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  la dolce vita  

 疲れた身体をソファに沈めると、自然と大きな溜息が零れていた。特に忙しさを感じていたわけではないが、あちこちと動き回っていたせいで疲労は蓄積されていたのか。
 自宅に戻れば安堵のためか、一度身体を休めるとなかなか次の動作に入りづらい。
 だから。
 いつからそこにいたのか、不法侵入者を眺めても、皆本はただまたか、と溜息を吐くだけで重い腰を上げようともしない。その鈍い反応に、侵入者たる兵部はおや、とおかしそうに片眉を動かした。
「……チルドレンならまだ帰らないぞ」
 流れ始めた奇妙な沈黙を、皆本が疲れきった声で破る。
「知ってる。ついでに今日は皆と寄り道して帰るって澪からメールが来た」
「あ、そう?」
 チルドレンからは連絡がなかったな、と皆本は眉を寄せて、自分がただ着信を確認していなかっただけだと思い出す。鈍い動作で携帯を取り出せば、新着メールの表示が浮かんでいた。
 差出人と内容を軽く確認して、皆本はまたぐったりとソファに身を預ける。無視され続けているような兵部の顔は、不機嫌だ。だが、それだけの疲労を見せる皆本にその顔を微苦笑へと変えて、片足でソファに乗り上げた。
 ソファを軋ませて覆い被さってくる兵部に、皆本が煩わしそうに眉を寄せる。その素直な反応に兵部はふっと目元を和らげ、ネクタイを引き寄せた。つられて首が仰け反り、皆本の顔が苦痛に更に歪む。
「なにするんだ」
「あんまりにも無警戒でいるものだから、据え膳かと思って」
 悪びれる様子もなく、むしろからかうような口振りで告げる兵部に、皆本はむすりと不愉快さを見せた。鬱陶しそうにネクタイを掴む手を払おうとして、逆に手首を掴み取られる。
 そのまま引かれてソファの上に押し倒されると、皆本もそれまでの疲労も忘れて抵抗を示し始めた。
「離せ、ジジイ!」
「相変わらず口の悪い坊やだ。躾直しが必要かな?」
 くすり、と笑みを零した兵部に皆本は眦をつり上げ、すぐにそれを収めた。怪訝な視線を向けてきた兵部に、ニヤリと笑う。
「結構だ。――特別扱いだからな」
 兵部が虚を突かれたように呆然としている間に、皆本は緩んだ拘束から抜け出す。隙をついて立ち上がった身体は、だがそこで油断してしまったせいか、後ろ手を引かれてソファへと逆戻りする。――正確には、兵部の膝の上へと。
 向かい合わせで膝の上に座らせられ、皆本は慌てて身体を後ろへと引いた。しかし、がっちりと腰に回された腕に阻まれる。
「下ろせよ!」
 肩に手をつき突っ撥ねても、ただ上体が後ろに反れるだけで腰の位置は変わらない。ムキになる皆本とは対照的に兵部は呆れたような表情を見せて、これ見よがしに溜息を吐いてみせる。
 ムッと怒りを上げた皆本が強硬手段に出ようとした瞬間、腕を引かれて身体は簡単に兵部の胸元にダイブした。見かけの線は細いくせに、逞しい肉体を感じさせる兵部に皆本が内心の鼓動を逸らせていると、ぽんぽんと軽い調子で背中を叩かれる。子供をあやすようなそのリズムに苛立ちも込み上げるが、それよりも今は疲労が勝る。
 兵部との無駄としか言い様がない攻防のせいか、更に疲れを感じ始めているような気さえする。
「君の不意打ちはタチが悪い」
 憮然と吐き出されたそれに、皆本は身体を弛緩させながら唇を尖らせた。
「仕返しだ」
 からかわれているのかと思えば、こうして甘やかされもする。気紛れな調子に振り回されて、狂わされて、意趣返しを行うことの何がいけない。
 そう、胸中に吐き出していると顎に指を滑らされ、持ち上げられる。苦笑の滲んだ双眸は、何を意味しているのか。
「こういう時じゃなく、素直になって欲しいんだけどね」
「お断りだ。……そんなことしたら身体がいくつあっても足らんだろう」
「ああ。そういう自覚はあったんだ?」
 愚痴混じりの言葉すら拾われて、皆本はサッと頬を上気させる。声に出したつもりはなかったが、疲れているせいで思考がうまく働いていないのか。
 それに人肌の温もりというのも安心感を抱かせる。
「まったく。これで手を出したら僕が人でなしみたいじゃないか」
「お前もそういうことを考えるのか?」
 顔を上げ、意外だと見つめればあからさまに不機嫌な顔を見せられる。……さすがに皆本も、考えなしの発言を悔やむ。
 無理矢理に顔を伏せさせられ、皆本はそれに抗わず兵部の胸に身体を凭れさせた。
「あぁ。暇だったから君で遊ぼうと来たのに……」
「残念だったな、バーカ」
 嘆かわしいと天井を仰ぐ兵部に、皆本はやってきた微睡みに身を委ねながら口を開く。おかしさに小さく身体を揺らせば、眠りは妨げない程度に髪を引かれた。
「起きたら覚えてろよ、皆本」
 捨て台詞のように吐かれたそれに、むり、と反射で返した言葉は胸中に留まったのか、ちゃんと口にしていたのか。
 夢現となった皆本には分からなかった。
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