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  触れられない距離  

 すっかりと、馴染んだ光景になってしまった。
 見事な秋晴れの、夏の暑ささえ思い出させるような陽光が部屋に差し込む中で、兵部がリビングのソファに深く腰掛けている。休日であるからか服は見慣れた黒の学生服で、退屈そうに本に目を落とした姿はどこか物憂げにも見える。
 だからといって、皆本が兵部の滞在を許容する理由とはなり得ないが。それでもせっかくの休日に無駄な体力を使いたくもなくて、溜まった家事に精を出す傍ら、兵部にはいっさい触れずにいた。
 兵部も放置されることを何とも思っていないのか、余計な声をかけてくることもない。だったらなぜわざわざやってきたのか――、と正論をぶつけたくもなるが。
 リビングのソファに座る兵部の姿は、家のどこにいても視界に入ってくる。当たり前のように存在するその黒い異物を、皆本は意識せずにはいられない。
 気にしていないつもりでも、意識は常に兵部を向いている。だのに兵部は自分がどこにいるのかも、傍らに誰がいるのかも頓着せずに平然としている。
 周囲を気にしないなら、どうしてここに来たんだ。
 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、皆本は踵を返すとキッチンにこもった。そこならば兵部の姿は見えない。きっと意識することもない。
 そう思うのに、リビングから伝わってくる気配に神経を尖らせてしまう。
 皆本の前で頻繁に見せる人を食ったような表情でもなく、見下したそれでもなく、無表情さは兵部の端正な顔立ちを際立たせる。冷たく、鋭利で、他人を寄せ付けない排他的な存在。
 だが誰よりも仲間思いで、一度懐に入れた人間には極端に甘く、庇護対象と定めた者のためなら自己犠牲も厭わない――熱い男だ。最近は、外見相応の精神年齢さで表情をよく変える。柔らかくなったというべきか、一段と子供っぽくなったというべきか。
 けれどその本質――老獪さは変わらない。
 軽い溜息を胸の中でだけ吐き出して、皆本は冷蔵庫の中身を確認した。午後には買い出しに出なければならないだろう。子供たちは出かけているから、今ある余った食材でも昼食には足りるはずだ。
 皆本は一応、念のため、確認しておこうと自分に言い聞かせ、リビングに足を向けた。
 兵部が気だるげな雰囲気のまま、決してだらしないとは思えない仕草で本をめくる。普段はそうと感じさせないが、兵部の所作の端々に育ちの良さが窺える。
 洗練された所作は自然と周囲の目を引きつける。見られていることを常に意識した、魅せる仕草を取っているからだ。ページをめくる、白く長い指。今は伏し目がちな切れ長の瞳が、ゆったりと瞬きを繰り返す。緩く引き結ばれていた整った唇が静かに開いて、小さな欠伸を零した。
「眠いなら自分のところに戻って寝たらどうだ」
 声をかけてしまってから、皆本は我に返った。だが声をかけてしまったものは仕方ない。意を決してソファに座る兵部へと近付く。
 かけられた声に兵部が今気付いたと言わんばかりの態度で本から顔を上げる。じっと見つめてくる視線に、読書を邪魔した自覚のある皆本はついたじろいでしまう。
「ああ……。ここが居心地いいものだからね。本当に眠いわけじゃないよ」
 そう言いながらも兵部はもう一度欠伸を洩らし、本を閉じた。
「勝手に人の家に不法侵入したうえで勝手に安らぐな」
「いいじゃないか。いい家だって褒めてるんだし」
「お前に褒められても嬉かねーよ。だいたい、犯罪者が安らげる家ってなんだよ」
 皆本の零した愚痴に、一拍の間をおいて兵部が苦笑する。どこに笑う要素があったのかわからない皆本はむっと顔を顰め、深く息を吐き出した。
 口で言い争いをしても勝てないことは悲しいかな、わかりきっている。
 面白がって見上げてくる兵部を見下ろして、皆本はもう一度溜息を吐いた。不愉快げに寄せられた眉に、少しばかり溜飲を下げる。
「お前、昼は?」
「食べるよ」
 あっさりと、ごく自然に、当然のように告げられた答えに、呆れ果てる皆本は何も言わない。溜息すら出ようとしなかった。
「ああそう。メニューにケチつけるなら叩き出すからな」
 ただそれだけを言い残して、皆本はキッチンへと戻った。

「……来ることが分かってれば材料買い足せたのにな」
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