少佐と主任の三歩進んで二歩下がるお話

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  愚か者達の見た夢 01  

 夢を見る。
 それはごく最近になって頻繁に繰り返し見続ける夢。暗澹たる世界の中に、唯一人きり。まるで突然その世界の中に放り出されたかのように、突如としてその世界は始まる。
 その世界の中で自分は、ただそこに居た。世界に怯えることもなく、否定するわけでもなく。かといって、受け入れているわけでもなく。そこに居ることを当たり前として、拒絶も甘受もありはしなかった。
 触れる空気はどろりと淀み、濁り、粘液のように四肢に絡み付いてくる。だが不思議と呼吸が苦しくなるわけでもなかった。淀んだ空気はただ、その世界に佇む者を繋ぎ止める鎖のようなものだった。
 不自由――ではない。自由に動き回ることは出来るだろう。それでも、そうする気力は沸かなかった。何も見えやしない、在りはしないその世界は、護っていた。彼を。一体何から護っていたのか。それはわからなかった。けれど確かに、この世界は彼を護る為に存在していた。
 その世界には何物も存在しない。だからつまり、彼を傷付ける物は何もなかった。
 しかし。
 その世界こそが彼を傷付けていたのだと、世界も彼も気付きはしない。

 夢の終わりは唐突に訪れる。
 まるで何者かに引き摺り上げられるかのように、暗澹たる世界から急激に光溢れる温かな世界に投げ出される。その一瞬の後、抱くのは唯漠然とした不安。懼れ。しかし瞬きを繰り返すうちに、この世界こそが自分が在るべき世界なのだと認識し、自覚し、安堵する。
 見慣れた部屋の内装。カーテン越しに差し込んでくる朝陽を感じ、さて今までどんな夢を見ていたのだろうかと思い出そうとしても、既にその記憶から夢の一部始終は消え果ている。夢を見た、という自覚はある。漠然と安堵を与えてくれる夢だった。
 でもそこに何があったのか、何が出てきていたのかは、わからない。
 それをもう幾度繰り返しただろうか。
 毎日のように繰り返し見る夢なのに、内容は全く思い出せない。それがどうしてかもどかしくて、次こそはと思っていてもそれが叶った例はない。
 どうして、そこまで夢の内容を思い出そうとしているのか、それもわからない。けれど自分の中の何かが思い出さなければならないと叫んでいて、訴え続けていて。
 大事な、大切な何かを忘れているような気はしている。感じ始めた胸の中の大きな穴。それは夢を見始めた時期と重なる。これを偶然とするのか必然とするのか。判断するにはやはり漠然とし過ぎている。
 何もかもが漠然としていて、単なる考えすぎなのではないのか。そう考えることもある。
「………………」
 結局。何の答えも出せない袋小路に、皆本は小さく溜息を吐き出した。
 もう毎朝の事となりつつあるが、どうにもすっきりとはしない目覚めだ。目尻に残る涙の跡にも、もう毎回のことと何も感じなくなってきた。
 肌の上のカサつきを親指で拭って、起き上がる。暗鬱と翳る気分を頭を振ることで追い払い、今日もまた新たな一日を始める。
 中学へと進級した幼かった少女達は、それなりの落ち着きを身に着け始めたとはいえ皆本にとってはまだまだ子供に過ぎない。確かに以前のような子供扱いも出来なくなったし、無理難題とも取れる我が侭も言われなくはなったが、皆本の庇護を受け続ける彼女達はやはり子供でしかないのだ。
 チームでありどこかで妹のようであり、家族のような存在でもある彼女達の相手をしていると、ただそれだけで皆本の胸は満たされる。その充足感、幸福感というものは何物にも変え難くかけがえないものであるのに、どうしてか感じ取ってしまう物足りなさ。
 それはふとした瞬間。
 例えば一人で部屋に居るとき、無意識に何かを探していたり、誰も居ない空間に話し掛けようとしていたり。そしてそこには何もないことを知って、落胆する。だが、自分が何を求めていたのか、誰に話し掛けようとしていたのか、それはわからない。
 ただ、あの少女達ではないということだけは、確か。
 勝手に口が紡ごうとする名前。けれどそこから紡がれる声はない。吐き出そうとした何かを飲み込んで、ぐっと喉奥に押し留めて、皆本は押し寄せてこようとする不安すらも気付かぬ振りをする。
「行ってきまーす」
 元気に家を飛び出していく制服に身を包んだ少女達。晴天の空にふさわしい晴れやかなその三重奏に、皆本も笑みを浮かべて見送り、自らも出勤の準備をする。
 繰り返す、日常。少しずつ、しかし確実と進み続けるその先に待ち受けているものは、変わらないあの予知の未来。その未来を現実のものとしない為に動き続ける、その事に意味はあるのか。変化の見られない未来にもしかすればこの日々の積み重ねこそがあの予知に繋がっているのではないかと疑うこともある。
 未来というものは、必ずしも一つであるというわけではない。このありふれた日常の一分一秒、或いはそれ以下の短い世界の中で繰り返し与えられ続ける小さな分岐を選択し続けることで、一本の道筋が生まれる。その以前には選択されなかったいくつもの分岐が途絶え放置されている。
 進む足の先に道はない。背中にばかり伸び続ける道。けれどそれは己が辿ってきた分岐の道。
 その分岐は本当に己自身で選択しているのか、選択させられているのか。変わらない未来に、現実に、何か得体の知れない大きな力のようなものを感じる。
 今この時は最良と思われる選択をしていると思っていても、未来から見据えられたら果たしてどうなのか。そんなことがわかるはずはないとわかっていても、不安を抱かずにはいられないのはどうしてか。
 彼女達を信じていないわけではない。未来に希望を残していないわけでもない。必ず未来は変えられる。その為の今があるのだと、そう信じている。
 だが。
 何かが訴えかけてくる。
 そう信じていても、結局今のこの未来を迎えてしまったのではないのか、と。
 所詮、自分には何も変える力などなかったのではないのか、と。
 それは一体何のことを指しているのか。
 それはどういうことなのか。
 訴えは日に日に増してくる。まるで自分の中にもう一人自分がいるかのような錯覚を抱く。しかし自分自身のことでありながら、何もわからない。わからないからこその不安は、焦燥を徒に駆り立てた。
 募り積もる焦燥は心身を弱めていく。例えそれが僅かなものであったとしても、長引けば大きなダメージとなる。
 皆本のその心労は、誰に悟られることもなかったわけではない。ただでさえ、彼の周囲には高超度の接触感応能力者が二人も居る。その超能力を使われなかったとしても、皆本のことを常に気に掛けている人物は居る。
 しかし皆本とて、意図的に話はしなかったとはいえ、そこには彼なりの周囲に迷惑を掛けたくないという思いがある。それが、周囲には焦れることであったとしても。自身のことで誰かに心配を掛けさせるということは皆本には出来なかった。それはもう皆本の性格でもあった。
「本当に友達甲斐の無い奴だよな、お前」
「……すまん」
 呆れと諦めの含まれたような賢木の声に皆本は小さく苦笑して、素直に謝罪する。だが別に賢木は皆本からの謝罪を求めていたわけでもなんでもなくて。そんな態度すら皆本らしいと、そう片付けられるような人間だと長い付き合いで知っているからそれ以上の言葉を賢木は飲み込む。
 愚かなまでに皆本は優しすぎるのだと、賢木は思っている。その愚かさも賢木にとっては好ましいものではあるけれど。自らのことは顧みず他人を優先しようとする、その何も打算のない心はどこから生まれ来るのか。しかしだからといって皆本は全てを相手に合わせるわけでもない。自己犠牲の精神に酔い痴れているわけでもない。ただ、自らの信念を貫こうと生真面目に生きている。
 彼は、理想なのだと思う。
 こう在りたいと願う、青臭くて、愚かで、愛しい人間なのだ。
 だから、嫌いにはなれない。
 それはどんな人間であっても。
「で、その夢っつーのはいつ頃から見るんだよ?」
 診察の空き時間。重なった時間に賢木に強引に連れられるようにして、皆本は彼の診察室に居た。
 折角の休憩時間であるのに賢木にそんな時間を使わせてしまうことが申し訳なくて、その優しさが嬉しくもあって、皆本はその胸にあるものを隠すことは諦めた。
 それに他人の深層心理を透視することもできる賢木であれば、皆本が忘れてしまう夢の謎も解けるのではないかという期待もあった。もし夢の欠片でも見つかれば、それを頼りに思い出すことも出来るかもしれない。ただ今まで賢木を頼らなかったのはそんなことで彼の手を煩わせたくなかったからだ。
 賢木の呆れと諦めの含まれた言葉には、その心理を透視んでの感想も含まれていた。
「見始めたのは、ここ最近……実家に帰省した頃から、かな」
「あぁ……、あの時か」
 幾許も思考せずに賢木が呟いた言葉に、皆本は「そう」と頷いてからジト目で軽く睨みつけた。
 返される乾いたわざとらしい笑い声に小さく溜息を吐いて、軽く瞼を伏せる。今更、過ぎ去ったことにとやかく言っても仕方がない。それに皆本の予想を上回ってはいたが、考えられないことでもなかったのだ。
 あの出来事と夢とはなにか関係があるのか。
 確かにあの一件もまた皆本の中の意識を変える分岐点でもあったのだけれど、その関連性がわからない。
 瞼を閉ざしたまま、考え込む様子を見せる皆本を賢木は何か言いたそうな表情で、けれど何も告げることはなく見つめ続ける。何も変わらない。変わることのない親友であるはずなのに賢木の中の直感的な感覚はどこかが違うと告げている。
 ルール違反だとはわかっていながらも、過去に何度かこっそり皆本に悟られることがないように透視してみたことがある。皆本自身気にしているようには見えないが、彼の異変は最近になって現れたものではない。もっと過去――、あれは、二年ほど前だっただろうか。
 だが、透視の結果は言わずもがな。賢木の感じたものは杞憂であったか気のせいであったか。皆本には何の変化もない。
 そして今日、皆本の許可を得て改めて透視してみても、何も変わりはない。
 自身の能力を信じていないわけではないが、解せない何かが賢木の中でわだかまる。しかしそれをわざわざ皆本に悟らせるように表に出すような真似はしない。本人が気にしていないのなら、余計な不安を煽るような真似はしないほうがいい。
「俺の見立てでは心身ともに異常なし。夢に関しては深く潜ってみないとわかんねぇが、それによる影響もないからそう気にする必要もないだろ」
「……そうか」
 明るい賢木の声に対して、皆本の声は僅かに硬い。気懸かりなものでもあるのか、浮かない表情をしてみせる。
「悩み事があるならセンセイに言ってみな?」
 顔を覗き込むようにして告げてやると、皆本の口許が笑みを刻む。呆れを含んだような笑い顔に賢木が意識して口角を上げると皆本の身体から緊張が抜けていくのがわかった。
 それでも皆本はほんの少し逡巡するような素振りを見せて、躊躇いがちに口を開く。
「いや……、時期が時期だから、何か兵部と関係があるんじゃないかと思って」
 日本に戻ってきたという、彼。久し振りとなったあの対面に、果たして兵部の告げた挨拶以外の目論見は含まれていなかったか。
 彼の使用する、超能力。彼ならばそれもまた可能であるだろうし、事実過去に皆本は兵部の催眠能力によって散々な目に合わされた経験がある。それに彼の仲間にはバベルの特務エスパー訓練生でもあった、夢に干渉出来る能力を持つ者も居る。彼女の時とパターンは違うが、疑って然りではあるのだが。
 今回は前回のようにその意図がはっきりと見えない。皆本に同じ夢を繰り返し見続けさせてそれがどんな効果を齎すというのか。確かに今その夢に悩まされてはいるものの、これといった目的がないようにも思える。分からない、ということは確かに不安ではあるが、所詮は夢の世界と片付けることも出来る。如何なる影響も与えていないというのならば、杞憂に過ぎないのか。ただ過剰になりすぎているだけなのか。
「……あー、それは、ないと思うがな」
「? どうして」
「どうしてって、お前……」
 賢木は皆本をじっと見つめ、口篭らせる。その表情にはありありと困惑が映し出され、賢木がそんな表情を浮かべるのは珍しい。
 本心からわからないと告げているような皆本に賢木はまさかわざとか、と思いながらもどう切り抜けるか考える。知ったのは偶然だった。けれど必然でもあるように思えたのは、考えすぎではないはずだ。二人の関係を非難するつもりは毛頭ない。仕方がないのだと、自分は遅かったのだと既に諦めもついている。そこに、付け入る隙など僅かたりともなかった。賢木にはあの時そう見えた。
 だから、皆本の考えを否定することが出来る。それにもし兵部の仕業なのだとしても彼は回りくどい真似はせず、何か仕出かすのなら解り易く仕掛けてくるはずだ。
「まぁ、とにかくだな。一回お前の脳波調べてやるし、きちんと検査すれば何かわかるだろう」
「あぁ。すまないな、賢木」
「気にすんな」
 事を起こすのに早いことに越したことはないと早速検査室の空きを調べようとして、賢木のデスクに置いてある内線がけたたましく鳴り響き出す。皆本は賢木と視線を交わし、気遣いはいいと軽く頷く。賢木もそれを読み取って、受話器へと手を伸ばす。そしてその顔はすぐに険しいものへと変化する。
 情報を受け取って怒鳴るようにいくつかの指示を出し、叩きつけるように受話器を下ろす。その徒事ではない状況に皆本も表情を引き締めて賢木を見遣る。
「悪ぃ、皆本。急患だ」
「ああ。僕の事は気にしなくていいから、早く」
「空きが取れたら連絡する。何かおかしなことがあったら教えてくれ」
「頼りにしてるよ、賢木」
 慌しく部屋を飛び出していく賢木を見送り、皆本も診察室を後にする。
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