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  白昼の残夢  

 どれだけ手を伸ばしても、その手が掴めるのは虚空だけだ。
 伸ばした手の先で愉快そうに笑いを零す兵部を皆本は睨むように見つめ、腕を下ろした。
 そして何も掴めなかった手のひらを握り返して、踵を返す。
 捕まえようとしても、その姿は簡単に逃げていく。
 けれど。
「待てよ」
 皆本が引き下がれば、その姿は簡単に追いかけてくる。
 トン、と身軽に皆本のもとへと降り立った兵部に、肩を掴まれ振り向かされる。皆本が焦がれて止まない縮まらない距離が、兵部のあっさりとした行動によって腕一本、伸ばせば届く距離まで縮まる。
 胸の底から沸騰するように沸き立つ感情を抑え込んで、皆本は肩を掴む兵部の手を振り払った。
 乾いた音が周囲に散る。
 驚くように僅かに見開いた目を、兵部が面白がるように細めた。緩く持ち上げられた唇に、感情が煽られる。
「随分、諦めが早いじゃないか」
「お前なんかのために使う無駄な時間はない」
 そう言い放って踵を返そうとし、皆本は背中にかたい感触を覚えた。いつの間にか景色が変わっている。皆本の背中にあったはずの入り口が、今は皆本の正面にある。そして眼前には、兵部がいる。
 たまらず悔しさに顔を歪めた皆本を、兵部が楽しそうに眺める。しかしそれをすぐに不満げなものへと変えて、強く顎を掴まれた。痛みに顔を顰めた皆本のことなど気にもせず、兵部が迫ってくる。
「とんだ負け惜しみだな。くだらない」
「くだらなくて、結構だっ。僕はお前を楽しませる気なんかさらさらない!」
 兵部を睨みつけ、皆本は声を荒げた。だが兵部はほんの一瞬、不快そうに眉を動かしただけで堪えた様子はない。
 一方的に皆本だけが感情を露わにした一人相撲のような状況に、皆本はぐっと奥歯をきつく噛むと兵部から視線を逸らした。
「……何のつもりなんだ、お前は」
 皆本が小さく呟く。兵部に気かせるつもりがあったわけではないが、僅かに顎を掴む力が弱まったことに気付いて、皆本はその手を叩き落とした。
「僕をからかうのもいい加減にしろっ!」
 思った以上の大声が出て、皆本はたじろいだ。しかし動揺を抑えるようにきつく手のひらを握り、兵部を睨み据える。
 兵部の顔に浮かんだ感情はない。
 だからこそ何を考えているのかわからず、空恐ろしく皆本は感じてしまう。
(いつもそうだ。そうやってお前は感情を見せない……。本音を語らない。僕だけが振り回されている)
 兵部の前では自分の感情を偽ることができない。宥めすかせて誤魔化そうとしても、簡単に兵部に煽られてしまう。どうしてかわからないままに、心をひどくざわつかされる。
「お前は僕をどうしたいんだ」
 憎まれていることなどとうにわかりきったものだ。けれどそれだけでは、兵部の皆本に対する行動原理は片付けられない。皆本が捕まえようとすれば逃げていく。だが皆本が伸ばした手を収めれば、兵部は近付いてくる。
 まるで天の邪鬼。
 しかしそれは皆本にも言えることだ。皆本は兵部を嫌っている。すべてを見透かしたような態度も、掴み所のない飄然とした所作も、決して間違ったことを言っているわけではない言動も、何もかもが皆本の癇に障る。それでも逃げていく兵部を皆本は追い、近付いてくる姿に逃げる。
 自分でも矛盾していると自覚する行動は、理解不能――
 皆本は解けない感情のわだかまりに小さく呻くと、俯きかけていた顔を持ち上げた。何も反応を返さない兵部の様子を見たかった。
 どうせ小馬鹿にするか、呆れたように自分を見ているのだろうと皆本は考えていたが、どれも違っていた。深く考え込むように皆本ではなく虚空を睨む兵部の姿に、皆本はかける言葉を失う。
 皆本の視線に気付いた兵部が焦点を皆本に合わせ、まるで自嘲でもするかのように口の端を持ち上げた。一歩詰め寄られて、皆本が無意識に後退する。しかし最初から追いつめられていた皆本にさがれる余裕はなく、二人の距離は簡単に消えていた。
「僕がどうしたいのか、知りたいんだろう?」
「それがどうして近付く必要があるっ……」
 皆本が嫌がって顔を背けると、顎を掴んで振り向かされる。その頃には兵部は、いつも通りの食えない笑みを浮かべていた。
 悔しさを堪えて睨みつける皆本に、兵部がさらに体を密着させてくる。
「僕も自分がどうしたいのか、知りたい」
「はぁ?」
 零れた囁きに皆本は怪訝な声を上げて兵部を見つめた。問い詰めようとした言葉は、兵部のいつになく真剣な眼差しを前に喉に張りついて出てこない。
 言葉がはばかられる空気に皆本が身じろぎもできずにいると、ふっと吐息を洩らした兵部が顔を動かした。その次の瞬間には、皆本の唇が何かに塞がれていた。それが兵部の唇であることを理解するのに、時間が必要だった。
「――んっ、ん!」
 咄嗟に皆本は兵部の体を押し返そうと両手を伸ばした。しかしうなじと腰に回った手に捕らわれ、逃げることができない。
 口腔に舌をねじ込まれたときには、皆本の体はかっと体温を上げていた。信じられないと思考が働くことを放棄し、兵部の腕の中でただただ硬直する。
 舌を絡め取る蠢きに我に返り、皆本が遅蒔きの抵抗を始める。だが抑え込むように体が密着させられ、脚の間のかたい腿に擦り上げられて皆本はびくんと体を震わせた。
「……ぅ、ん……っ」
 キスをされているだけなのに――いや、その事実にすら目眩が起きて、体にうまく力が入らない。形だけ拒む両手が、兵部によってそれぞれ背中へと捻られる。
 唇が離れた瞬間、二人の口からは熱い吐息が滴った。息を吸い込んだ皆本が抵抗を思い出す前に、再び兵部に塞がれる。当たり前のように差し込まれた舌が、皆本の口腔を蹂躙する。
 体を捩って拒み、兵部の体を押し退けようとして皆本は自分の体の異変に気付いた。背中に捻られた両腕が、手すり越しの向こう側で拘束されていた。腕を引き抜こうとしても、手すりが邪魔で身動きが取れない。
 両腕を縛るそれが自分のネクタイだと知ると、皆本はきつく兵部を睨みつける以外にできることが浮かばなかった。
「お前が僕を煽ったんだろ」
「ひ、とのせいにするなっ。今すぐ僕を解放しろっ」
「嫌だね。――……本音で語らないのは、お前も同じだろう?」
 皆本の耳元で兵部が責めるような口振りで囁く。
 頬を撫でる指にぞくっと体に戦慄が走り、皆本は小さく息を呑むと瞳を揺らした。
 呆然と立ち尽くす皆本に細く息を吐き、兵部の手がシャツのボタンをひとつずつ外し始める。それに気付いて皆本が体を捩るが、両手の使えない抵抗は無意味だった。
「お前の口から出るのは全部建前だ」
「違う。勝手なことを言うな」
「違わない。だからお前は僕に言葉でも勝てない。それは口にするものがお前自身の言葉じゃないからだ」
「っ」
「そんなに僕に心を晒すのが嫌か? こんなにも簡単に、あっさりと僕の前に暴かれてしまうのに」
 そう言って兵部ははだけさせた皆本の胸に手のひらを押し当てた。ひやりとした兵部の手のひらに、皆本の体が小さく跳ね上がる。頬に熱が集中し始めて、逸り出す鼓動を自覚して皆本は狼狽する。
「やめろっ!」
「安心しろよ。透視しやしない」
 おかしそうに笑って手を離す兵部に、皆本は無意識に安堵していた。だがそうして心を読まれなかったことに安堵する自分を、疑問視する。
 自分は何を兵部に知られたくないのか。
 他人に心を暴かれることを拒むのは当然の心理であり、おかしなものではない。だがそれだけなのかと自問する思考に、皆本はすぐに答えを返せない。
「お前の本心なんかに興味はない。知りたくもない」
「ああそうかよ。だったら」
「でも僕のことを考えていないのは許せない」
 兵部は楽しげな笑みを顔に浮かべて呟くと、皆本のズボンのベルトに手をかけた。躊躇いもなくベルトを外し、ズボンを寛げていく指に皆本は盛大に狼狽えた。
 自分たち以外の人影はないとはいえ、現在地は外で頭上にはまだ太陽が輝いている。誰かが来ないという保証もない。
「やめろっ!」
「やめてください、お願いします――だろ?」
 耳元に囁きかけられ、ぞくっと体が戦慄いた。舌で耳の形をなぞるように舐めてくる兵部に、皆本は体を強張らせてきつく唇を噛んで堪え忍ぶ。
 その間にも兵部の手は皆本の体を撫で下ろし、下着の中へと指を忍ばせた。小さく息を弾ませ、体を跳ねさせた皆本を近距離で見つめながら、兵部がゆっくりと指を動かし始める。
 皆本のものを握り込んだ指が根本から先端へと撫で上げ、敏感な先端を爪の先で弄られると膝がガクガクと震えてくる。鋭い快感に腰が引け、逃げようとしても手すりに繋がれた体はどこにも逃げ場がない。まして兵部の手の中にはしっかりと皆本の弱みが握られていて、たとえ体が自由であったとしても逃げることはできなかっただろう。
「あっ、くぅ……っ、こんな、ところで――」
「こんなところ、じゃなかったらいいのかい? でも体はこんなところがいいみたいだぜ?」
 兵部の指に先端を擦られ、滲み出ていた先走りを塗り込められる。微かに聞こえてくる湿った卑猥な音に、皆本は小刻みに体を震わせるときつく引き結んだ唇から熱い息を洩らした。
 兵部に与えられる快感に体はゾクゾクと疼き、崩れそうになる膝に力を入れていることでさえやっとの状態だ。強張った体は敏感に刺激を感じ取って、兵部の手も皆本の脚も濡らしていく。
「皆本、口を開けろ」
 兵部に顎を掴んで上向かされ、皆本はそれを強く睨み返した。意地でも口を開けないでいると、兵部が楽しそうに笑う。皆本の反応が愉快でたまらないといった、底意地の悪い笑い方だ。
「自分の立場を理解してるのか?」
 そう囁いて、先端を強く爪で抉られた。グリグリと押し広げられる痛みに皆本がたまらずに呻き、その隙を逃さずに舌がねじ込まれる。舌を絡ませられ、流し込まれる兵部の唾液を嫌って振り解こうにも、皆本のものに絶えず与えられる刺激に体がままならない。
 皆本はふっと体の力が抜けると、兵部の傲慢な愛撫を深く味わい、酔っていた。絡め取られた舌を強く吸われ、思考が痺れるような口づけの余韻が薄れると皆本はハッと我に返り、抵抗を見せた。
「いい加減にしろっ」
「やだね」
 赤らんだ顔の皆本を楽しげに眺め、ふいに兵部が頭を下げた。熱い口腔に乳首が含まれ、舌に転がされる。ゾクゾクと疼く快感に、皆本は切なげに眉を寄せると背をしならせて喘ぎを洩らした。
 突き飛ばしてやりたいのに、ままならない体が恨めしい。体は兵部の愛撫を受け入れてすらいて、嫌なのに拒みきれない。
「はっ、ぁっ……、く、うぅ……っ」
 乳首を舌に舐られながら、反り返ったものを執拗に擦られる。皆本が感じるように上下から与えられる愛撫に、ただ翻弄される。高まり続ける体に嫌悪感と屈辱感を抱いても、兵部の齎す快楽に押し流されている事実は変わらない。
 それよりも高みを目指して自らねだってしまいそうで、自我を保ち続けることすら苦しい。
「嫌、だ……、やめろ」
 拒む声も弱々しく、小さい。あまり口を開いていればあられもない声を出してしまいそうで、思ったことを口にすることもできない。
 どうして自分がこんな辱めを受けなければならないのか。考えただけでも屈辱で頭が沸騰しそうになる。だがなによりも悔しいのは、それを拒みきれない自分自身――
 嫌なことに変わりはない。
 兵部が指を蠢かせるたびに響く卑猥な水音も、腰からゾクゾクとせり上がってくる快感も、皆本を追いつめるだけの甘い拷問なのに逃げ出せない。
「あっ――」
 きつく乳首に噛みつかれ、皆本は上擦った声を空に放った。下から強く見上げてくる視線と目を合わせると、兵部の唇が緩く持ち上がった。
「君がイくところが見たい」
「っ!」
 耳にした兵部の願望に、傲慢な懇願に、体に甘い戦慄が奔る。言われた内容など到底受け入れられるものではないのに、官能に疼く腰が静まらない。
 そのまま兵部の手に導かれるように体は絶頂を捉えて、皆本は熱い精を解き放った。
「よくできました」
 白く濁る意識の中に、兵部の声がするりと入り込んでくる。口惜しさに震えた皆本を兵部は嘲い、強張った頬を撫でた。
「もっと僕の――僕だけのことを考えろ。そうすればもっと気持ちのいいことをしてやる。僕なりにお前を可愛がってやろう」
「……お断り、だッ! 二度目はない!」
「くくっ。そんなだらしない格好で言われても説得力に欠けるぜ? ――まあいい。今度は君の口からイかせてくれって言わせてあげるよ」
「誰が言うか!」
 吼える皆本に楽しげな笑いを零して、兵部の姿がかき消える。同時に両手を縛る拘束が解けた。皆本はようやく自由を取り戻した両腕を軽く擦って、今の自分の格好を思い出し慌てて服を整えた。
「くそっ。何のつもりなんだ、あいつは……」
 呟きに返る応えなどなく、けれど兵部のおかしげな笑い顔が脳裏を掠めて、皆本はそれを追い出すように激しく首を振った。
 だが兵部が垣間見せた独占欲じみた囁きだけは、しばらくの間耳から離れそうになかった。

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