解き放たれる、無限の可能性

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  篋底に潜むもの 前編  

 うっすらと靄がかったような視界。瞬きを繰り返して次第に明瞭となる景色を、未だ覚醒に至らない意識が捉える。
 覚えのない、装飾だ。
 これは夢なのか、どうなのか。
 自らの身体に意識を向けてみれば、どこかに横たわっているのだと気付く。背中を受け止めているのは、柔らかなマット素材。思わずそのまま意識を落としたくなるほどに、寝心地の良いものだ。触りの良いリネンも、質の高さを窺わせる。
 だがどうしてそんなものに自分は身を沈めているのかと考えて、急激に意識が浮上する。跳ね起きるように身体を起こして――、しかし両腕が後ろ手に拘束されており、起きあがることが出来ない。
 そんな、皆本の目覚めの気配に気付いたのか、ベッドの端に腰掛けていた人物が振り返った。パタン、と本を閉じる軽い音が響き、その人物は口元に薄く笑みを浮かべる。
「ご機嫌如何かな、囚われのお姫様?」
 揶揄するような口振りでその男は声を発し、それを聞いた皆本の目元が怒りに赤く染まる。
 不自由な身体で距離を取りながら皆本は起き上がり、相手を睨み付ける。睨み付けられる男は、それでも涼しげな態度を崩さない。
「どうしてお前がここにいる、兵部!」
 兵部を睥睨し、皆本は注意深く辺りを観察する。部屋には皆本と兵部のいるベッドに、備え付けの机と椅子、クロゼットがあるだけの簡素な造りになっている。皆本の位置からは部屋の全体は見えないが、それでも部屋の構造を見ればバス・トイレも完備されているのだろう。
「ホテル……?」
 呟いて、すぐさまその考えを打ち消す。
 兵部がおかしそうな笑みを浮かべているのに気付いてしまったのだ。
 瞬間、まさか、という思いが胸裡に走る。だが、間違いはないのだろう。
 皆本は戦慄く唇を一度きつく噛み締めることで平静さを取り戻し、ゆっくりと口を開いた。
「ここは――」
 けれど、皆本が紡ぐはずだった言葉は兵部に奪われる。
「ようこそ、皆本クン。――カタストロフィ号へ」
 芝居がかった大仰な仕草で皆本を歓迎する兵部に、皆本はただ、言葉を失った。


 緊急の召集は、幹部の誰もが知らぬものだった。最後に寄港したのはつい最近のことであり、まだしばらくは洋上をのんびりと漂うスケジュールだったはず。
 何か不測の事態でも起きたのかとそれぞれが思考を巡らせてみるが、思い当たる節は特にはない。ではいったい何か。
 召集場所は一般の乗組員達の立ち入りは許されていない、バーラウンジとも使用しているそこ。最初に中に足を踏み入れたのは真木と紅葉。それから少し遅れて葉が現れ、次にドアが開いたときに姿を見せたのは、つい最近、パンドラの新しい仲間として迎えられたヒノミヤだ。
「おっせーぞ、新入り。普通は一番に来てるもんだろーが」
 開口一番に、葉からの野次が飛ぶ。それにヒノミヤは軽く眉を顰め、どこからともなく向けられる強い視線に愛想笑いを浮かべて「すんません」と頭を下げた。不承不承と納得してはいない心情は態度に如実に現れ、更に詰め寄ろうとする葉を真木が視線で諫める。
 それは真木がヒノミヤを庇ったというわけでもなく、単に不毛な言い争いを聞くのが面倒であったにすぎない。ヒノミヤにも真木が厄介事を避けたかっただけということは理解しているのか、わざわざ謙って礼を告げるような真似もしない。
 一触即発――ではないが、確かに居心地の悪い空気に紅葉が溜息を吐き出すと、まるでそのタイミングを見ていたかのように、ドアが開かれた。廊下から零れてくる逆光の中現れたのは、三つの人影。
 一つは彼らを呼びだした兵部のもの。一つはその足に隠れるようにしてくっついたユウギリのもの。そして残るもう一つは
「やあやあ、皆揃ってるみたいだね」
 上がる陽気な声は兵部のものだ。返る言葉がないことに些かつまらなさそうな顔を見せ、やれやれと肩を竦めるとユウギリを促して奥へと進んだ。その後ろから、肩身が狭そうに青年が付き従う。
 ラウンジの一番奥、僅かに場所を取られたそこに、兵部とユウギリ、青年が四人と向き合うように立つ。三人を眺める真木や紅葉、葉、それにヒノミヤまでもが、開いた口が塞がらないと、彼らがそこに並び立つまで愕然と声を失っていた。
 それら意識を現実に連れ戻すように、兵部の手が数度、打ち鳴らされる。高く響いたその音にハッとして、真木達の意識が兵部に――その隣に立つ青年に向けられた。だがすぐさまその視線は兵部へと引き戻される。
「はいはーい、注目。今日から君達と特に仲良くする必要もないが、敵だからって喧嘩は程々にしてもらいたい皆本光一クンです。しばらく滞在させるからそのつもりでよろしく」
 実にあっけらかんと、一体これは何の悪ふざけなのかと、誰しもの頭に過ぎる。
 いち早く呆然とした状態から我に返った真木が慌てるように兵部を呼び、不服を示す彼の腕を掴んで強引に引き寄せる。抵抗もなくついてきた兵部を四人で囲い込み、その顔のどれもに困惑が色濃く浮かんでいた。
「いったい何を連れて来ているんですか、あなたは!」
「あれがなんなのか少佐が一番わかってるでしょう!?」
「ついにボケちまたんすか?」
「えー……、でももう連れて来ちゃったし」
「元の場所に返して来なさい! ウチでは面倒見れません!」
「つか、犯罪者組織のリーダーがそんなんでいいのかよ!」
 小声で話しているつもりなのだろうが、それぞれが興奮しているせいか、それに密談の形はない。しかも聞こえてくるやりとりが、親に内緒で犬猫を拾って持ち帰り、親に叱られる子供を彷彿とさせる。
 そんな組織を相手にしているのか、と考えれば遣る瀬無い気持ちが込み上げてくるが、自分のチームも似たようなものだと思い出して皆本は苦く笑う。
 兵部への尋問は終わりを見せる気配もなく――主に兵部が皆の反応を楽しんでからかっているせいだが、第三者の立場であればよく分かるそれも当事者となれば頭に入らなくなってしまうのか。皆本が手持ち無沙汰を感じていると、足下からじっと向けられる視線に気付いた。視線を下げると、そこには身を隠すものをなくして、恥じらいながらも皆本の存在を気にする少女の姿があった。
 彼女はここに来る途中、兵部が連れてきた少女だ。道中は気兼ねなく口を開けるような雰囲気でもなく、初めて見たときから皆本もずっと気になっていたのだ。
 どうしてこんな少女と呼ぶにも幼い彼女が、この船に――兵部の傍にいるのか。
 皆本が困惑気味だった笑みを柔らかな、人好きのする笑みへと変えて膝をつくと、ユウギリが驚いたように身体を揺らす。落ち着きなくスカートの裾を握り締めたり引っ張ったり、あちこちと視線をさまよわせる姿に破顔して、皆本は驚かせないようにそっと手を差し出した。
「初めまして。僕は皆本光一です。君の名前を聞いてもいいかな?」
「っ、ぇ……、っと、ぁのっ……」
 照れるように顔を俯け、絞り出される声に皆本の頬が緩む。焦らせないようにと皆本がただ返事を待っていると、不意に皆本の頭上に影が落ちた。ユウギリの癖を残した髪を、色の白い手が優しく撫でる。
 少女はくすぐったそうに目を眇めて、気持ちよさそうな表情を浮かべていた。
 ぎこちなく、皆本が顔を上げた先にあったのは、自分を見下ろす冷めた眼差し。
「キミってば少女となると見境がないな、このムッツリロリコン」
「お前だけには言われたくねぇよ! このジジイ!」
 勢いよく立ち上がり、皆本の怒鳴り声に圧されたのは兵部ではなく二人の間にいるユウギリだ。喉を引きつらせるように声を上げて、定位置のように兵部の足に姿を隠す。
 それを見て皆本は気まずそうに視線を逸らし、兵部が意地の悪い顔を浮かべた。
「キミが大声なんか出すから怯えたじゃないか、可哀想に」
 見せ付けるように、兵部が少女を労わり頭を撫でる。その口振りとは裏腹に顔には勝ち誇った色が見えるような気がするのは、皆本が独自のフィルターを通して兵部を見るからか。
「ぐっ」
「ほんとキミってそういう配慮に欠けるよね。あああれ? 弱いものイジメして悦ぶタイプ? うわっ、根暗〜」
「んな倒錯した嗜好持ってねぇよ! 誰かと違ってなっ」
「え、誰かって誰? 僕も知ってる人?」
「お前のことだよ、性格破綻者!」
 掴みかからんばかりの勢いで皆本がまくし立てるが、兵部は柳に風と飄然と受け流していく。
 眼前で繰り広げられる言い争いに、今度は真木達が遣る瀬無い気持ちを抱く番だ。主にリーダーであるはずの人間の、悪癖に。
 兵部が時折覗かせる外見年齢に相応した子供っぽさは、それを補佐する真木達の頭を悩ませる種でもある。それでもすべきことはこなし、統率者としての威厳が損なわれているというわけでもないのだから、単なるガス抜きであることも理解はしているが。
 それでも敵組織の人間と仲良くしないで欲しい、というのは切なる願いだ。この船には普通人を憎む人間が多いというのに、その普通人とリーダーがじゃれ合っているとなれば、示しがつかなくなる。ここに集まる者達は、皆、兵部京介という人間を信頼し、その存在に惹かれこの場にいる。
 その姿は虚像ではないにしても、その信頼を裏切るような行動は慎むべきだ。
「――少佐」
 静かに、重く口を開いた真木に、兵部は皆本での遊びを止め、困惑を隠そうとはしない部下達を眺めた。そして彼らの抱える不安を払拭させるように、微笑む。
「皆本クンの世話はヒノミヤに任せる」
「はっ、俺っ!? なんで!?」
 名指しされたヒノミヤに、全員の視線が集中する。それはどうしてこいつが、という疑念であり、自分でなくよかったという複雑な安堵であり。
 また皆本に至っても、その真意を読み取ろうとするかのように兵部を険しく見つめていた。
 信じられないと目を見開かせたヒノミヤを、兵部が視線一つで黙らせる。そのまま大人しく口噤んだヒノミヤに満足するように小さく頷いて、兵部はあっさりと解散を告げた。


 全員がバーラウンジから姿を消した後、そこに残る者達がいた。
「本気なのですか? 少佐」
「僕はいつだって本気だよ? 真木」
 詰問の雰囲気を滲ませた真木に兵部は身構えることもなく言葉を返し、肩を竦める。その気の抜けように真木の片眉がピクリと跳ねるが、追求する言葉は出ない。
 真木とて、兵部が何の考えもなしにふざけているとは考えていない。だが、あまりにもそれが突飛し過ぎて、真面目なきらいの強い真木には理解できないのだ。紅葉や葉とて、納得したわけではない。
 ただ兵部へ真意を問うことを、真木に任せたに過ぎない。その結果、得られた答えが納得のいかないものであれば、遠慮なく兵部に直訴しに来るだろう。手っ取り早くその対象に皆本を選ぶ可能性もある。「喧嘩は程々に」と忠告はなされたが、手を出すな、とは言われていない。そしてその命の保障も。
「何を考えているのですか。ヒノミヤの件といい、今回のことといい」
「僕が考えているのはいつだってキミ達超能力者のことだよ。そのために僕はここにいるんだから」
「では、いったい何のために普通人を船に――、っ!」
 感情のままに言い募る言葉が、不意に途切れる。過ぎってしまった考えに、思いついてしまったその答えに、声が出せなくなってしまったのだ。
 抑えきれない動揺に、沸き上がる焦慮に真木がただ兵部を凝視し続けていると、ふと、兵部の纏う空気が和らいだ。真木の思い込みを、否定するように。
「あの未来を変えるためなら僕はなんだって足掻くさ。結果がどうあれ、何もしないより動いた方がマシだろ?」
「……女王を安全に我々の元へと連れてくる方法はこちらでも考えています。ですが」
「策は多いに越したことはない。それに、ずっと皆本クンをここに留めさせるつもりもない。それこそ、女王に嫌われてしまうかもしれないからね。――ちょっとした実験だよ、これは」
 クッと、おかしそうに喉を鳴らして笑う兵部を、何かの懸念を残したような真木の目がただじっと見つめていた。

□ ■ □

「ったく、なんだって俺がこんな真似を……」
 ここにはいない、こんな下らない命令を出した人物に向けて愚痴を垂れ流しながら、ヒノミヤは数歩下がった位置でついてくる青年を横目に見遣った。まだ数日と、その人となりを見極めるには付き合いが短いヒノミヤより彼の方が付き合いも長いからか、ヒノミヤほどの困惑は見られない。
 図太いというのか、恥知らずなだけであるのか。
 皆本光一。
 政府特務機関超能力支援研究局――通称バベルに所属する青年。階級は二尉。本来は技術課の研究員として配属されていたが、現在は特務課――超度7の特務エスパーチーム、ザ・チルドレンの現場運用主任を務めている。彼女らの使用するリミッターは、皆本の製作であるらしい。
 小学5年生の時にそのIQの高さから特別教育プログラムへの進学を勧められ、その後、海外に渡る。普通人と超能力者という人種意識は彼になく、バベルに所属する超能力者から得られる信頼は高い。
「――何か?」
 じっと、盗み見る気配に気が付いたのか、皆本が怪訝に声をかけてくる。だがその声音に警戒というものはなく、あるのは戸惑いという色が強いか。邪な感情のない清廉な者が抱く、一方的な観察者への対処への惑い。
「……いんや、別に」
 適当に首を振って、ヒノミヤは軽く息を吐き出す。
 世話をしろと言われても、ヒノミヤ自身もこの船のことはあまり知らない。兵部の企みが理解できない以上は下手に皆本に晒さない方がいいだろうし、だが面倒と放り出すことも出来ない。折角勝ち得た信頼を失くすような真似をすれば、今後自由に船内を出歩けなくなってしまう。
 ならば――、と考えて、ヒノミヤは船内の見取り図を脳裏に思い浮かべた。無難な場所をいくつかピックアップして、ようやく進む先を確定させる。これまではただ意味なく歩いていただけとは、言わなければ皆本には伝わらないだろう。
「なぁ」
「なんだ?」
 声を掛けられ、ヒノミヤは振り返らずに応える。皆本にもそれを気にする素振りは見られなかった。その代わり、次の言葉を模索するような躊躇いを感じ、やり難さを感じる。面倒事を押し付けられた気分だ。兵部の考えが分からない以上、それも致し方ない結論であるし、事実に違いないだろう。
 部屋を出た後、葉は皆本に敵意を向けた後、ヒノミヤをからかうように見つめてきた。あれはどう好意的に見ても、困っている人間を嘲う者の目だ。紅葉は比較的ヒノミヤに同情的ではあったが、それでもあまり関わり合いになりたくはないと顔に出ていた。
 とは言え、ヒノミヤが皆本に微塵の情も抱いていない、というのは嘘になる。それは憐憫といった類のものではあるが、いきなり逃げ場のない船上に連れて来られれば、普通人である彼にとってはまさに裸同然で戦場に放り込まれたようなもの。圧倒的弱者に向ける情くらいはある。それでもヒノミヤの視界の中で皆本がどうこうなろうと、助けに入るかは分からないが。
「――ヒノミヤだ」
「え?」
 呟くように告げた声に返されたのは、きょとんとした気の抜けたもの。ヒノミヤは然程の意味もなく後ろ頭を掻き、足を止めて振り返った。つられて、皆本の足も止まる。
 改めて見ても、どこにでもいるような凡庸な男だ。兵部がそんな男を拉致してきたのは、彼が女王と呼ばれる少女に連なる者であるからか。
 そう遠くはない未来で、超能力者の統率者となる女王。この船は、彼女のための玉座でもある。
 しかしそうは聞かされても、ヒノミヤにはいまいちピンとこない。わかるのはその存在を兵部や、真木達幹部が重要視している点だ。
「アンディ・ヒノミヤだ。ヒノミヤでいい」
 不機嫌に名乗れば、意図を察したか皆本が慌てて姿勢を正した。生真面目な性格がよく現れている行動だ。無意識に過ぎないだろうが、面倒臭いとも思う。敵組織の人間に対して、どうして畏まる必要があるのか。
「皆本光一だ。よろしく……というのは変か」
 持ち上がりかけた手は、握手を求めようとしたのか。
 アンディは失苦笑を浮かばせた皆本の右手を一瞥し、小さく鼻を鳴らすと止めていた歩みを再開させた。遅れて、皆本が続く。
「随分落ち着いてるみたいだな?」
 皆本から振られる会話がないと判断し、ヒノミヤが先に口を開いた。ただ黙って歩き続けるのも退屈に感じたからだ。
 ヒノミヤの問いに、皆本は苦笑で応える。
「外との連絡手段も絶たれたし、丸腰なんだ。今は大人しくしておく方が得策だと思ってるよ」
「いやまあ、そりゃそうなんだろうけどよ」
 僅かに感じてしまう、違和感のようなもの。皆本には焦りがなければ足掻こうとする気概も見えない。ただ、少しでも多くの情報を仕入れようと、視線だけはつぶさに船内を観察している。
 感情を理性で留めているのか。多少のストレスは感じていそうな状況であるのに、その気配は見られない。よほどの精神力の持ち主か。
(日本のエージェントってのは皆こうなのか?)
 胸裏に疑念を吐き出して、それを否定する。恐らくはこの男が特別であるだけだろう。だがそれは脅威になりえない。だからヒノミヤを付けているとはいえ、行動に制限がない。
 それとも、パンドラの一員として、同時にヒノミヤの行動も監視しているのだろうか。厄介者同士が組み合わされたとでもいうべきか。
「ったく、兵部の考えることはわけわかんねぇな」
 独り言よりも、大きな声で。
 皆本の答えを期待していたわけではないが、何か反応が見られればそれでよし、と思っていたのだが。皆本が見せたのは、ヒノミヤが想像していたものとは違う、憎らしそうで、それでいて悔しそうな表情だった。
 そこに宿された感情のわけを、ヒノミヤは知らない。


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