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  青春謳歌  

 部活が始まれば熱心に練習する生徒たちの姿があるはずのテニスコートは、今日ばかりは様子が違っていた。四面あるコートの内、手前三面では練習に励む者、球拾いをする者、自己のトレーニングを行う者など日常の練習風景が広がっている。
 しかし一番奥の一面では、ジャケットやセーターは脱いでいるものの、シャツの袖をまくっただけのラフな姿の二人が軽い打ち合いを続けていた。
 相手から点を取るためのものではなく、肩慣らし――ラリーを続けるための応酬をしながら、皆本は授業が終わり続々と集まり始める生徒たちの姿に辟易としていた。
 口々に囁かれているのは兵部への賛辞と、皆本の素性を探ろうとする声。今更になってテニスコートまで足を運んでしまったことを後悔するが、「やっぱりやめた」と言い出せる雰囲気でもない。
「テニスの経験はあるのかい?」
「ああ。コメリカにいた頃――」
 大学のサークルで少し、と続けようとした言葉を、皆本は周囲のざわめきを聞き取って呑み込む。しかしすでに聞かれてしまった言葉を取り消すことはできない。新任の教師か、それともOBかと、皆本の経歴を憶測するギャラリーの声が聞こえてくる。
 皆本は自らの失言に小さく唸り、ボールを打ち返した。つい、力んでしまったのは偶然だ。
 事も無げに打ち返してきた兵部のボールを真上からラケットで叩き落として、皆本は頭上に高く打ち上げた。落下してきたボールをラケットで受け止め、兵部へと軽く返ち返す。
 肩慣らしは十分だった。兵部も異論はないようで、サービスラインまで移動する。
「それじゃ、1セット、6ゲーム先取――ということで」
「ああ。それでいい」
 兵部が足下で軽くボールをバウンドさせる。ポン、ポン、とボールの弾む音が聞こえるほど、周囲は静寂に包まれていた。真面目に部活を行っていたはずの部員たちでさえ、手を止めてこれから始まる試合に目を向けていた。
 審判は部員が申し出てくれていたが、兵部がそこまで邪魔をすることはできないと断っていた。……それでも部員のほぼ全員が手を止めている状況では、同じようなものだっただろうが。
「行くよ」
 兵部が宣言して、トスを上げる。高く上がったボールを追い、兵部が膝や体のバネを使ってジャンプする。
 ラケットが振り下ろされ、飛んできた黄色い矢はコーナーに深く刺さり皆本の脇を過ぎていった。背後でガシャンッ、とフェンスが音を立てる。
「フィフティーン・ラブ」
 感慨もなく平坦な声で告げられるカウントに、皆本は自分の唇が引きつった笑みを浮かべていることに気付いた。ネットを挟んだ向こう側で、兵部がしたり顔で笑っている。
 ギャラリーが贈る賞賛の声に兵部がにこやかに応え、さらに黄色い声がコートの周りで響く。
 サーブ位置を変える兵部に、皆本も大きく深呼吸すると場所を移動し強くグリップを握りしめた。低く腰を落として、構える。皆本の真剣さが兵部にも伝わったのか、笑みを浮かべていた顔を引き締めて二度目のサーブが放たれた。
「くっ」
 今度は皆本も反応することができた。しかし重い打球に思わず声が洩れる。
 皆本の正面――がら空きになったコートの半面にストレートで返す。最深部に突き刺したはずだったが、甘かったのかボールはサービスライン手前に落ちた。すぐに追いついた兵部に拾われ返ってきたボールを、ネット際に詰めていた皆本がボレーでネット際に落とす。
「フィフティーン・オール」
 その瞬間、コートが静まり一気に沸き上がる。
「……へぇ。やるね」
「ふん。そう簡単にポイントを取らせてたまるか」
 皆本は強気に返すが、本来ならリターンエースを取ってやるつもりだったのだ。満足のいくポイントではない。
 ネットから離れる際、視界に見慣れた顔が飛び込んできて、皆本は彼女たちに向かい小さく肩を竦めた。

 1ゲーム目を兵部にキープされた2ゲーム目。皆本のサーブが兵部のコートに突き刺さる。
「お前がテニスもできるとは意外だったな」
「そう? けっこう僕、なんでもできるぜ?」
「……みたいだな」
 長いラリーを繰り返しながら会話をし、皆本はふいに兵部が打ち上げたチャンスボールをスマッシュで返した。
「30−15」
 審判の声と重なるように、ギャラリーが選手二人に声援を送る。部員からの申し出で、二人が試合に集中できるようにとこのゲームから審判がついた。
「そういえばさあ」
 サーブに備えてボールをバウンドさせる皆本に、兵部が思い出したように声をかけた。だがそれ以降続かない台詞に、皆本はトスを上げ、ジャンプする。
「体の方はもういいのかい」
 次の瞬間、ボールがネットを揺らした。
「フォ、フォルト!」
 ここにきて初めて見せた明らかなミスに、周囲が軽くどよめく。皆本は自分のコートに転がるボールを見て、そして若干赤らんだ顔で兵部を睨みつけた。
 兵部は悪びれもせず、面白がる顔で肩を竦めた。
「心配してあげただけだろう?」
「今いう話かっ!」
 皆本と兵部のやりとりに、集まったギャラリーから皆本の体調を気にかける声が洩れる。事情を話すわけにもいかない居たたまれなさに皆本は眉間に皺を寄せ、兵部に怒りをぶつけるようにサーブを放った。
 サービスエースを取れても、嬉しさはあまり湧かなかった。

「ゲームセット! ウォンバイ兵部! 6−4」
 あと一歩というところで届かなかったボールを目の前で見送って、審判が勝敗を響かせる。両者の健闘に惜しみない拍手と声援が贈られ、皆本はそれらを聞きながらコートに座り込んだ。
 本来なら互いに握手を交わしているところだが、兵部もそんな形式は気にせずにネットを越えてやってきた。傍らに立った兵部が、面白がる顔で皆本を見下ろす。
「なかなか奮闘したんじゃないかい?」
「いちいちムカつく言い方しかできないのかよ、お前は」
「え、なに? まさか僕に本気で勝つ気でいたとか?」
「体調が万全ならもうちょっと善戦した」
 心底バカにした言い方に、皆本がムッとした顔で下から睨めつける。兵部は先ほどまでコートを走り回っていたとは思えない涼しげな表情でそれを見返し、おかしそうに口の端を持ち上げた。
 皆本がそれに文句を言おうとして、誰かが駆け寄って来る気配に口を閉ざす。
「おっ、お疲れ様です! 生徒会長様っ」
「ああ。ラケットとコートを貸してくれてありがとう。部活中に邪魔したね」
「いえっ! 素晴らしい試合でした! それであの、もしよろしければ今度ご指導をお願いできませんかっ」
「そう? 考えておくよ」
 兵部とテニス部の部長らしき女子生徒との会話を聞くともなしに聞きながら、皆本は立ち上がり服についた砂を払った。
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