解き放たれる、無限の可能性

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  黒の思惑  

 豪華客船、のその見た目を裏切ることもなく、カタストロフィ号は華やかな雰囲気に満ち溢れている。
 これが任務ではなくプライベート旅行であれば少しは楽しめそうなものを、と、アンディは前髪から滴る水滴を煩わしく払った。任務であるからこそ、こんな豪華客船に乗り込めてもいるのだろうが。
(どうなってんだかね、まったく……)
 自分は犯罪組織に潜入してるはずなのに、ここ一週間ほど、うんざりするような長閑さを見せつけられている。
 船内で見かけるどの姿も、その辺で日常を謳歌する一般人と変わりなく、だがこの船にいるということはワケありなのだろう、と注意深く観察しても、そんな様子は一切見られない。
 特に食えないのが、ボスである兵部京介と、あの時施設に囚われていたユウギリという少女に、兵部の腹心である三人の幹部。
 真木司郎、加納紅葉、藤浦葉。
 その中でも自分を歓迎していないのだろう、ということが態度でも明らかなのが、現在アンディを私室へと案内している、真木だろう。
 兵部の腹心で、右腕のように近しい存在。
 警戒を持たれても、無理はないことか。
「これでも着ていろ」
 兵部にプールへと蹴り落とされ、アンディの唯一の私服といえるものはずぶ濡れとなってしまった。張本人である兵部はそのことに関して悪びれることもなく――紅葉に気を取られていたという疚しさのせいで下手に追求もできず、渋る真木に服を貸すことを命じる兵部をただ眺めるしか出来なかった。何故敵意も明らかな彼が選ばれたのかは、他に似た体格の者がいなかったこともあるだろう。
「ありがとうございます」
 差し出されたそれは、今真木も着ているものと揃いのスーツだ。それに気付いたとき、他の服は……、と言いかけて、口篭もる。
 真木が、観察するようにアンディを見つめていた。
「……何すか」
 つい、不躾な口調になってしまったことに顔を歪めるも、真木の表情に変化はなく、軽く息を吐き出す。
 どうにも居心地が悪い。
 素性に勘付かれているわけではないだろうが、後ろめたさもあるせいか、居た堪れなくもなってくる。果たして本当に、自分に潜入捜査などと向いているのだろうか。――いや、彼らがあまりにも<普通>過ぎて、調子が狂っているだけだ。
「おい」
 己の思考に沈みかけていたアンディの意識を、真木の呼びかけに引き戻される。
 それにアンディは我に返り、途端に身を襲った寒気に身体を震わせて、自分を繕う。
「あ、ああ。すまない。すぐに着替えて――」
 そこまでを言って、今度はアンディを浮遊感が襲った。
 しかしその足が地に着かない不安定さも一瞬の出来事であり、気付けば身体は宙に放り投げられ、柔らかなベッドに受け止められていた。
「なっ、なにしやがる……!」
 バネのような反射で身体を起こして、アンディは真木を睨み付けた。だがそれ以上の眼光で射られ、身体が竦む。
 アンディに覆い被さるようにベッドに乗り上げてきた男は、睨み上げてくるアンディをただ見遣り、唐突に肌に張り付いた服をまくり上げた。
「ちょっ、なにしてっ」
「お前がいつまでも着替えようとはしないのでな」
「だっ、だからって男に脱がされても嬉しかねぇっての!」
 暴れる身体は簡単に押さえつけられ、掴んでくる真木の腕はびくともしない。
 眉間に皺を寄せて渋味の増した顔を唖然と見上げながらも、焦るような警戒が、アンディを急き立てていた。
 素肌に節張った手のひらを押し付けられ、知らず身体が跳ねる。
「大人しくしていろ」
 厚みのあるその重低音に、アンディの抵抗が弱まった。
(くそっ、変なこと思い出させんじゃねぇ……!)
 その間にも真木の手はアンディから服を奪い、肌を晒け出させる。たまらず、脱がされる瞬間に目を瞑り顔を逸らしていたアンディの視線が、身体の上で洩らされた感嘆に真木を見上げる。
「ほう……。鍛えてはいるようだな」
 感心するようでいて、何かを見透かした口振りにカッと頬に血が上る。
 おかしそうに持ち上がった唇に、アンディはふん、と鼻を鳴らすと興味なげに顔を背けた。
「悪いかよ? 刑務所ん中じゃ、退屈だったんでね」
 おまけにマネーファイトもどきのようなものに駆り出されれば、身体がいくつあっても足りない。
 ――当然それだけが理由ではないが、話す必要も義理もない。
 アンディがこっそりと溜息を吐き出すと、見計らったようにそれまで動きを止めていた真木の手が動き出した。
 肌を撫ぜ、検分するように指と視線が上半身を這う。
「そうだな。……そこで、お前は少佐と出逢った」
「っ、その少佐っての、なに? あだ名か何か? なんでアンタらみたいな大の大人があんなガキに従ってるわけ」
 ぞくりと込み上げてくる衝動を耐えながら、アンディは切れ切れに言葉を紡ぎ出す。
 腹を、胸を、首筋を、となぞっていた指が、その言葉に不意にアンディの首に絡み付いた。
 息を呑み、目を見開かせたアンディに、真木は低く笑う。
「それを知ってどうする?」
 言い逃れは許さないような、低い恫喝。
 首に巻き付いたてのひらに力は込められていないはずなのに、何故か息苦しさを感じ始める。浅く胸を上下にさせて呼吸を乱すアンディに、真木の眉間に刻まれていた皺が深まり、手が、身体が離れていく。
 無意識の圧迫が消え去れば、アンディの呼吸も落ち着きを取り戻していた。
 知らぬうちに首を撫でる手に気付いて、脱力する。
「いつまで人のベッドで寝ている気だ。さっさと起きろ」
 飛んできた叱責に胡乱に真木を眺め、アンディは緩慢に身体を起こした。
「アンタが押し倒したんじゃねぇか」
 それは事実であったはずなのに、真木からの無言の圧力にアンディは「へいへい」と不満な様子も隠さずに立ち上がり、のんびりと着替えを始めた。

□ ■ □

「火遊びもほどほどにしておけよ、真木」
 アンディに関する報告を終えた後、面白がるように兵部から告げられたそれに、真木はただ無言の応えを返した。
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