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  そのワケは知らない  

「なんだ、兵部」
 顔を合わせた瞬間に、不機嫌だな、というのは読み取ることが出来た。それだけ付き合いが長いからだ――というよりも、単にこの時の兵部が分かりやすかっただけだろう。
 虫の居所が悪いのに現れた理由は皆本には分からない。最初から彼は不機嫌だったから。原因がどこにあるのか、なんて、知りようもない。
 いつも通りに、歓迎するわけでもないが拒むわけでもない、ただただ当たり前であるように存在することを許していれば、兵部はフン、とつまらなさそうに鼻を鳴らしてソファに収まった。いったいどんな反応を期待していたのか。
 チルドレンが不在の今、兵部は皆本の客人であり、そんな客人を放って自室に篭ることも出来ずに、皆本がどうすべきかと頬を掻いていると、視線すら向けずに指先ひとつで呼び寄せられる。まるで犬猫に向けるような扱いだが、この呼び掛けを無視すれば実力行使されることは既に経験済みだ。
 そういえば今日はまだ兵部の声を一言も聞いていないことを思い出して、なんだか物足りなさが込み上げてくる。別に兵部の不遜で傲慢な台詞を聞きたいわけでも、小馬鹿にした口振りで呼ばれたいわけでもないのに、それがないと違和感を覚える。
 その程度には、馴染んでしまった。
「兵部?」
 首を傾げて、呼びかける。それでも兵部は返事をしない。
 目の前でただソファに座り、どこを見つめているのかどこも見つめていないのか、顔を変えない男の存在が途端に怖くなる。恐怖ではない。……いやある意味ではそうなのだろうが、これは本物の兵部か?
 湧いた疑問に自信を失くす。
 募る焦燥感に、それでも確かめることが何故だか怖くて恐る恐ると足を近付けて、肩に触れる。触れられたことに、幻ではないことに安堵して、緩慢に向けられた顔に情けなく眉が下がった。
「しゃべれないのか?」
 質問に、兵部は軽く首を傾げた。先程までの不機嫌な様子はもう見られない。その代わりに凪いだような空気が、そこにはあった。
 声が出せなくなってしまったのか。何らかの原因によって話せなくなってしまう病気がある。けれど兵部は超能力者だ。それも高超度の。精神感応能力で何かしらは伝えることは出来るのではないのか。だってここに現れたのは瞬間移動を使ったのだから、能力が消えたわけではあるまい。
 そこまで考えて、皆本は自分の胸がきつく締め付けられるような感覚を抱いた。――まさか、と首を振ってそれを否定する。
「なにかあったのか? 僕に何を伝えたいんだ?」
 面倒くさがりのきらいのある兵部が、こんなまどろっこしい真似をするともおかしい。しかし何も知らない、分からない皆本はただ推測するほかない。
 どうしたのか。
 何があったのか。
 苦しくなるような呼吸を必死に落ち着けて、平常心を心がけて、それでも兵部の肩に置いた手は、縋るように握り締めていた。
 不意に洩らされた小さな呟きに、皆本は咄嗟に反応することが出来なかった。
 ただただ兵部の顔を凝視して、聞こえたそれが幻聴ではなかったことを確認するように、再び静かに動く唇に注視する。
「すまないね、皆本クン」
「――え」
 何を謝る必要があるのか。どうして、兵部が謝るのか。
「別に、しゃべれなくなったわけでもなんでもないんだけど」
 言いにくそうにそう話す兵部は、確かに――しおらしい態度を除いて――いつも通りであるし、変わったところなど見られない。会った時に感じた不機嫌さも、今は当惑の影に隠れてしまっている。
 でも。
 だったら。
「なん、で……」
 途端、気恥ずかしくなる感情に、皆本は茹だる顔を俯けて、唸った。
 つまりは全て皆本の勘違いで早とちりで、兵部はただ、皆本の勘違いにそれを訂正する機会を窺っていただけなのか。
 穴があったら――なくても自分で掘ってやるが――入りたいほどの羞恥に、皆本は思い出したように兵部の肩から手を離し、パシン、と音を立てて捕まえられる。振り解こうとしても強く手首を握られ、皆本は観念するようにだらりと腕をぶら下げた。
「そんなに僕のことを心配してくれたんだ?」
 問い掛けてくる声に、からかいの色は感じられなかった。顔を俯けたまま、上目に盗み見ても兵部からはからかってやろうという気概は見えない。
 ただ純粋に、嬉しがっている。――嬉しがって?
「――なわけあるかっ。……ただ、お前がいつもと違うと調子が狂うって言うか、なんていうか……」
 自分でも良くわからないようなそれに、皆本は憮然とした顔を見せる。八つ当たりのように兵部を睨むと、掴んでいた手首を引かれ、ソファに座る兵部に覆い被さるように乗り上げていた。
「まったく。すっかりどうでもよくなったじゃないか」
「……何がだよ」
 非難がましいそれにむすりと不機嫌に返すと、兵部からは機嫌の良さそうな相槌が返ってくる。
「んー、秘密」
「はぁ? なんだよ、それ」
「人がせっかく忘れようとしてあげているものを、わざわざ掘り返すのかい?」
 耳元で楽しそうに囁かれ、意味ありげに臀部を撫でられて、皆本はびくりと身体を強張らせると顔を左右に振った。
「っていうか、僕こそ怒ってるんだからな」
「それはすまないね。誠心誠意、しっかりと謝らせてもらおうか」
「――あ、やっぱりいいです。うん。もう怒ってない」
 嫌な予感しかしない現実に皆本が身体を起こそうとすると、兵部はあっさりと解放してくれた。それにまた違和感を抱いて兵部を見つめると、掠めるように唇を触れ合わせられ、皆本は赤い顔のまま、へたり、と兵部の足元に座り込んだ。
「――……なんだかすっごく理不尽だ」
「そんなことないさ」
 くすりと笑う楽しげな声に、皆本は八つ当たりも込めて兵部の足に拳を叩き付けた。


  気まぐれ恋ごころ  

「なんだ、兵部」
 顔を合わせた瞬間そう言われ、自分でも不機嫌になるのがわかった。何をする途中だったのか、立ち尽くしたままの皆本をじっと眺めて、兵部はつまらなく鼻を鳴らすとソファに腰を下ろした。
 既に何度も来たことのあるこの部屋は、勝手知ったる、というものだ。気を使う必要もない。
 ただなんとなく、からかってやろうと思った。
 愚直なまでに素直でまっすぐに向けられる皆本の感情は、心地よい。人間には裏も表も存在しているというのに、皆本の中にあるのはいつもひとつだ。あまり私情を挟まないようにと、理性を押さえつけようとはしても、言動がちぐはぐになることはない。
 様々なものを見て、経験して、理解してしまえるからこそ、皆本のひたむきさに触れると安心する。
 だから、口でも心の中でも怒鳴りつけて嫌がって、でもほんのちょっぴりの嬉しさ、のようなものを見せる皆本をからかって――愛おしんで――遊ぼうと思ったのに。
 すっかりと慣れてしまったのか素気無い言葉と態度に、出鼻を挫かれた。一瞬にしてからかってやろうと思っていた気持ちが萎える。
 そうやって自分の思い通りにならないところがイイのだと分かっていても、不機嫌になってしまうのは仕方がない。
(坊やのくせに――)
 自分を振り回すだなんて生意気だ、と胸中に愚痴を零して、立ち尽くしたままの皆本を指先で呼び寄せる。
 人差し指をくいくいと曲げて手招けば、困惑した表情で皆本が近付いてくる。――はて、まだこの坊やを困らせるようなことはまだしていないつもりだが?
 そろそろとした足取りは兵部の手前で止まり、首を傾げて、名を呼ばれる。
「兵部?」
 不安そうに舌の上に乗せられた名前。
 親に置き去りにされそうな子供みたいな声だ――と、考えて、余計なものまで思い出しかける。パンドラには親に捨てられた子供も多い。慣れないうちは、よく夜泣きをしたり親を捜して船内を歩き回る子供もいた。そのたびに兵部は、やるせなさを――自分の無力さを思い知る。
 だから、か。
 皆本にまでそんな声を出させてしまったことが、悔やまれる。この男にそんな声を出してほしいわけじゃない。確かにからかって遊んで、振り回して構い倒すことは好きだが、遠慮も容赦も躊躇もなく自分を怒鳴りつけてくる声も楽しいが、不安な声を聞くと胸を締め付けられる。
 そうやって兵部が自分の思いに苦い笑いが込み上げてくるのを感じていると、不意にフローリングの床がそっと軋んだ。皆本の足が近付いて、肩に触れられる。そこから伝わる気遣いに、不思議と身体の力が抜けていく。
 らしくない顔をしているのだろうと、それまで皆本に向けることをしなかった顔を合わせると、皆本こそが情けない顔をして、驚く。
「しゃべれないのか?」
 質問の内容に、首を傾げる。
 この坊やはいったい何を言っているのだろうと考えて、そっと意識を読みとる。自分がぼんやりしている間に皆本が巡らせていた思考に、おかしさが込み上げてくる。
 きっと笑ってはいけない場面なのだろうから笑いは抑えて、突飛な場所に発展してしまうその思考が愛しくてたまらない。頭が良すぎるのも問題か。
「なにかあったのか? 僕に何を伝えたいんだ?」
 なにもなかった。しいて言うのならば、自分の思いを再認識していたところか。
 何を伝えたいのか。伝えたいことは多すぎて、だがその何分の一も伝えることはできないだろうとわかっている。
 平静を保とうとする皆本の呼吸が、浅く早く変化している。肩に置かれた手に徐々に力を込められて、縋るようなその指先が――たまらない。
「本当、どうしてくれようか、この坊やは」
 胸中で呟いたはずの言葉は、声に乗ってしまったのか。
 皆本の強い視線を感じながら、兵部は今度ははっきりと口を開く。
「すまないね、皆本クン」
「――え」
 くしゃり、と泣き出しそうに不安そうに歪んだ顔。
 そんな顔を、させたいわけではないのだけれど。なぜだか妙に、言葉の歯切れは悪くなる。……悪いことは何もしていないのに、申し訳なさ――のようなものが先に立つ。
「別に、しゃべれなくなったわけでもなんでもないんだけど」
「なん、で……」
 皆本の口から呟きが洩れた瞬間、顔が一気に上気して、皆本が唸る。羞恥を耐えようとしているのか、肩に置かれた手にさらに強く力が入れられる。それを痛いとは思っても、振り払おうとは思えない。
 一人で悩んで、考えを巡らせて、兵部のことで頭がいっぱいなのだと自覚した上で、更にその心配までしてしまっているのだと、自分の感情に振り回される皆本を見ているのは、楽しい。当初の目的とは違ってしまったが、この結果も悪くない。
 離れようとする手を捕まえて、離されないようにと強く握り締めれば、観念して腕が力を失くす。
「そんなに僕のことを心配してくれたんだ?」
 恨みがましい目つきで睨んでくる皆本に笑い返せば、さっと視線が外される。
 掴んだ手首から伝わってくる脈は速い。ぶつぶつと口の中で転がすような皆本の愚痴を聞いて、その身体を引き寄せる。油断があったのか、簡単に腕の中に収まった。
「まったく。すっかりどうでもよくなったじゃないか」
 むしろしてやられたような気分になる。でもそれも、悪くはない。どこか清々しいような、すっきりとした気持ち。
 いつもと変わらない、素気無い言葉の応酬の中に、甘さのようなものを感じるのは気のせいだろうか。
 離れようとする身体を素直に解放してやる。それなのに物足りなさそうな顔を見せる皆本に唇を掠め取ってやれば、真っ赤な顔でへたり込む。八つ当たりはとても、可愛らしいものだった。
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