解き放たれる、無限の可能性

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  moratorium  

 バーのカウンターを見遣り、真木の口からは自然と深い溜息が零れていた。耳敏く、敏感にその声を拾い上げたパティが、申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「すみません、真木さん」
「謝る必要はない」
 話ならば既に紅葉に聞いている。
 偶然このバーではち合わせてしまった葉とヒノミヤが、酒の勢いも相俟ってか喧嘩を始め、それでも手や足は出さず口だけだったのはまだ理性が保てていたからか。
 葉とヒノミヤの衝突頻度は多い。互いに毛嫌いしているように、顔を合わせれば棘のある物言いを繰り返し、だがそれは蚊帳の外にいる真木にしてみれば、葉の一方的な八つ当たりにしか思えない。それにヒノミヤが真正面から返してしまうから、悪化もしているのだろうが。
 我らがボス――兵部がユウギリ奪還の副産物として連れてきたヒノミヤという男は、警戒して然るべき存在だ。デッドロックにいたとは言うが、不明瞭な素性と、何かしらの目的があって兵部に――ひいてはパンドラに近付いたことは火を見るより明らかだからだ。
 なのに兵部自身が、面白がるようにしてヒノミヤを傍に置いている。真木もヒノミヤに対して、未だに完全に警戒しているわけではない。だが、完全に心を許しているわけでもない。
 よくない傾向だとは理解している。ぽっと出の、素性も知れない人間が兵部の近くにいるのだから、それも当然といえば当然か。しかし思ったより真木が冷静に場を把握しようとしているのは、葉の存在があるからだ。
 意図なく甘やかされて育ってしまった葉は、本人は認めないが誰よりも強く兵部を慕っている。まだ自我が生成される以前に兵部に拾われ、共に過ごしてきたのだからそれも仕方のないことかもしれないが。
 そして葉は、焦るように早く強くなることを望んでいる。兵部や真木たちの弟分としてではなく、自分自身を認められたいがために。
 そんな中で、急にヒノミヤが現れて、兵部が構うようになってしまったのだから、それがおもしろくないのだろう。ヒノミヤ自身の胡散臭さがそれに拍車をかける。恐らく葉は今、初めて自分のアイデンティティーの危うさを感じ取っている。成長しようとしている。だからこそ、その反動で親の仇のようにヒノミヤに当たってしまう。
 それを見ていると、今後の葉の成長のためにヒノミヤは必要な存在ではないかとも、考えてしまうのだ。ヒノミヤに犠牲になれとは言わない。それでも、葉の精神的な成長を促すためには、兵部や真木たちと接するだけでなく、外にも触れることが必要だ。
 だから、ヒノミヤをただ排除することが正しいことなのか、考える。
「……真木さん?」
 ヒノミヤを見下ろしたまま、言葉を発しようとはしない真木にパティが訝った声をかける。
 真木はその声に我に返ると、緩く首を巡らせた。
「いや、迷惑をかけたな。今日はしまいか」
「そうですね……。賑やか過ぎたので、足も遠ざかってしまいましたし」
 真木の手前であるからなのか、言葉を選んで話すパティを労って、真木は未だカウンターに突っ伏したままのヒノミヤに目を落とした。
 周囲の気も知らずに寝息を立てて眠るヒノミヤは、眠ってはいてもその眉間に皺を残している。無防備めいた顔はあどけなくも見え、そういえば葉とそう変わらない年だと思い出す。
「おい、ヒノミヤ」
 低く声をかければ、ヒノミヤはむずがるように唸り声を上げ、真木に後頭部を見せた。ぐずる姿に億劫さだけが沸き上がってくる。それをどうにか抑え込んで、真木は強引にヒノミヤの身体を起こすとそれを肩に担ぎ上げた。


「……地面が揺れてる」
「海上にいるからな」
 ボソリ、と背中から漏れ聞こえてきた声に律儀に返してやると、肩に担いでいた荷物が暴れ出す。
「はっ、えっ、ちょ……、真木さんっ!? ってか腹いてぇ!」
「暴れるな、落とすぞ」
 現状を把握し切れていないのか、人の肩の上で暴れるヒノミヤを力で抑え込んで、真木は黙々とヒノミヤの部屋を目指す。
 既に寝静まった時間帯であるのだから、誰ともすれ違わないのは幸いだった。特に兵部とはち合わせてしまえば、真木はどんな顔をすればいいのかわからない。兵部は、真木がヒノミヤを警戒していることも、扱いに苦悩していることも知っている。知っていて、何もしない。
「あっ、いや、っていうか、これ吐く! ぜってー吐く! 背中で吐かれたらあんたも困るだろ!?」
 真木の背中を押しやり、背筋を使って起き上がろうとするヒノミヤに、真木もようやく足を止めて荷物を床に下ろした。これだけ元気ならば担いで運ぶ必要もない。他人の吐瀉物を被る趣味も真木にはない。
 床に足を着けたヒノミヤはふらつきはしたものの、しっかりと自分の足で立っている。酒の回りを払うように頭を振って、唸る。
「あー、何がどうなってんの?」
 ヒノミヤはきょろきょろと周囲を確認し、真木に視線を向ける。真木は溜息をひとつ吐いてから、答えた。
「酔い潰れたお前を俺が部屋まで運んでいた」
「えっと……、ご迷惑をおかけしました?」
 頭を下げながら、窺うように真木を盗み見るヒノミヤに、また、真木の口から溜息が零れた。
「そう思うのなら無茶な飲み方をするな。周りが迷惑だ」
「う。……以後気をつけマス」
「行くぞ」
 落ち込むヒノミヤを促して、背を向けて歩き出す。何をしようと思ったのか、無意識に持ち上げていた右手に真木は強く力を入れた。


 ヒノミヤを部屋に送り届ければ、用件はそれで終わりだ。ヒノミヤが目を覚ました時点で別れてもよかったが、最後まで送り届けることにしたのは途中で力尽きられても困るからに過ぎない。
「えと……、わざわざ悪かったな」
「どうせ葉からふっかけてきたんだろう、気にするな」
 先回りした答えを返せば、ヒノミヤは何かを言いたそうな顔を向けてくる。だが諦めるように首を振り、じっと真木を見つめる。
 真木はただそれを黙って見返した。
「理由聞かねぇの」
「俺には興味のないことだ。お前たちの問題ならお前たちで解決しろ。他を巻き込むな」
 突き放した言い方に、ヒノミヤが不満そうな顔を見せる。それを無視して真木が部屋を出ようとすると、上着に僅かな抵抗を感じた。
 振り返れば、ヒノミヤの指が真木を引き留めている。
「……なんだ?」
 声をかけても、ヒノミヤは何も答えない。
 指も離されないまま、焦れた真木が払おうとすると、ヒノミヤはようやく俯けていた顔を持ち上げた。
「あんた、すっげームカつくな」
「生憎、酔っぱらいの相手をしていられるほど俺は暇じゃないんだ」
 うんざりとした気分を押さえて、真木はヒノミヤの手を振り払う。しかし振り払ったすぐに、ヒノミヤに腕を捕まれる。
 無表情に見下ろすとヒノミヤはたじろぐ気配を見せるが、手を離そうとはしない。睨み合うように膠着した時間を動かしたのは、ヒノミヤだった。
 据わらせた眼差しで、真木を見つめる。
「俺に何か言いたいことがあんじゃねぇの? 何も言わないくせに、目だけは執拗で鬱陶しい」
 ほんの僅か、その言葉に虚を突かれて真木は言葉を失う。だがヒノミヤの挑発めいた表情と、見え隠れする虚勢や動揺にスッと冷静さを取り戻す。
 言葉を滑らせたのは、酒のせいなのか。ヒノミヤも、真木を前にして直接告げるつもりなどなかったのだろう。しかし言い捨ててしまった手前、なかったことにすることも出来ずに突き進むことにしたのか。
 真木が唇を緩めると、ヒノミヤは怪訝な顔を見せた。
「そうだな」
 言葉を区切り、真木はヒノミヤの腕を掴み返す。その勢いのまま、壁に押し付けるとヒノミヤは呆然と目を丸くする。
 微かに響いたチェーンの擦れる音に、真木はヒノミヤの首筋に片手を這わせて指にかかるリミッターを背中へと回した。首を竦めたヒノミヤに、目を細める。
 壁に押し付けた身体は、鍛えて作り上げられたものだった。自然と出来上がるものではない。
「お前のことが知りたい」
 囁けば、ヒノミヤが大きく目を見開かせる。無防備な表情はやはり真木に警戒を抱かせるに至らないのに、すぐさま好戦的に睨み上げてくる目が、頭の奥の警鐘を揺らす。――明確に敵だと断じることが出来る存在よりも、中途半端な者の方がより厄介だ。
 ヒノミヤの無実を証明しろと告げても、それは悪魔の証明と同じだ。無いものを無いと知らしめることは難しい。黒であったとしても、黒と確定する証拠がなければまた同じこと。
 真木の中にあるのは、ヒノミヤを断罪することではない。正体を暴き出すことでも、ない。ただ、不穏分子となるのであれば、パンドラの者達を守るためならば、その素性を探ることも必要であると考えている。……ヒノミヤもまた、パンドラに――兵部に迎えられた者だ。その事実は揺るがない。
 再び膠着した時に、ヒノミヤが緩やかに息を吐き出す。
 ネクタイを引かれて、真木の顔は自然とヒノミヤに近付いていた。
「へぇ……。それってこういうこと?」
 近付けられる顔を、真木は避けなかった。ネクタイを掴まれていたからだと、言い訳するにしても振り払えば良かっただけだ。
 アルコールの匂いを放つ唇を押し付けられて、不快がなかったわけではない。だが、腹の奥底がざわりと蠢いたのも事実。
 離れていく唇から、熱く溜息が零れる。その吐息にくすぐったさを感じながら、真木はヒノミヤの腰を引き寄せた。自分から仕掛けておきながら、驚いた顔を見せるヒノミヤがおかしく、唇が緩む。
 引き寄せたヒノミヤを、真木は身体をずらしてベッドへと押し遣る。蹈鞴を踏みながら振り返ったヒノミヤに、意識して口の端を持ち上げる。
「酒のせいにしても、後悔するだけだぞ」
「それって素面ならオーケーってこと? 酔いならとっくに醒めてるさ」
「酔っ払いの常套句だな」
 ヒノミヤの軽口をあしらって、真木は背を向ける。しかしその足が部屋を出ることは出来なかった。


 ただ吐き出した息に熱が混ざっていることに気付き、真木は顔を歪めて己の股間に頭を埋めるそれを見下ろした。昂らされた欲望に柔らかな舌が押し付けられ、舐め上げる。時折かかる乱れた息をくすぐったいとすればいいのか。窺うように見上げられても、どんな表情で返すのが正解かは分からない。
「クソムカつくくらいでけぇな」
「……そうしたのはお前だ」
 熱く張り詰めていくものを舐めながら、おかしそうに囁いたヒノミヤに真木は溜息混じりに返す。奉仕するヒノミヤの口と自身の欲望とを比べて、咥えるのは大変そうだとぼんやりと考えてしまったのはヤキが回ったせいか。
 ヒノミヤの愛撫は技巧があるわけでもない。動きは単調でつまらないし、そもそもこれは愛欲だなんて関係のない、事故だ。酔っ払いに絡まれて、それに挑発で返した覚えはあるが、犬に噛まれているようなもの――と考えて、ヒノミヤの後ろ、尻の部分にぶんぶんと左右に振られる尻尾を見たような気がして、ふと笑いが零れる。
「なんだよ?」
 怪訝に見上げてくる眼差しに、なんでもないと奉仕を再開させる。ぎこちなくても不慣れでも、ヒノミヤが選んだことだ。
 ヒノミヤは、真木の詰問に己の肉体を差し出すことで誤魔化そうとした。真木が知りたいと告げた言葉に肉欲を含ませて受け取り、それ以上の追及を避けようと考えた。だからキスを仕掛けて誘い、妙な真似を仕出かした。
 それに乗る必要は真木にはありはしなかった。見ていて痛々しい。いっそ憐れだとも思う。そうまでしてこの船にいたいのか。そうしなければいけない理由があるのか。……同時に、暴こうとする自分が非道のようにも思えた。ヒノミヤにそう選択させたのは、紛れもなく真木だ。
 ならばこれは同情なのか。
「……もういい」
 呟き、真木はヒノミヤの身体を引き上げると、ベッドの上にうつ伏せに転がした。ヒノミヤの股間に昂りは見られない。そういう性的嗜好がないのだから、当たり前だろう。経験も少ない。
 ズボンを脱がそうとする真木に、ヒノミヤは一瞬だけ暴れようとして、現状を思い出したのか大人しくされるがままとなる。下着の中に収まっていたヒノミヤのそれも、大人しいままだった。手のひらで包み込み、上下に擦ると僅かにヒノミヤの呼吸が乱れる。
「っ、い、たい……っ、もう少し優しくしてくれ」
「すまん。初めてだからな」
 驚愕に目を瞠ったらしいヒノミヤを無視して、真木は言われたとおりに力を緩めてヒノミヤのそれを擦る。少しずつ熱を孕み、形を変えていく様子を手の中で感じ取りながら、上半身を覆うタンクトップをめくり上げる。
 ヒノミヤを煽ったまま、胸を舐める。
「ん、…んんっ」
 甘さもない声だ。乱れ始めた呼吸と、息を呑む声。緊迫した雰囲気が漂って、きっと後には何も残らない。それを知りながらも、止まらない。
 鍛錬の途中にある肉体。そうする必要があったのは何故か。鍛えることが趣味のようには見えない。ならば義務か。身の置き場のないような不安定さを見せるのに、意地であるように馴染もうとするその理由はなんだ。そのくせ認められると嬉しさを滲ませながらも、後で困ったような顔をする。――お前はここで何をしたいんだ。俺達を、どうしたいんだ。
「あっ、そこは……っ」
「ちゃんとほぐす必要があるだろう」
 頑なな入り口をなぞり、指先を捻じ込む。苦悶に歪む顔を見下ろして、真木は慎重に指を蠢す。
 こうしてヒノミヤが頑なとなる部分もほぐせてしまえればいいのに。
 らしくもない思考に、真木は一度深呼吸して頭を整理する。
 これでは八つ当たりと変わらない。流されたことを言い訳とするつもりはなかったが、既に真木の意思でヒノミヤを抱こうとしている。
 最初にヒノミヤがそう選んだのならば、身体で懐柔してみようか。虚しさと後悔しか残らない、ふざけた選択だ。性欲を吐き出すためでもなくなっているこの行為に、何の意味があるというのか。
 身体の熱とは正反対に、冷え切った空気は暖まらない。
「う、ぐうぅ……っ」
 ほぐしたとはいっても狭い入り口に、押し入る。引き絞られるような痛み。肉の熱さ。苦悶に歪む顔に抱くのは、何だ。
 痛みに萎えてしまったヒノミヤの欲望を擦りながら、じっくりと真木の形を慣らしていく。一度きりだ。二度目はない。ならば痛い思い出よりも、気持ちのいい思い出であったほうがいい。後味の悪さを感じたくはない、保身だ。ヒノミヤのためを思ってではない。
 僅かに蒼褪めていた顔にも血が通い始め、落ち着きを取り戻した呼吸に静かに腰を揺らす。苦痛に呻きながらも、ヒノミヤは決して弱音を吐かない。誘ったのは自分だという、矜持か。下らない。
「気持ちよさだけを覚えていろ」
「む、りだろ……、こんなデカいもん……」
「お前がそうさせたんだ」
 似たやり取りを繰り返して、口を塞ぐ。舌を絡めて、ヒノミヤの欲望を吐き出させる。
 きつく締め付けられる痛みに耐えて、真木はそのまま、自身を引き抜いた。呆然とするヒノミヤに何を言われる前にまた口を塞いで視界を覆ってやると、観念したように、静かに身体が脱力していく。
「無理をするからだ、バカが」
 呆れるように呟いて、真木は後に残された処理をどうするか、陰鬱な溜息を洩らした。
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