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  たとえばこのひとときが  

 不意に感じた寝苦しさに、呻くような声が零れる。その自分の声に意識が緩やかに浮上して、けれどまだ眠っていたいという欲求に無意識に持ち上げようとしていた瞼を意識して閉じる。
 だが、僅かでも起きてしまった意識の片隅で、小さな物音を拾い上げる。聞き慣れた指がキーの上を走るタイプ音に納得して、皆本はぱちりと目を見開かせた。
 何の変哲もない音だが、おかしい。
 そもそも自分が今どこにいるのかというのを暗闇に慣れ始めた目で思い出して、皆本は手探りで眼鏡を見つけると、身体を起こした。かけられていたタオルケットが落ち、肌が震える。
 軽く両腕を擦って部屋を見渡して、皆本はそっと、シャツを羽織りながら兵部に近付いた。音の発信源は、机に向かってパソコンを操作する兵部からだった。
 皆本が起きていることには気付いているだろうが、兵部は目の前の画面に集中しているのか振り向く気配を見せない。表示されるウィンドウを流れる文字の波を追いながら、兵部の指が滑らかに動く。
 皆本は兵部の肩越しに、ただそれを眺めていた。作業を中断させていいのか、知らない振りをしたほうがよかったのか、わからないのだ。
 どれだけ近付こうと寄り添おうと、皆本と兵部の間には明確な壁が立ちはだかっている。以前よりその壁は薄く、低くもなっただろう。見果てぬ壁の高さが、今は乗り越えられる高さに変わったような気もする。
 それでもどちらもその壁を壊さないし、乗り越えない。ひたすらに、馬鹿みたいに壁を睨み付けて勝手に消えるのを待ち続けている。臆病なのではない。怖いのではない。壁に阻まれながらも共に歩き続けていれば、いつか歩む道が繋がるのではないのかと、信じているのだ。
「――」
 区切りをつけるように兵部が息を吐き出し、椅子が軋んだ音を立てる。その物音に皆本は視線を下げて兵部を見つめる。兵部が振り仰ぐように見上げてきて、皆本は軽く首を傾げた。
「お前も眼鏡なんてかけるのか」
 意外さに思わずそう洩らした皆本に、兵部が吹き出すように小さく笑う。
「たまにはね。似合う?」
 細いフレームは兵部の美貌を損なわせることなく、どこか残っていたあどけなさを隠し、鋭利さを強めていた。
 だから、なのか、皆本は兵部の顔をあまり長く見つめることができなかった。
「……もしかしてろうが、っ!」
「それ以上言ったら殴るよ?」
「蹴ってから言うなよ、お前……」
 痛む臑を撫で、皆本は情けない声で訴える。ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした兵部が眼鏡を外して、皆本はただそれだけのことに安堵する。
 椅子を回して正面から向き合う兵部に腰を抱き寄せられて、皆本は慌てて机に手をついた。兵部に覆い被さるような体勢になってしまい、羞恥に頬が熱くなる。離れようとしても、がっちりと両腕で腰を捕えられてしまえば身動きも碌にできない。
 理由もわからない焦りだけが募る。
「なにっ……」
「惚れ直した?」
 顔を覗き込むように見つめながら訊かれ、皆本は言葉を詰まらせた。兵部の顔に、楽しげな笑みが広がった。
「ばっ、かなことを訊くなっ」
 否定して、皆本はどうにか兵部の腕から逃げようと身体を捩る。忘れていたわけではないが、今の自分がシャツ一枚の姿でしかないことを強く意識してしまう。
 皆本が恥ずかしがって必死に抵抗する姿を、兵部は笑みを浮かべて堪能していた。あまりにもあんまりな兵部の態度に、皆本はぐっと手のひらを握り唇を噛み締めると細く息を吐き出した。
 ゆっくりと気持ちを落ち着かせて、兵部を見下ろす。
「……離してくれ」
「何故?」
 言いながら尻を撫でられて、皆本はたまらず腰を逃がした。睨み付けるように兵部を見下ろしても、楽しげに笑う顔に毒気を抜かれてしまう。緩みそうになる気を堪え、だがそれも長続きはしない。
 このまま流されてしまいそうな自分が嫌で、皆本はそれを無理やり振り払う。
「寝直すんだよ。いったい今何時だと思っているんだ」
 兵部の視線が時計を探すように動き、すぐに皆本に戻る。
「どうせすぐ起きなきゃいけないんだから楽しいことしないかい?」
 楽しげに、探るような目つきで見上げられて、皆本は咄嗟に言葉を詰まらせると頬を赤らめた。狼狽えるように視線を彷徨わせ、しかしどこにも逃げ場はないと悟ると、兵部を睨むように見つめる。
「それは僕にとっても楽しいことなのか?」
「君の気分次第かな。もちろん、楽しませてあげられる自信はあるけど」
 そう宣言する言葉に偽りはなく、自信たっぷりに兵部が皆本を見つめる。安い挑発だとは皆本もわかっていたが、好奇心が頭を擡げる。どのように楽しませてくれるのか、期待に胸が疼き出す。
 それさえも兵部の狙いのうちなのだろう。椅子を軋ませた皆本に、兵部の浮かべていた笑みが深まった。
 仕返してやりたくなるような反抗心を、皆本は唇に乗せて兵部へとぶつける。貪りあうようなキスに息を乱して、欲深く互いを求める。
「楽しくなければ責任取ってもらうからな」
「ああ。クセになるほど楽しませてあげるよ」
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