目次

  kisskisskiss  

 子供たちを学校へと見送ってから、しばらく。皆本も出勤の準備をしようと朝の報道番組を流しながら身支度を整えていると、玄関から微かに物音が響いた。
 学校へと向かった子供達の誰かが忘れ物でも取りに帰ってきたのかと、皆本が顔だけを覗かせてみるが、気のせいだったのか誰の姿も見当たらない。
 首を捻りつつリビングへと振り返り、皆本は盛大に肩を落とした。
 いつの間にか、我が物顔でソファに座り、興味もなさそうにテレビを見つめている人影。玄関での物音は、注意を逸らすためのものだったのか。
「やぁ、皆本クン。おはよう」
 たった今気がついたと言わんばかりの仕草で、その人物は振り返る。
「……何しに来た」
「あれ? おはようは? 挨拶は人としての基本だぜ、坊や」
「…………他人の家に不法侵入してくる輩にだけは言われたくない台詞だな」
 痛み出す頭を抱えて、皆本は唸るように吐き出す。それでも、生真面目ゆえであるのか、ただの反骨心か。不機嫌にでも、おはよう、と挨拶を返す辺り、皆本は素直だろう。
 その素直さに兵部は唇に笑みを浮かべて、立ち上がった。
 身構える皆本に気兼ねなさを装って兵部は近付き、首にぶら下がるネクタイに手を伸ばす。ぐっと力を入れて引き寄せれば、簡単に皆本との距離が縮まった。
「なに――」
 皆本が抗議を上げるよりも先に、唇が兵部の唇に塞がれていた。言葉を発するために開けた口内にしなやかに舌が侵入を果たし、蹂躙を開始する。
 口腔を舐り、掻き回す舌に翻弄され、そうしたいわけでもないのに息を喘がせてしまう。
「ふぁ……ん…っ」
 押し返したくて兵部の腕を掴んだ指が、力を強めて縋る。蠢く舌に眉を寄せながらも、擦り合わされる舌先から生まれる甘い痺れに抵抗する意志が弱まっていく。
 強引で濃厚な口付けに、内から込み上げる甘美な戦慄に身を預けてしまう。だが、不意に視聴者を失くした報道番組のキャスターが原稿を読み上げる声が耳に飛び込んできて、皆本が慌てて我に返る。
 突き飛ばすように兵部の身体を押し返そうとして、腰に回されていた腕に強く力を入れられる。
「いい加減にしろっ、僕は忙しいんだ……!」
 兵部が現れる以前――出勤の準備をしていたことも思い出して、皆本は濡れた感触を残す唇を無造作に手の甲で拭う。兵部の腕の中から逃れようと上体を捩り、兵部の腕を引き剥がそうとも奮闘するが、悲しいかな、びくともしない。
 全身で拒絶を見せる皆本に兵部は楽しそうに笑い声を響かせて顎を掴み上げ、睨み付けてくる皆本にわざとらしく眉を下げた。
「そこまで嫌がられると傷付くじゃないか。僕だって忙しい朝の時間の合間を縫って君に会いに来たんだぜ?」
 頼んでなんかない、と皆本は咄嗟に口を開きかけ、見つめてくる眼差しに口噤む。そんなことは頼んでいなくとも、言い回しに釈然としない感情を抱きながらも、それが嬉しくないといえば嘘になる。
 ただ、もう少し時と場合を選んでくれれば、多少は素直になってやらないこともない、とは思う。
 その葛藤とも呼べぬ照れ隠しに皆本が惑う姿を兵部はじっくりと愛でてから、強制的にそれを終わらせた。
 再び口を塞いできた兵部に、腕を引き剥がそうとしていた皆本の手が止まる。その手は嫌っているのか縋っているのか、兵部の腕を強く掴み、離れない。
「忙しいんじゃなかったのかい?」
 口付けの合間に、兵部が吐息を漏らすように意地悪に囁きを零す。
 皆本は知らず伏せていた瞼を持ち上げて兵部を睨み、また触れてきた唇が離れると深く息を吐き出した。
「お前だって忙しいんだろ。恩着せがましく言ってきたのはどこのどいつだ」
 むっと不機嫌に顔を顰めて、皆本は緩く持ち上げられた兵部の唇に噛みつく。すぐに差し出した舌を擦り合って、兵部の舌ごと、口腔に押し戻される。
 腰を強く抱く腕に、皆本も絡められた腕を辿るように腕を持ち上げ、兵部の肩に巻き付けた。縺れるように、脚が絡み合う。
 時間が迫っていることは理解しているのに、まるでそれに急き立てられるように僅かな時間も惜しんで求めてしまう。どれだけ深く貪ろうというのか、満たされた瞬間に次の欲求が沸き立つのを抑えられない。
「忙しいよ。君の相手をする暇なんてないくらいにね」
 そう嘯きながらも、兵部は皆本を離さない。
「だったらいい加減にしたらどうなんだ」
 憮然と心情を漏らしても、皆本は兵部を拒まない。
 互いに相手を捕らえたまま、キスの雨は降り止まない。触れては離れ、離れては触れ、軽く、深く、相手を求め、求められることを堪能するように、戯れであるように、飽きなどくることもなく、ただそれしか知らないように無心で繰り返す。
 見つめ合う瞳は挑発的で、だがその奥にある強い希求にどちらともが煽られる。
 そのどうしようもなさは、互いに知っている。
 自然と零れる笑みごと呑み込んで、唇が深く重なり、舌を濃密に絡め合う。身体の奥底で疼く期待を、深めるキスで誤魔化して、強い焦燥感に期待が膨らんでいく。
 悪循環を感じても、どちらもまだ、満足できない。
「早く離してくれ。仕事に遅刻する」
「君が離さないから離れられないんだよ」
「お前のせいだろ」
「君のせいだね」
 交わすキスに唇を触れ合わせたまま責任を押しつけ合って、唇がまた、深く重なった。
目次

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system