解き放たれる、無限の可能性

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  漆黒の守護者(自称)  

 ダンッ、と何かが壁に叩きつけられる音が、辺りに木霊した。
 息の詰まるような衝撃に、アンディは一体何が起きたのか、理解することは出来なかった。
 自分達はマフィアとの取引後――裏切り者を掃除し終えた後、拠点であるカタストロフィ号に戻ってきていた。しかし船内へと足を踏み入れた瞬間、アンディの身体は冷たい壁に叩きつけられていた。
(バレた――!?)
 そんな、血の気の引くような考えが過ぎる。
 やはり自分はただ試されていただけであり、仲間として歓迎していると見せ掛け油断を誘っていたのか。
 しかし、息苦しさに苦悶するアンディを余所に、共にいた真木や紅葉、葉の三人はそれもまた日常の風景であるかのように、軽く息を吐いただけでその場から離れていこうとする。
「えっ、ま――」
 待て、と呼び止めて、どうしたかったのか。
 敵の数が増えて不利となるのは己の方であるのに、余程混乱しているらしい。
 それも致し方のないことか。
 もらったばかりのネックレスのチェーンを首に食い込ませるように締め付けてくる人間が、あまりにも信じられなくて。どうして、なぜ、と疑問ばかりが去来する。
「っぅ、ぐ……っ」
 首を締め上げるその手を掴んでも、どれだけの力を込められているのか、ビクともしない。
 けれど。
「その辺にしておけ」
 抑揚もない淡々とした声が響くと、あっさりと解放される。急に流れ込んでくる酸素に咳き込み、崩れかける身体を壁に預けて、アンディは状況を把握しようとする。
 この場に残されたのは、三人。
 兵部と、アンディと、もう一人――。
 几帳面に着込まれたスーツに、首元まできっちりと締められたネクタイ。不快そうに歪んだ唇を引き結んだその顔は、やはり生真面目さを窺わせながらもどこか翳を滲ませていた。
「――……誰、だ?」
 アンディはその人物を、書類上でならば知っている。これで視力矯正の為の眼鏡を掛けていれば瓜二つとなる。しかし、<彼>にそんな瓜二つとなる人物がいることなど、アンディは知らない。
 だから、疑問はそのまま言葉となり、掠れた声として落とされた。
 静寂に響いた声に目の前の男は不服そうに鼻を鳴らし、アンディへの敵意はそのままに、だが一分の興味も削ぎ落として、兵部の前に跪いた。
「お怪我はございませんか、主」
「僕を誰だと思っている」
 恭しい手つきで兵部の右手を取り、そっと撫で擦る男に兵部は煩わしくその手を振り払う。触れられることすら厭っている、あまりにも素気無い態度であるのに、男はそれすら恍惚と――崇敬の念を込めて兵部を見つめていた。
(なん……なんだ?)
 第三者であるアンディから見てもそれは異常な光景であるはずなのに、当たり前のように二人は繰り広げる。そう言えば三人の幹部も、男の登場に何も告げなかった。
 唖然と二人を眺めながら、アンディは締められた首を撫でる。その時に感じた、濡れた感触にぼんやりと指を見下ろせば、指先が赤く濡れていた。鎖で切れたのか、と考えていれば不意に強い視線を感じ、アンディは顔を上げた。
 見れば兵部が真っ直ぐにこちらを見つめており、たじろぐ。
 たじろいだアンディに兵部は緩く唇を持ち上げ、跪いたままの男を見下ろした。男は、軽く瞼を伏せて俯いた。
「怪我しちゃったみたいだぜ?」
 アンディを心配するでもなく、男の過失を責めるでもなく、おかしそうに呟いた兵部に、アンディの顔が険しさを孕む。注意深く、観察するように二人を眺めて、俯けていた顔を勢いよく持ち上げた男に、アンディは軽く目を瞠った。
 この短時間でも、彼の兵部に対する崇拝は気味が悪いほどに理解出来た。だからこそ、縋り付くとも反抗的とも見れる態度は、意外なものだった。
「申し訳ありません。しかしっ! しかしこのようなどこの馬の骨とも分からぬ輩が主の手を煩わせていると思うと居ても立ってもいられずっ――! あまつさえ、あまつさえ主が手ずから贈り物をされたと聞き、そのままその首、縊り離してしまいたい衝動が――っ」
 堪らずにアンディの頬を引き攣らせる言葉の羅列が、不意に途切れる。同時に聞こえてきた鈍い音に、男の言葉に遠くへ飛ばしていた意識を引き戻すと、跪いていたはずの男の身体が床に倒れ伏していた。
 トン、と鳴らされた靴音に、兵部が彼を蹴り倒したのだ、と理解する。
「うるさい、喚くな。耳障りだ」
 態度のみならず、言葉までも容赦がない。
 少なくとも、兵部はこの船内に居る者達には好意的に接していた。ぞんざいにあしらわれている者など、見掛けもしなかった。
 だが、この男に対する態度は、一体何なのだろうか。
 その瞳は先程、裏切り者へと向けていたように仄暗く、冷ややかな氷のようで、しかし唇に浮かべられた薄い笑みは愉悦すら感じているように、愉しげだ。――非情な、微笑。
 そしてそんな扱いを受けているにも関わらず、男の兵部に対する崇敬は薄れることなどなく、むしろ被虐的な欲求すら窺わせて、熱を帯びる。
(――異常、つうか……変態……)
 過ぎった言葉は胸中に洩らしたはずなのに、兵部からは愉しげな笑みを向けられ、男からは睨まれる。
(……とばっちりじゃねぇか。思いきり)
 兵部は明らかに男の反応を知っていて、楽しんでいる。兵部がアンディへと意識を向けるたびに、男の視線は敵意を強める。
「いつまで寝ている気だ」
 冷たく蔑む声に、男が静かに立ち上がる。
 そうして傍に控えた男の身体を、兵部は今度はアンディへと突き飛ばした。迫る身体を、アンディは咄嗟に受け止めていた。だが触れた瞬間、男によって払われる。
 まるで汚らわしいものにでも触れたかのようなその態度に、さすがにアンディもそこまで人が出来ているわけではない。
 すぐさま離れようとした身体を、腕を強く握り締めて引き留めれば、きつく睨み据えられる。
「おいおい、なんつー態度だよ? わけわかんねえ嫉妬で人のこと怪我させといてその態度はないんじゃねぇの?」
「フン、貴様が鈍かっただけの話だろう。主なら避けた上で僕に蹴りのひとつやふたつは入れて下さる」
「…………しかも真性」
「大体どうして貴様が主とお揃いのものを身に付けているんだ。まったくもって似合っていない。貴様には犬の首輪で十分だ」
「はぁ? てめぇが付けてろよ」
「ああ。主が付けて下さるのならそれでも構わないな。首輪をつけるなら当然リードも必要になるが。――ああっ、主と鎖で繋がれ、四つ足で船内を散歩させられるのもイイっ……。いつ誰に見つかるか分からない背徳の中、煌々しく照らされた廊下を生まれたままの姿で歩まされ、だがそんな恥辱に悦ぶ卑しい犬の身体からは歓喜の雫が滴り落ちる。廊下を汚してしまった浅ましい犬に向けられる蔑んだ冷ややかな眼差しは――」
「はーいはいそこまで。初級者には手加減しようぜ?」
「申し訳ございません、主。つい……」
「…………しかもかなりのマイペース……」
 いったいどこの官能の世界に迷い込んでしまったのか、次元の違いに目の前が眩む。
 兵部はよくこんな人間の相手をしていられるなと、感心するように見つめて、アンディは己の思い違いを知る。
 兵部の仄暗い瞳もまた欲を孕ませており、男が紡ぎ出した言葉が妄想の枠で収まるものではないと、気付く。
 その瞳と目があった瞬間、ぞくり、と背筋を撫で上げていくもの。
 弧を描いた唇が開かれていくのを、アンディはスローで流れる映像を見るように、眺めていた。
「キミが傷付けたものだったな。治してやれ」
「はっ?」
 思わずと零れ落ちていたのは、疑問を露にしたアンディの声だった。
 兵部を見ても彼の目は面白がるように男へと向けられ、その命令は男も意外であったのか、忌々しくアンディを睨んでいる。
「どうした? 僕の言うことが聞けないのか? やはりキミは――」
 静かに、淡々と、けれど人を蠱惑するような声音に、男の身体が大きく揺れ動いた。
 それまでとは違う、明確な殺意にも似た、ぎらついた目をする男に、アンディは知らず息を呑んでいた。
 ゆぅらり、と距離を縮め、顔を近づけてくる男にアンディはハッと我に返り、慌ててその身体を押し返す。けれど首を締め上げられていたときと同様、男の身体はアンディの抵抗をものともしない。
「な、にする気だっ。離れろ、気色の悪い!」
「黙れ。僕を罵っていいのは主だけだ」
「意味わかんねぇって! つーか、傷を治すってどうすんだよっ」
 吐息すらも聞こえてきそうな近距離で、動きを止めた男にほっと安堵する。
 間近で見つめる男の瞳は、兵部と同じように仄暗く、淀んだ色を見せる。
「貴様の国にはないのか」
 鼻で笑うように告げられて、アンディの片眉が不快に大きく跳ねた。睨むように見つめれば、ふっと、男の口許に笑みが浮かんだ。
 それは、慈愛すら感じさせる、穏やかで柔らかな笑み。
 その笑みに、アンディの意識は奪われていた。
「――この程度の傷、舐めていれば治る」
「それ、ただの迷信……っ」
 吐いた悪態の語尾が、首筋に這うあたたかな舌に吐息となって消える。
 犬猫がミルクを舐めるように、音を立てて血が啜られる。裂けた皮膚を舐る舌にひりひりと痛みが走り、しかし僅かとも動かせない身体に、アンディはようやく、それが第三者からの妨害のせいであったことに気が付いた。
 そうしてその第三者たる首謀者に目を向ければ、正解を与えるような笑みが、投げられた。
「彼はただの普通人だ。キミをどうこう出来るほどの力はない」
「ノー、マル……、っ」
 アンディが呟きを洩らした瞬間、皮膚に歯が食い込んだ。たまらず息を呑めば、首筋を吐息が撫でていく。
 ここは、パンドラは、普通人と対立し、普通人からの超能力者解放を謳った組織ではないのか。
 そう考えを過ぎらせたアンディの胸裏を読んだように、兵部は微かに苦笑を見せた。
「彼は少々特殊でね。……ああ、その性癖は随分特殊なんだけど」
「んなことまで、聞いてねぇって」
「僕を唯一至上とするくせに、たまに僕の言うことすら聞かないんだよ」
「しかしそれも全ては主の為。僕に振り向いて下さるのなら、従順たる僕でありましょう。僕は、貴方の犬です」
 それは恍惚と、愉悦を孕ませ、僅かな悲愴を生み出しながらも一途なまでに渇望し、直向に縋り付き哀願する、憐れさすらも抱かせる、声――
「って、人の首元ではぁはぁすんじゃねぇ! 気色悪いんだよっ。見ろよこの鳥肌っ!」
 震えるその身体は叶わぬ願いに憂いを見せているのかと、同情しかけたのも束の間。
 生温かく、荒い息遣いに、熱を上げた身体に、アンディの身体を悪寒が駆け抜けた。
 男の耳元で、悲鳴混じりの罵声を上げたアンディに、男が白けた目を向ける。――それはアンディこそが浮かべたい表情だっただろう。
「誰がどこぞの馬の骨とも分からぬ貴様なんぞに興奮するか、阿呆が」
「阿呆はてめぇだろうが、この変態っ」
 我慢ならず吐き棄てたアンディに、何故か男は哀れみに満ちた目を、向けた。
「お前――、つい今し方僕が言った言葉を忘れたのか」
 同情に満ち満ちたその声に、表情に、アンディは自分の中で何かがブチッと音を立てて切れるのが分かった。
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