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  甘く溶ける恋  

「んっ……」
 寝返りを打とうとして痛んだ身体に、意識が僅かながらに浮上する。痛みを堪えるようにゆっくりと動いて身体の向きを変え、開けてしまった瞼を閉じて再び寝入ろうとしても、意識が現をさまよう。
 皆本は吐き出しかけた溜息を胸中に留めて、ただ息を零した。
 静かな部屋には、皆本が身じろぎをして起こるシーツの擦れる微かな音がうるさく響いた。時間を刻む秒針の揺れる音すらはっきりと聞こえてくる。
 聴覚がそれらの音を拾い始めると、眠ることはできなかった。意識だけが目覚めてしまったように、身体はけだるく重いのに眠れる気がしない。
 朝が近いのならばこのまま起きてしまうこともできたが、引かれたカーテンから零れる光はない。時間を確認しようにも、まずは暗闇に慣れない目で眼鏡を探さなければならない。そうなれば、本格的に目が冴えてしまうだろう。
 今度は意識して溜息を零し、皆本は再び眠くなるまでの暇つぶしにと、隣で眠る男の横顔を眺めた。
 散々に皆本を貪り尽くして満足した兵部は、その傍若無人さも窺わせない静かさで眠っている。皆本はそんな横顔をしばらくの間ぼんやりと見つめ、だんだんと腹の底に降り積もっていく不満に顔を顰めた。
 受け身側の負担が大きいのは承知の上だが、それでも兵部の行いは目に余るものが多い。嫌だと言ってもやめてくれないし、調子に乗る。普通にしろと怒鳴ってもはぐらかされ、「じゃあ君の言う普通ってどんなもの?」と問い返されれば答えに窮してしまう。
 兵部に振り回されていることがわかっても、皆本にはどうすることもできない。たとえ意趣返しが成功したとしても、それ以上のものが返ってくる。兵部はとても強かだ。それが経験の差と言われてしまえば皆本はぐうの音も出なくなる。
 にもかかわらず、兵部は時折子供じみて無邪気に笑う。何の計算も謀略もなく、ただ皆本の言動に心からの笑みを零す。それにまた何も言えなくなっている間に、兵部の無邪気さは形を変え、老獪さが滲み出る。
 幼さと老獪さが同居した、不思議な男だ。兵部京介という男は。
 それでもそのどちらも正しく兵部京介であり、それは決して作られたものでも偽りでもない。そして素であるその顔を見せられると、皆本は途端にどうしようもなくうろたえてしまう。
 たちが悪い、では済まされない。
 だがそうしたたちの悪い男が自分を求めてくることに、皆本は何も感じないわけではない。もちろん、そこには皆本が兵部を憎からず思っている、という前提があるのだが、兵部を想い始めたのが先なのか、絆されたのが先なのかは、皆本もわからない。
 気付けば、こうなっていた。
 そうなれば無視することもできず、ただ行き着くところまで転がり続けるしかない。その道のりは蛇行もするし遠回りもするし、山も谷もあるが、存外悪くはない。
 自分だけのもの、と思えるものがあることは、皆本の胸の奥にある何かを心地よくくすぐった。それが独占欲だとか所有欲だとか、あるいは自尊心であることを皆本も理解している。
 こうしている間だけは、確かに兵部と自分との間に繋がりがあることが、皆本はたまらなく嬉しかった。でなければ、身体を許す関係になることなど、ありえるはずがない。
 いつの間にか、顰めていたはずの皆本の顔は綻び、代わりに笑みが浮かんでいた。
 誘われるように身体を兵部に寄り添わせ、耳元に口を近付ける。
「起きているんだろう、兵部」
 囁く声は甘く掠れていた。
 顔を下げて皆本は兵部の顔を見つめるが、眠ったその顔はまつげ一本揺らすことはない。つまらないような気分に皆本はこのまま兵部を叩き起こしてやりたい衝動に駆られるが、流石にそんな子供じみたことはできない。
 それに、起こしたとして何をすればいいのか。皆本はわからなかった。
 だから起きていない方がよかったのだと自分を納得させるように言い聞かせて、皆本は兵部の唇に自分のそれを軽く重ね合わせた。


 皆本から寝息が聞こえ始めると、兵部はふっと瞼を持ち上げ、傍らへと視線を下げた。そこには寄り添って眠る皆本の姿がある。
「ったく、こんな時だけ……」
 呆れの混ざった声でぼやいて、兵部は皆本を起こさないようにと僅かな動作で寝乱れた髪を軽くかきあげた。
 皆本の勘は正しく、兵部は起きていた。皆本に見つめられていると気付いたときから、ずっと。それでもただ見つめてくるだけの皆本に、いったいどうするのだろうと期待を疼かせた結果の、アレだ。
 いくら寝ぼけていたからといっても、素直な皆本は心臓に悪い。なまじ普段から反抗的で素直ではなくて意地っ張りで、甘えるということに躊躇いを持っている皆本だからこそ、なおさらに。
 自分が皆本にとって甘えられる人間であることが、兵部にはたまらなく嬉しい。ますます皆本のことを愛しく思ってしまう。普段から、誰にも言えない鬱屈を兵部にだけはストレートにぶつけてくるから。
 それだけでもこの子供のことが可愛く思えて仕方ないのに、同時に甘えられる人間でもあるなど、余計に依存させてやりたくなる。
「起きたら覚えてろよ」
 物騒なことを口にして、兵部は苦く笑う唇を皆本の額に押しつけた。


 数時間後。
 目覚めた皆本が現状に激しく動揺し、騒々しい朝を迎えるまで、二人は互いを抱きしめ合ったまま、寄り添いながら夢を見ていた。
 ただ平凡で穏やかで、けれどそれが何よりも貴いと知った、淡い夢を。
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