目次

  熱  

 ギシ、と遠慮がちに音を立てて揺れたベッドに、意識がゆっくりと覚醒する。
 薄暗い部屋の中にぼんやりと浮かぶ、人影。
 茫洋とそれを見つめていれば、冷たい何かが頬に触れる。
 ――きもちいい。
 そう呟いたはずなのに、薄く開いた唇から零れるのは、熱の篭もった荒い息。
 冷たさをもっと感じたくて頬をすり寄せると、小さく、笑うような吐息が聞こえた。
「寝ぼけているのかい? それとも、熱のせいかな」
 笑みを含んだその声にぼうっとしている間に、手のひらは額へと移動して、顔にかかる前髪を払う。ぺたぺたと、額に、頬に触れて、だんだんと冷たさが失われていく。
「君の体温が高くなっているんだよ。まだ熱があるね」
 ひどい熱だ、と呟いて、覗き込むように見下ろしてくるその人影に眉を寄せる。
「……ひょう、ぶ……?」
 囁いた声は、ひどく掠れていた。喉が乾ききっていたせいか、咳が込み上げてくる。
 咳込む皆本に、しようがない、と淡く笑んだ兵部が軽く周囲を探る。見つけた何かを引き寄せて、ペットボトルの周囲に浮かんだ水滴を気にしながら口に含む。
 顔を近づけてくる兵部を、皆本はぼんやりと見つめていた。
 閉じた口をそっと開かされ、ゆっくりと甘い水が流れ込んでくる。喉を鳴らして飲み干し、まだ足りないと、渇きを訴える。
 繰り返し、口移しで渇きを潤して、深く息を吐き出す。
 余計、熱を上げてしまったのか、身体の火照りを感じる。
 飲み込めずに零して濡れていた顎を、喉を唇に辿られて、身体が震える。
 持ち上げた手は、覆い被さる身体を押し退けられずに、縋りつく。
「ゆっくりとおやすみ、坊や」
「お前……も、帰れ」
 熱が移る。
 名残惜しく指を離して、身体を押しやる。
 額に軽く口付けられて、意識はまた眠りに沈む。

「こんなときまで人の心配か……」
 苦笑して、兵部は安らかに眠る皆本の傍をそっと離れた。


  微睡む  

 あたたかな陽射しが降り注いでいた。
 外に出れば冬の寒さを感じられるというのに、室内にはまるで春の陽気のような日溜まりが出来ていた。
 予報通りの晴天。昨晩の天気予報で告げられていた通り、朝一番に回した洗濯物も、風に靡きながらもよく乾いているのだろう。アドバイス通りに早めに取り込んでしまえば、陽の傾きかけた肌寒さに冷たくなる心配もなさそうだ。
 子供は風の子。
 風の強さも寒さもお構いなしにと、文字通り飛び出していった子供達もいない休日。
 のんびりと穏やかに過ごすはずだったひとときの中で、無言の来訪者に皆本は唇を緩め、目を細める。
 いつ来たのか。
 それすら気付かぬほど家事に没頭していたのがいけなかったのか。
 日溜まりの中に広がる黒色。
(暑くないのか……?)
 自分はとうに、長袖のシャツを腕まくりしているというのに。
 陽射しの中にいれば、暑さも増すのではないのだろうか。
 そう考えて、物珍しさに押されるように、そっと足音を忍ばせて近付く。
 まるで警戒心の強い動物と触れ合おうとしているようだと、童心を思い出させる。
 ふらりと現れては消える、警戒心が強ければ気位も高い獣。
 触れることすら躊躇われ、けれど何のてらいもなく触れてくる。その手を警戒するのは、自分も同じ。
(あ……)
 さらりと、触れれば簡単に流れ落ちてしまう、柔らかな髪質。
 触れるまで躊躇ってしまうのに、一度触れれば、躊躇など忘れてしまう――穏やかさ。
 髪を撫で続けていると、不意に兵部が身じろぎ、皆本は手を離す。
 名残を、感触を思い出すように皆本は自分の手を見下ろし、指先を擦り合わせる。
 そこに残る何かをなくしてしまわないように軽く握り締めて、皆本は立ち上がった。


 寒さを感じて、何かに身体をすり寄せる。
 その何かは皆本の身体を強く優しく包み込み、それらにほぅ、と息が洩れる。
 何かに素直に身体を預けて、微睡む。
 頭を撫でる、優しい手つきに癒されて、微睡む意識が弾ける。
 ぱっちりと目を開け、それを見つめると、それは楽しそうに――どこか意地悪そうに、笑う。
「なっ、なな……っ!」
「呂律が回ってないぜ、皆本クン」
 まだおねむかな? と、幼子に対するように言葉をかけられ、よしよしと頭を撫でられて、血が上る。
 カァ、と込み上げてくる熱に、羞恥に目の前のそれから身体を仰け反らせて、けれどぐっと身体が引き寄せられる。
 引き寄せられるそのままに反動をつけられて、皆本の身体は、兵部の身体の上に。
 もつれる足が、羞恥を呼び寄せる。
 とっさに床についた両手は兵部の顔の横の位置にあり、何故だかそれが居たたまれなくなる。
「いつの間にか寝てたんだね、僕。目が覚めたら君が隣で寝ていて驚いたよ」
 皆本にも寝るつもりがあったわけではなく、どうにも居心地が悪い。
 だが身体を起こそうとしても腰に回された兵部の腕に抱き締められて、身動きが取れない。
 でも。
「たまにはこうやってのんびりするのもいいのかもね」
 そういって、抱き締めていた手で背中を、頭を撫でられて、皆本は兵部の胸に顔を伏せる。
「ああ。そうだな……」
 下にした兵部を抱き締めるように手を回して、皆本は兵部の刻む心音に耳を傾けた。


  甘い誘惑  

「少し休憩したらどうだい? 皆本クン」
 口元に差し出される、チョコがコーティングされた菓子。
 それで唇をつんつんとつつかれて、皆本は身体を仰け反らせたまま、まるでそれを警戒するように、慎重に口に咥えた。唇と歯を使って、器用に折る。小気味の良い音が響いた。そのまま手は使わずに器用に咀嚼して、隣の男を見上げる。
 兵部は、皆本が残した半分を苦笑いを浮かべて食べていた。
「なにしにきた?」
 二本目を差し出され、断るかどうか悩んで、食べる。今度は折らなかった。
「お裾分け? いっぱいあったんだ」
「……ああ。今日は11月11日だからな」
 いつから出来たのか。お菓子の日だ。デスクに浅く腰を掛けた兵部を尻目に、皆本は作業を続ける。
 今行っているものは、他人に見られて困るようなものではない。視界の端にちらちらと見える、黒い学生服が気になりはするが、特に問題はない。兵部も、皆本が仕事を続けることに不満を告げない。
 一定の間を置いて差し出される菓子を何も考えずに咥えて、食べる。小腹も空いていたから丁度いい。それを何度か繰り返して、ふと、咥えようとしていた菓子が逃げる。兵部が零したらしい、笑い声も聞こえてくる。
「なんだ?」
「いや……、なんだか、餌付けしてるみたいだな、と」
 そう言って菓子を差し出され、それを咥えながら、皆本は頬を赤らめた。心なしか、咀嚼のスピードが上がる。
 おかしそうに眉を動かした兵部を軽く睨み付けると、兵部はデスクから腰を離した。
 それを追って身体を動かすと、また、菓子が差し出される。今の今だ。皆本が躊躇っていると、唇をつつかれた。
 仕方なく、先端を咥えてやると、何を思ったのか、兵部が反対側を咥えてきた。
 咄嗟に身体を引こうとしても、兵部の手が椅子の背を強く握って、逃げられない。
 目を伏せた兵部が、少しずつ菓子を齧って近付いてくる。兵部が零す呼吸も、咀嚼する音もやけに大きく聞こえる。蠢く唇から目が離せなくて、近付いてくる距離に、ただ固まる。
 どうすればいいのか。
 口を離せばいいだけだ。若しくは折るか。でも、目を閉じた兵部の顔が、何かを連想させて身じろぎも取れなくなる。
 口の中で溶けだしたチョコが甘い。口腔に溜まる唾液を嚥下することすら躊躇われ、皆本はきつく、目を閉じた。
 その瞬間。唇に菓子を通して伝わっていた振動が止まり、皆本はそろそろと目を開けた。
 兵部は、腰を屈めさせたまま楽しそうに笑っていた。
「キス、されると思った?」
 それともしたかった? と問い掛けられ、皆本は顔を真っ赤に染め上げる。
「冗談じゃないっ」
 焦って兵部の身体を押しのけようとしても、兵部はびくともしない。皆本の手に力が入っていなかったからなのか、どうなのか。
「じゃあ、次はキスしよう」
 そういってまた、菓子で唇をつつかれて、皆本はその先端を咥えると、折った。
 短く折れたそれを皆本が得意げな顔で咀嚼しようとすると、あっさりと兵部に反対側を咥えられ、すぐに唇が重なった。
キミっておねだり上手だね
んなわけないだろっ!
 上から覆い被さってくる兵部に、皆本の座る椅子が重く軋んだ。


  引力  

 ただ目を閉じているだけのようにも見える静かな寝顔。
 物音は立てないよう、そっとベッドに腰かける。
 小さく揺れたベッドに、目元を縁取っていた睫毛が揺れる。
 ゆっくりと静かに瞼が持ち上げられ、凪いだ瞳が姿を現す。
「おはよう、皆本クン」
「……ああ。おはよう」
「君が早いなんて珍しいね?」
 穏やかな笑いを含んだ声。
 伸ばされた手に頬を包まれ、引き寄せられる。
 顔のそばに手をついて、覆い被さるように顔を近付ける。
「お陰で珍しいものが見れた」
 早起きは三文の徳だ、と囁くと、おかしそうに笑いながら唇が触れ合った。
「珍しいもの?」
 触れる吐息がくすぐったく、身を捩る。
 いつの間にか腰にあった手に、強く抱きすくめられる。
「お前の寝顔」
「……ああ。いつも君の方が先に寝ちゃうし、遅いからね」
 気紛れに唇を触れさせながら、囁くように会話する。
 ……ナイショ話のようなそれが、面映い。
 熱くなる頬を自覚して、僅かに持ち上げられた唇に噛みつく。
 ゆっくりと甘い果実をかじるように歯で、口唇で味わって、吐息を洩らす。
「……情熱的だね」
「これきり……だ」
「もっとちょうだい」
「いやだ」
「いじわる」
「お前よりマシだよ」
 唇を触れ合わせたままの会話。
 離れたくても、離れられない。
 頬にあった手に後ろ頭を引き寄せられて、ベッドが重く軋む。
「誘ってきたのは君のほうだ」
 唇を吸いながら、悪びれず、甘く責められる。
「――お前だよ」

 いつだって、お前と言う存在に惹かれていたんだ。
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