解き放たれる、無限の可能性

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  たまには雨も悪くない 前編  

 しばらく前に降り始めた雨は時間の経過と共にその雨脚を強め、空はどんよりとした厚い雲に覆われていた。色とりどりに咲いた傘が、右から左へ、左から右へと流れていく。
 こんな雨の中でも忙しそうに移動を続ける者達は、軒下にいるヒノミヤへと好奇心の篭った一瞥を送り通り過ぎていく。その内心は察するまでもない。
 やれやれと、浮かんだ感情のままに溜息を吐き出して、ヒノミヤは軒下から一歩、外へと顔を覗かせた。空を覆う雲を睨み付けても、それで雨が止んでくれるのなら苦労はしない。それどころかじっと睨み続ける目に、文句でもあるのかと言わんばかりに雨水が刺さって、ヒノミヤは慌てて後ずさった。
 瞬きを繰り返して雨水を追い払って、肩を竦める。
 ――と。
「ヒノミヤ……か? 何をやっているんだ、こんなところで」
 あまり馴染みがあるわけでもない土地で、それでも無縁であるわけでもない場所で、己の名を怪訝にも呼ぶ人物など限られている。
 まさか、という偶然に驚くべきであるのか、自分と同じように驚愕を残したままの青年を見つめて――正確にはその手に持ったものを見て、ヒノミヤは口角が上がるのを自覚する。
「助かったぜ。中入れてくれ」
 歩道の真ん中で立ち尽くした青年を、行き交う者達が迷惑そうな顔を隠さずに避けていく。それを見かねてちょいちょいと、ヒノミヤは自分のいるいる軒下へと手招く。とりあえず彼はヒノミヤの事情よりも、周囲の状況の把握を優先したのだろう。困惑を残したまま、ヒノミヤの隣に並ぶ。
 皆本が閉じた傘から、大量に雨水が滴る。腕に降りかかってしまったそれを神経質そうに払う横顔を眺めながら、ヒノミヤは軽く首を傾げた。
「そういや、アンタなんでこんなところにいるんだ?」
 もっともな疑問をもっともらしく告げたところで、皆本から返されたのは呆れた表情だった。
「それは僕こそが言いたい台詞だと思わないか? ヒノミヤ」
 そして呆れた心情を隠すこともなく、指摘し返されたそれにヒノミヤも納得するように小さく頷いた。
 この地に居を構えている皆本とは違い、ヒノミヤは自由気侭に世界を旅している。ならばヒノミヤが日本にいることのほうが驚くべきことであり、イレギュラーともなる存在なのだ。
 ヒノミヤにとっては旧知の人間に会った、というだけのことであっても、皆本にとってはそれとは少し変わる。何せヒノミヤと会えるかどうかは、ヒノミヤの気分次第なのだ。それ以外の采配はない。
「ああ……。なんとなく、だな。別に何かの目的があって旅してるわけでもねぇし」
「それは知ってる。僕が聞きたいのはなんでこんなところで雨宿りしてるのかって言う、そっちのこと」
「……ああ」
 どうやら的外れな答えを返してしまったらしいことに苦笑して、ヒノミヤは決まり悪く後ろ頭を掻く。
 なんで、も何も、こんな雨の中で傘もなく、軒下で雨宿りしている理由なんて限られているだろう。だから皆本が知りたいのは、そこに至った経緯について、か。
 ヒノミヤを見つめる皆本の眼差しは、どことなく意地が悪く見える。
「別に、俺だってこの天気だし、傘を持ってなかったわけじゃねぇよ。けど、テキトーな店でテキトーに昼飯済ませて出ようとしたらなくなってたんだよ。その時は小降りだったし、ホテルまで持つかと思ったんだけどなぁ」
「で、今更また買い直すのも面倒で、そのうち止まないかと手頃な場所で雨宿りしてた……って?」
「そゆこと。完全に出るタイミング失くしたぜ」
 止むどころか本格的に降り続く雨に止む気配などない。
 そうこうしているところで、運良く皆本に出会えた。
 そう告げると目の前で隠そうともせずに大仰に溜息を吐かれ、ヒノミヤはむっと皆本を睨んだ。皆本はその視線に何でもないというように軽く手を振ると、もう一度息を吐き出して、畳んだばかりの傘を広げた。
「どこのホテルなんだ?」
 広げた傘の中に先に入り、振り返りながら訊ねてきた皆本に、ヒノミヤは目を丸くする。
「いや……。てか、アンタ何か用事でもあるんじゃねぇの?」
 世間的には今日は日曜日で、皆本も着ているのはスーツではなくラフな私服だ。足を止めさせてしまった自覚はあるが、精々タクシーでも捕まえられればそれで済むし、まさかホテルを聞かれるとは思わなかった。
 皆本のお人好し加減は知っているつもりだったが、いざそれに直面してしまうと、どう対処すればいいのか悩んでしまう。
「別に、用事はもう済ませたし、時間ならあるからね。構わないよ」
「……ならいいが」
 押し問答は最初から諦めて、ヒノミヤは自分を待つ傘の中へと身を滑らせた。


 ホテルのエントランスで別れようとする皆本を、半ば強引に部屋まで誘い込んだのは彼の右肩が異様に濡れていたからだ。いくら成人男性用に広い傘であったとしても、一人用として計算されたそれにそれなりにガタイも出来た男二人が入れば狭くなる。
 当然、はみ出すことになるのだが、傘を持つ皆本があえてヒノミヤにスペースを譲っていたことに気付かないはずがない。皆本はそれで気付かれないと思っていたのか、バレるだろうと分かっていてあえてなのか。
 6月に入ってそれなりに暖かい気候になり始めているとはいえ、今日は雨のせいで若干気温も低く感じられる。その中で雨に濡れたまま帰して、自分の知らないところで風邪でも引かれたら後味が悪すぎる。
 そんなことを上昇するエレベーターの中で懇々と語ってやれば、生真面目な皆本は渋々とだが素直に頷いた。無意識レベルで他人には気遣い優しさを振りまくくせに、自分のこととなれば一転して頑固になるのは、少々面倒臭い。
 しかしそれも意地を張っているのではなく、相手に気遣わせてしまうのが申し訳なく感じてしまうからなのだろう。
 だから――というわけでもないが、ヒノミヤが自分が泊まる部屋に皆本を招いたのは決して他意があったからというわけでもない。けれど健全な男として何もしないというのもどうかと思考が働き、結果、カードキーを差し込んで部屋の中に入った途端、皆本を扉に押さえつけるようにしてキスを仕掛けたのは正常な思考の部類のはずだ。
 驚いて身体を強張らせた皆本の手から、傘が零れ落ちる。響いた物音に慌てて暴れようとする身体を捻じ伏せて、ヒノミヤは皆本の両手を扉に縫いつけたまま、離した唇の隙間から熱く息を吐いた。
「暴れんなよ。怪しまれるだろ」
「だったらいきなり襲うな!」
 すぐ背後には誰かの往来のある廊下だと理解しているからか、噛み付いてくる皆本の声は小さく抑えられていた。それでも抵抗を諦めているようではなく、隙を見せれば簡単に逃げ出されてしまいそうな気迫に、ヒノミヤは背筋がゾクリと震えるのを感じずにはいられなかった。――もちろん、そこに奇妙な愉悦を感じたからだ。
 けれど、久し振りに会えて、次いつ出逢えるのかも分からない相手と喧嘩しても損にはなっても得になることはない。時間の無駄で、無益だ。
「悪かったよ。アンタに会えたのが嬉しくてつい……な」
 押さえつけていた両手を解放する代わり、ヒノミヤはそっと皆本の肩を抱き締める。耳のすぐ傍で息を呑むような声がして、それからゆっくりと、強張っていた皆本の身体が解れていく。深く吐き出される息がくすぐったい。
 身じろいだヒノミヤの背中に、解放された皆本の両手が回されていた。ヒノミヤを抱き締め返して、宥めるように軽く背中を叩く手のひらに思わず笑みが零れる。皆本も同じように笑っていた。
 一頻り抱き合って、その存在を感じていると、皆本が身体を離そうとする気配が伝わってくる。
 今度は素直に離してやると、皆本はヒノミヤと視線を合わせた後に、その眦を軽く吊り上げた。怒った――ふりをした――表情。
「それで、僕は君が風邪を引かれると困ると言うから、わざわざ部屋まで来たんだが?」
「ああ。そういやそうだったな。シャワーでも浴びてくか? 服は……ま、そのうち乾くだろ」
 短い通路とも呼べない通路を進んで、ヒノミヤはシャワールームの扉を開ける。そうして皆本を振り向いてから、赤らんだ顔をする皆本にヒノミヤも思わず口篭る。
 あー、だの、うー、だの、言葉にならない声で場繋ぎの言葉を探って、ヒノミヤは頬を掻く。
「……一緒に浴びるか?」
 そう少なくはない経験の中で分かったことなのだが、はっきりと言って皆本はそういうことに疎い。直接にそういう話題を振られると返答に困ってしまうらしく、今のように怒ったように赤い顔で睨まれる。……本人にその意識はないようだが。
 どこまでも素直で、汚いものとは無縁に見えるのに、どうして皆本は世界の暗部にいるような自分達と関わりが強いのか。でも皆本は真面目で、明るい場所を歩むべき人間であっても、場合によっては危ない橋も渡る強かさもある。
 いつかに聞いた過去。紙面では分からない皆本の内情。
 優れた頭脳であったがゆえに、普通の枠組みから爪弾きにされた子供。普通人であって、普通人にあらず。けれど超能力者でもない。
 それはまるで誰かのことのようではないか。超能力者であって、超能力者にあらず。けれど普通人でもない。
 同族から爪弾きにされた子供は、それでも荒むこともなく、誰かを憎むこともなく、ひたむきに前を見据えて成長した。その素直さが羨ましいのかどうなのかは、ヒノミヤには分からない。結局、似ているだけで、同じであるわけではない。だから比べることも出来ない。
 しかし自分にもそういう真っ直ぐさがあればどうなっていたかと、たらればを考えたことがないといえば嘘になる。だが単なる暇潰しの詮無き思考だ。過ぎ去ったことを変えることなど、出来やしないのだから。
 でも、自分のもしかしたらの姿と思えるから、自分と同じようにはなって欲しくはないと思うから、危うさや甘さが気になって、焦がれるように惹かれているのだろうか。
「ヒノミヤ?」
 いつの間にか、すぐ傍にいた皆本にヒノミヤは焦って身体を仰け反らせ、まじまじと皆本を凝視する。凝視される皆本はその視線に不快そうに眉間に皺を刻むものの、心ここにあらずといった姿を見せていたヒノミヤを気遣うような顔を見せる。
 なんでもないといくらヒノミヤが首を振っても、皆本は納得しようとしない。気遣いは嬉しいが、今更のようにこうなったわけを考えていた――などと口が裂けても言えるはずがない。そんな恥ずかしい真似がどうして出来るか。
 心配そうに伸ばされてきた皆本の手を強引に掴んで、ヒノミヤはそのままシャワールームへと連れ込んだ。こんな急展開であっても律儀に靴を置いてくる皆本の几帳面さに笑いを零して、扉を閉めて内側からも鍵を掛ける。
 二人ともが中にいるのだからその鍵に意味などありはしなかったが、鍵のかかる音に皆本は小さく肩を揺らして、ヒノミヤが掴んでいた方の腕を力なく揺らした。促しに従ってヒノミヤが手を離しても、皆本は逃げる素振りは見せない。
「ったく、強引なんだよ、君は……」
 愚痴を零す皆本に「悪いね」と、流れでヒノミヤが相槌を挟むと、不機嫌そうに睨まれる。おどけるようにヒノミヤが肩を竦めて見せれば、皆本は聞かせるように溜息を大きく響かせて、雨に濡れた服に手をかけた。
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