に身を任せて、皆本は熱を吐き出す。ひやりと心地良かったシーツも今は熱を孕み生温い。それでも互いの匂いを吸い取り混じり合ったそのシーツに身を寄せていると、何故だか安心感が得られる。
 一部でしか繋がり合えない自分達がただ一つの肉塊となる時、もう何も考えずにただ幸福に満たされる。現在も未来も忘れて、この瞬間のことしか頭に入らない。入れたくは無い。
「あ、いっ、……っは、あぁっ」
 後背で繋がり合うのは余り好きじゃない。奥に熱を感じ取ることは出来るが、抱く者の顔が見れない。きっと浅ましい顔をしているのだろう自分の顔を見られないで済むのは構わないが、逆は気に入らない。難しい事を言っているだろうか。見られることが恥かしいなら眼を閉ざせばいいのか。でもやはり見えなくなるのは嫌だ。ならばいっそ相手の目を閉ざしてしまうか。……仕返しが怖くて実行には移せないけれど。
 ぐちゅぐちゅと漏れる音は侵略される音なのか煽られる音なのか。その判断が難しいほどに下肢が蕩けている。考えることすら煩わしくなってくる。久し振りに与えられる快楽に我慢は無きに等しい。
「っあ、ひょ、ぶ……、兵部っ」
「っ、なんだい、皆本君」
「もうっ、イ、きそ……っ、だめ」
 込み上げてくる何かを耐えるように首を振り、後ろを振り返る。滲んだ汗で髪を顔に張り付かせる姿を見て、身体が勝手に男を締め付ける。浅ましく、そして素直だ。己を蹂躙する雄を感じて、植え付けられた擬似的な雌の思考が悦びを感じている。
 だが瞬間険しく寄せられる眉に自然と唇が緩まる。翻弄してくる雄を更に翻弄しているのだと、今度はやはり消えはしない雄の思考が満たされる。だがその唇の緩まりを正しく理解されて、仕返しとばかりに身体の奥を抉られる。
「ああっ!」
「イきそう、なんていう割には余裕がありそうだね」
「いや、も、むり……!」
「わかってるよ」
 くすり、と笑って兵部は限界にまで膨れた屹立に触れる。溢れ出す蜜を指に絡めて、ゆっくりと引き抜いた性器を勢い良く打ち付けられる。
「っふ、あ、あ、あぁ……!」
 背筋を震わせて、皆本はぱたぱたとシーツを白濁で汚す。同時に体内を満たす熱に満足げに息を吐き出すとぐったりと身体がベッドに沈み込んでいく。頑張って踏ん張っていた膝は、射精と共に力尽きてしまった。運動不足の所為ではない。それだけ責め立てがキツかったのだ。
 抜け出ていく熱の感触にすら息が詰まり身体が震えて襞が収縮を起こす。中に出された白濁が肉襞のひくつきに合わせて太腿へと零れ伝う。その感触にきゅっと腹部に力を込めて窄まりを閉ざしていると弛緩した身体をひっくり返される。軽い衝撃ではあったものの皆本はぼんやりとした目を瞬かせた。折角締めた窄まりからまたとろり、と彼のものが零れ出す。
「……兵、部?」
「――ごめんね、皆本君」
 その謝罪の意味を理解するその前に、兵部の瞳が妖しく光りだす。咄嗟に眼を逸らそうとしても囚われてしまったかのように逸らすことが出来なかった。――全ては、遅かった。
「な、で……っ!」
 冷水を浴びせかけられたかのように意識が現実に戻る。そして突きつけられた現実に、愕然とする。どうして今、催眠暗示を使うのか。これまでの行為の中でどこに今、催眠暗示を使う必要性があったのか。それともこの時を、兵部は始めから狙っていたのか。
 脳髄を直接刺激される痛みに顔を歪めながらも皆本は今度は兵部から視線を逸らさない。逸らせない、というのもあったが皆本は皆本の意思で兵部を見つめていた。だがそれは屈する為ではなく、抗う為に。
「どう、して」
 皆本の零す疑問に、兵部は口元に歪んだ笑みを浮かべる。笑うことに失敗した、泣き出しそうに悲しげな顔。その歪んだ頬に手を添えようとして、しかしそれは兵部自身の手によって遮られた。
 しっかりと握り締められて、シーツの上へと戻される。
 再び見つめた兵部の顔は、冷たくそれまでの感情などどこにも見えなかった。
「僕達は最初から分かり合うことなんて出来なかった。未来が変わらないのなら、それがどういうことなのか君にはわかるだろう?」
「ちが、う……っ。そんなこと――!」
「愛していたよ、皆本君」
「――っ」
 皆本の言葉になど聞く耳も持たず、告げられたその言葉に眼を見開く。一方的に告げられる終焉。……夢の、終わり。
 耐えようとしても緩んでしまった涙腺がぼろぼろと涙を生み出す。滲む視界の向こうで、兵部がどうすればいいのかわからない、困りきった子供のような表情を浮かべているのに更に涙が溢れてくる。
 いつもであれば溢れる涙を拭って「大丈夫だよ」と笑ってくれるのに、もう拭ってくれる指も向けられる笑みも無い。ただただ惑う姿に涙を止めようと思うのに、それはもう皆本の意思など関係なかった。溢れる涙と共に、皆本の中から何かが剥がれ落ちていく。
 じくじくと胸が痛む。満たされていたそこが、温かかったそこが急激に冷えていく。気持ち悪い。吐き気がする。込み上げてくる胃液を深呼吸して喉奥に押し留める。助けて欲しいのに、求める腕がそこには無い。縋るべき姿を、見失う。
「ぅあ、あ、ああぁあああぁぁ――ッ!!」
 割れんばかりの痛みが頭を襲う。けれど瞳を閉ざしたくは無かった。最後の最後まで、男の姿を見て居たかった。
 どうしてか皆本には分からない。急に現実に帰っていってしまった人。こうすることが最善だと考えているような、愚かな人。そんな男を最後まで焼き付けてやろうと思った。
 歪んでぐしゃぐしゃになる世界で見た哀しげな男の表情に、痛みに見開かれた眼からまた一筋の涙が溢れ出す。米神を伝い零れ落ちていく雫の感触に肌を震わせ、皆本の意識は強制的に堕ちていく。


 たとえ記憶を失っても、僕は――……
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