解き放たれる、無限の可能性

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  篋底に潜むもの 後編  

 月星の煌めきが夜空に広がりを見せる、深夜。ようやく一人となる時間を得られたヒノミヤは、それまでの鬱屈を発散しようと甲板へと向かっていた。
 その行為に意味はない。あるとするならば、圧迫感のない解放感溢れる場所に身を置きたかったのだ。郷愁に浸るほど思い出があるわけではない。孤独に押し潰されるほど、未練があるわけではない。
「ったく、いつまで居座らせる気だ?」
 誰に向けるでもない愚痴を吐き出して、遣る瀬無さに自然と溜息が零れる。今後もこうして皆本に付けられるのなら、下手な行動が取れない。ただでさえ遅々としか進まない本来の任務がますます遅れてしまう。実のない定期報告も、面倒だ。上司からの抑圧も。
 だからか、この船の気楽さには呆気に取られるしかない。犯罪者集団でならず者の集まりかと思えば殺伐とした空気もなく、あるのは気の置けない友人同士で集まっているかのような気兼ねなさ。しかしその統率は、兵部京介を中心として取れている。
 惹き付けられる理由は薄々と気付いている。彼は決して、超能力者を裏切ったりはしない。何かを強要したりも、力をもって支配することはない。ただその知性と言動でもって、人を惹き付ける。人柄で結ばれた絆。だから裏切る者は現れない。それは己の矮小さをつきつけられる行い。
 そしてヒノミヤも少なからず――
「ん?」
 ヒノミヤの行く先、甲板に浮かぶ二つの人影。距離は遠く二人が何をしているのかは分からないが、その内のひとつの正体に気付くと、ヒノミヤは息を潜めて物陰に身を伏せた。
 甲板に立っているのは、兵部と――皆本だ。
 船にぶつかる波の音で声を拾うことは出来ないが、それが剣呑な雰囲気であることは分かる。出ていった方がいいのかとも考えて、すぐにそれを払拭する。出ていったとして何になる。それに、自分はどちらに加勢するつもりだった?
 何かに押されるように――好奇心という感情を抑えることも出来ず、ヒノミヤはもう少し近寄ることは出来ないかと、周囲を見渡した。


 実際のところ、皆本はヒノミヤが思うように冷静であったわけではない。自棄になっていた、とも言う。だがそれでも、己の不在を怪訝に感じた仲間が助けに来てくれる、と期待を捨てていたわけではない。
 より確実な、強い確証として、兵部は皆本に手を下せない、という限りなく事実に近い思惑があったにすぎない。今皆本が倒れることになれば、兵部の願いは叶わない。女王誕生の未来が揺らぐ。皮肉にも皆本は、変えたい未来に守られている形になる。
 だがそれも、兵部の気が変わらなければ、という前提条件がある。
 それに生かさず殺さずの方法はいくらでもある。自分が獣の前に放り出された獲物である自覚はあった。しかし、追い詰められた鼠でも猫を噛む。
「どういうつもりだ? 兵部」
 風は凪いでいた。
 兵部からの反応はないが、薄くその唇が笑みを浮かべている。睨み付ける皆本を、おかしそうに二つの瞳が眺めていた。
「あんなものを僕に見せて、いったい何のつもりだ」
 更に言葉を重ねた皆本に、ようやく兵部が反応らしい反応を見せる。小首を傾げて、不思議がるような仕草を。それを見た瞬間に込み上げるからかわれているのかと憤る感情を、皆本は宥め賺して息を吐き出した。
 あれが兵部の指示したものではないとは、皆本も理解している。――あれは、ヒノミヤの意志だ。
 突然押しつけられた厄介事を、彼は明らかに持て余していた。内密に兵部からの指示を受けた様子もなく、彼は彼の判断で、皆本を連れ歩いた。そして見せられた、この船の内情。
 この船には、幼い子供が多く乗船している。その子供たちは皆、超能力者であるというだけで捨てられた孤児だという。そんな子供たちが、この船には集められている、と。
 目の前の男が――兵部京介が、己の復讐心のみで動いているわけではないことなど、知っている。彼が保護した他の子供のことも、皆本はよく知っている。だからこそ、兵部を悪とするその心に、迷いが生じる。そんなものは切り捨てて、目の前の犯罪者を捕らえなければならないことは重々承知しているのに、相反した現実が皆本に迷いを植え付ける。
 兵部が真に悪であるならばよかったとさえ思ってしまう自分が恥ずかしい。
 国の全てが日本のように超能力者保護に力を入れているわけではない。中には国が、超能力者を兵器として見なし、扱う国もある。そこに超能力者達の意志は含まれない。兵器にすぎないのだから、意志があるはずがない。
 仮に保護されたとしても、それが一生を保証するわけではない。世間の見方が変わらなければ、彼らは肩身が狭いままだ。充足した生活を送れるとは限れない。それになによりも、普通人の超能力者に対する偏見は強い。ECMやリミッターは超能力者を抑圧する枷ではない。だがいつの間にかに蔓延した思い込みが、優劣を決めつける。
 ヒノミヤにどんな思惑があったのかなど、皆本には分からない。偶然の産物にすぎない可能性だってある。
 兵部を捕らえることは、本当に「正しい」ことなのか。
 ――この船に乗る者達は、どうなってしまうのか。
 己の頭脳は、それらをどう計算する――?

 ふっと、己の周囲の空気の揺らぎを感じた瞬間、皆本の身体は冷たい水の中にあった。鼻や口から流れ込んでくる大量の水に四肢をばたつかせ、足先に感じたかたい感触に一気に床を蹴り上げ浮上する。
 水面から顔を出して、皆本は大きく息を吐き出した。飲み込んでしまった水に咳き込み、息を喘がせてこんな暴挙に出た男を睨み上げる。
 ひゅっと、息を呑む音が響いた。
 皆本を蹴り落とした足を地に下ろした兵部が、覗き込むように腰を折って見下ろしてくる。感情を殺ぎ落としたように無表情だったそこに、満面に作られた笑みが浮かぶ。
 ゾクリ、と身体が震えたのは、身体が冷たい水に浸かっているからなのか。
「頭は冷えたかい? 皆本クン」
 気遣うようでいて、見下したそれ。
 皆本は悔しさに――それが単なる八つ当たりだと知っていて、睨み付ける眼光を緩めない。兵部も皆本にしおらしい態度は求めなかったか、大して気にする素振りも見えない。
 ただ、水面に散らばる月光のように、真っ直ぐで陰りない眼差しを向けてくる皆本の目を眩しそうに見つめていた。
 しかしそれも、皆本が瞬いた瞬間に消える。浮かんでいるのは皆本が向ける感情も意に介さない、飄然とした表情。緩く持ち上げられた唇が、兵部の絶対的優位を語る。
「ヒノミヤは使える奴だろう?」
 問いかけられたその意味が分からず、皆本がただじっと兵部を眺めていると、でも、と笑みを浮かべていた唇が不機嫌そうに曲がる。
「ちょっと空気を読みすぎだな。折角存分にキミで遊べるチャンスだったのに、予定が狂った」
 つまらない、という顔を見せながらも、その口振りはどこか弾んでいる。仲間の予想以上の働きに満足しているようでもある。
 だが今の皆本にとって、兵部がヒノミヤへと贈る賞賛などどうでもいい。
 分かったのは、兵部が最初から皆本にこの船が抱えたものを――超能力者の現状を見せつけたかったのだ、ということ。知識として得るのではなく、実際にその頭で考えさせたかったのだ。
 パンドラの存在意義を。
 超能力者にとって必要である者の存在の価値を。
 まるで頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が、皆本を襲う。
 考えないようにしていたのか、それともあえて見ないようにしていたのか。……ただの、無知であったのか。
 また、頭が思考に沈む。
 しかし完全に皆本が思考の世界に足を踏み入れる前に、眼前に差し出された手。皆本は虚をつかれたように、その手を凝視した。
「なんだ。やはり僕の手は取れないか?」
 わかっていたように、兵部が笑う。見え透いた挑発は、だからこそ簡単に皆本を煽った。それに言外にある言葉は、超能力者の手は取れないのかと、皆本を嘲う。
 分かりやすく不愉快な顔を見せた皆本に、兵部の手が再度差し出された。そして皆本はその手を強く握り締め、強く――引き寄せた。
 ほんのちょっとした意趣返しだ。やられっぱなしは性に合わない。一矢報いることが出来れば、と思ってのこと。勝算が低いことは分かりきっていた。
 だが。
「なっ!?」
 驚愕の声は、皆本が上げたものだ。逃げられるだろう、と皆本が予期した結果は起こらない。
 皆本に引き寄せられるままに、兵部の身体が降ってくる。水中という安定しきれない不安定な足場で、予期せぬ重みを加えられた身体は、当然のように踏ん張りきることも出来ずに足を滑らせ水中に沈み込む。
 それでも一度目よりある程度予想はし得たからか、皆本は咄嗟に息を詰めて体内への水の侵入を防ぐ。
「はっ」
 抱き寄せてしまった兵部の身体を抱えたまま、皆本は空中へと顔を出す。腕の中に重みはある。でも油断は出来ない。催眠暗示をかける機会はいくらでもあった。
「兵部っ!?」
 それでもまさかという思いが拭えず、腕の中にある兵部の顔を覗き込んで、皆本は息を呑んだ。
 言葉も出ないほどに信じられない展開。――本物だ。
 そう実感した瞬間に、後先考えずの結果なのか、次に取るべき行動を見失う。途方に暮れるように兵部を捕らえたまま、何をすればいいのか考える。だが思考は驚きに染まったまま、動きだそうとはしない。
 硬直する皆本の代わりというように、兵部は緩く息を吐き出すと濡れた髪を煩わしそうに軽く振り、水の中で一歩を進めた。たたらを踏むように皆本の身体が後退し、両者の距離は縮まらない。
 兵部が何かをしようと右手を動かし、その手が皆本に掴まれたままだと気付くと、小さく笑みを零し、返す手で逆に皆本の手を掴んだ。怯えるように身体を跳ねさせた皆本に兵部は満足げに目を眇め――、月星に仄かに照らし出される中で、二人の影が重なった。

□ ■ □

 突然響いた水音に、ヒノミヤは慌ててそちらへと目を走らせた。だが、物陰に引きずり込まれた身体では、何が起こったのかを把握することは出来ない。
 だから己を拘束する者の意を汲んで――騒ぐなというものだ、了解を示すように首を縦に小刻みに振る。しばらく逡巡する気配が見られたが、それでも身体を拘束するものと、口を塞ぐものが解かれる。
 ようやく楽になった呼吸に大きく息を吐き出して、飛んできた鋭い視線に慌てて息を吸う。恐る恐ると背後を振り返れば、それまでヒノミヤを拘束していた真木が無表情のまま立っていた。
 身体に巻き付けられた黒く硬質な触手にもしかして、と予想はしていたが、その通りの結果に知らず胸を撫で下ろす。まったく安堵出来る状況ではないが、僅かなりと余裕が生まれたのは、真木の視線がヒノミヤではなく、その後ろへと向けられているせいだろう。
「なんでここに?」
 思った疑問をそのまま口にすれば、そのままをヒノミヤに返すように強い視線が向けられる。それに返す答えをヒノミヤは持たない。
 疚しい気持ちがあったわけではなく偶然にすぎないが、身を潜めて盗み聞いている時点で説得力に欠ける。軽く肩を竦めてそれを返事とすれば、真木の眉間に刻まれる皺が一段と深くなった。
 それ以上を詰問しようとする気配が真木にないことを確認すると、ヒノミヤは遠慮なく己の思考に耽り始めた。とは言っても、大して収穫があったわけではない。頭は切れるが凡庸な男――。そのくらいだ。超能力者と普通人との間に隔たりを感じていないらしい、というのは稀少とすべきだろうが、かといってそれが珍しいというわけでもない。ただ全体に比べれば少ない、というだけだ。
 そんな男をどうして兵部が気にかけるのか。自分達を捕まえようとする人間――というだけではないだろう。ではやはり、女王と関連した人間であるからか。でもヒノミヤには、女王の重要性はわからない。……まだ。それだけの才があの時に見た少女にあるのかも知らない。ただ彼らがそう告げるのだからそうなのだろう、と漠然と理解しているだけ。
 ならば、彼女を手に入れるためには皆本は目の上のたんこぶとも言うべき存在だろう。無理にでも奪わないのは理由あってのことか。確かに無理矢理拉致した上でそんな組織のリーダーをしてくれ、などと言われれば頭が涌いているのかと考える。協力はしない。それに同じ超能力者ではあるが、少女は善行を行い、こちらは悪行を行っている。しかし自分達は完全なる悪人というわけではない。世間的にはそう思われていようとも、実際は違う。
 ――だから、そのための交渉を行っているのか、と考えても、どう贔屓目に見てもそんな雰囲気ではない。生真面目を体現する皆本がそれを呑むとも思えない。
 なるほど、因縁浅からぬ関係か。
 それが一人の少女を巡ってのことであることに少々脱力感を抱くが、超能力者がカタストロフを無事乗り越えるために統率者たる女王が必要となるのならば、理解は出来る。
 そんなことをヒノミヤがとりとめもなく考えていると、再び何か重いものが沈み込むような水音が辺りに響いた。
 己の周囲を確認すれば、真木はヒノミヤが思考に耽る前と同じ場所に変わらず立っている。ならば、とヒノミヤは顔を覗かせて兵部と皆本の様子を窺い、上げそうになる声を必死に耐えてしゃがみ込んだ。
 頭の中を疑問がぐるぐると駆け巡る。混乱する思考を鎮めることも出来ないまま、同じものを目撃しただろう真木へと視線を向け、急速に頭が冷えていく。
「――……どういうことだ?」
 無意識に落とした疑問に、返る答えはない。だがヒノミヤは気にしない。逆に答えを返されてしまった方が――それがヒノミヤが想像したものと同じであれば、そちらの方が困ってしまう。
 しかしこれ以上この場に留まっていれば、知りたくもないものを知ってしまう可能性がある。
 ヒノミヤは真木を一瞥すると静かに立ち上がり、この場を離れようと促す。
「バーってまだ開いてんの? 俺今呑みたい気分なんだけど」
 つか呑まなきゃやってらんねぇ、との呟きはそのままヒノミヤの口の中に消える。
「……開ければいいだけだろう。どうせ船には我々しかいない」
「それもそうだったな」
 去り際、ヒノミヤがそれとなく視線を送ったその先には、誰の姿も浮かんではいなかった。

□ ■ □

 翌日、カタストロフィ号船内に皆本の姿はどこにもありはしなかった。
 まるで一日限りの白昼夢であったかのように、日常は呆気ないほど簡単に舞い戻ってきた。


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