溺惑
溺れてしまいそうだ――。
何に。
何処に。
深く溺れて、水面はどんどん遠ざかって、息の苦しさにくらくらと目眩がする。
伸ばした手が何に縋ろうとしているのかも分からないまま、深く、沈んでいく――。
「――っは、ぁ……、んぁっ」
足掻いて、藻掻いて、苦しかった息を吐き出す。忙しなく呼吸を繰り返して、滲んだ世界に何度も瞬く。
ぐちゅり、と身体の奥から響く水音にふるりと身体を震わせて、大きく深呼吸する。吹き出す汗の不快感に身を捩り、落ち着きを取り戻す心拍にほっと息を吐く。
そして零れ落ちてきた、仄かに笑うような声に胡乱に視線を上げる。
「いやらしい顔。そんなに気持ちいい?」
額に汗で張り付く前髪をかき上げられ、口付けが落ちる。
いちいちキザったらしい奴だ、とむずむずするような感覚を胸中にだけに留めて、ふいとそっぽを向く。別の意味でまた火照り出した頬は、どう足掻いても誤魔化せそうにない。
上に乗った男が身じろぎすれば、つられてまたぐちゅ、と淫猥な音が零れた。熱を吐いて鎮まろうとしていたモノがまた反応を示して、身体の奥が疼く。
ゆっくりと、深呼吸して息を整えてそれをやり過ごす。
こちらは全力疾走した後のように全身が疲労に包まれて全てが億劫だというのに、見上げる男は相変わらず涼しげだ。――でも、その身体はひどく熱い。
それを自覚して奥で締め付けると、不意打ちに僅かに息を零した男が意地悪に笑う。
「足りない?」
「……それはお前だろ」
楽しげにからかってくる言葉にうんざりと返して、伸ばされてきた手を払う。
自分の方が若いのに。
体力がないわけじゃないのに。
どうしようもない負けず嫌いが働いて、素直になることが出来ない。こういう時くらい、素直に甘えてしまえばいいのかと考えて、考えるだけでも羞恥が先行する。
――甘えたら負けな気がする。
いったい何の勝ち負けなのか自問して、そのくだらなさに溜息しか出ない。
憮然と息を吐き出して、思い出したように、窺うようにそっと男を仰ぎ見る。すぐに視線に気が付き、絡む眼差し。外の雑音など聞こえないように、見えないように自分と相手の二人だけの世界を錯覚して、そっと手を伸ばす。
払われた手に傷付く謂われはない。
同じことを仕返されただけなのに、自分勝手な胸の苦しさを覚える。目頭が熱くなるような感覚が、強く手首を握り締められる痛みに成り代わる。
見開いた視界にただそれだけが映り込んで、広がって、呼吸を奪うものに安堵する。
夢中で貪るように互いの唇を啄んで、酔いしれる。舌を擦り合わせれば、痺れるように心が震える。
――嗚呼、また。
緩やかな律動に浚われる。
何かに縋りたくて動かした腕はシーツに縫い止められ、ただ身悶えることしか出来なくなる。
溺れながら必死に息継ぎを繰り返して、遠ざかっていく何かに焦がれ、見送る。
不格好な呼吸が塞がれて、元通りに、緩やかに鼓動を刻む。
霞み行く世界で唯一確かなものに手を伸ばせば、ぐっと距離が縮まる。
「――溺れ、そうなんだ……」
それが怖い、のか、心地よい、のかも分からないから、懼れる。
「溺れてしまえ。永遠に」
抱き寄せる腕の力強さに呼吸が奪われ、安堵する。
ずっとこの腕に包まれていられるのなら、それも悪くはないかもしれない。
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