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  遣らずの雨  

 どんよりとした空から無数の雨粒が降り注ぐ。
 しとしとと降り止まない小雨は気分さえも降下させていくようで、けれど、モノクロに変わる世界は新たな一面を発見させてくれる。
「なぁ、兵部」
「なに? ……ああ、ほら。もう少しこっちに来ないと濡れるよ?」
 ぐい、と見かけによらず強い力で引き寄せられ、身体が傾く。左肩を見れば確かに雨にしっとりと濡れ始めていたが、それは隣を歩く男も同じ。
 だのにこの扱いは何なのだろうか。どうにも尻がむず痒いシチュエーションに、皆本は一つの傘の中でひっそりと溜息を洩らす。
 今使っているのは皆本の傘で、けれどその柄を持つ手は皆本のものではない。隣を歩く、兵部のものだ。
 どうしてこうなったのか――と考えるまでもなく数分前のこと。
 今日は午後からの降水確率が高かったのに、傘を持って来なかったもう一人の親友に兵部が珍しく傘を貸したのが放課後のこと。二人の間に何かしかの取り引きがあったようだが皆本は興味もないし、知りたくもない(大抵が皆本には信じ難いことか理解し難いことなので二人の悪巧みは放置推奨だ)。
 それから当の兵部はどうするのか、と思いきや、有無を言わさず皆本の傘で相合い傘を決行されたのが少し前のこと。思い出すだけでも頭が痛い。どうして皆本を巻き込むのか、と愚痴の一つや二つ零したくなるが、今更のこと。既に諦めの境地に入っていると言ってもいい。
 それに帰路途中に兵部の家があるのだから、まあ問題はない。
 あるとすれば――
「なぁ。やっぱり男二人が相合い傘って恥ずかしくないか?」
 すれ違う通行人に見られているような気がするのは単なる自意識過剰か。だがそれにしてはやたらと目が合うような。
「やっぱりその辺のコンビニで傘でも買って――」
「勿体無いし面倒臭い。気にしたら負けだよ」
「……何にだよ」
 どこか上機嫌に見える兵部を横目に見下ろしながら、皆本の口からは溜息しか出ない。
 兵部の気紛れも自分本位な性格も慣れたと言えば慣れたものだが、振り回される身にもなって欲しい。
「なぁ――」
「なんだよ、しつこいな?」
 気分を害されたように、ほんの僅か、兵部の声に不機嫌なそれが混ざる。それに口にはせずとも申し訳なさが先に立つのは性だ。兵部の場合は、口にするまでもなく察している場合もあるけども。
 ぴたり、と足を止めた兵部に倣って皆本も足を止める。交通の妨げにはならないように端に寄ることも忘れない。
「せめて僕に傘持たせてくれよ」
「なんで?」
「なんでって……、元々は僕の傘だし、お前に傘を持たせるのは悪いし、僕の方が背がたか、いっ」
 突然足に走った痛み。
 それは一瞬の出来事だったが、足下を見下ろせば爪先が泥に汚れていた。視線を上げると同時に兵部を睨み付けてやると、逆に睨み返されたじろいでしまう。
 兵部の地雷を踏んだらしいことに、さすがに気付かないわけがない。
「つかお前そんな小さいこと気にしてんのかよ」
 ぼそっと呟いた声に、ピクリと兵部の眉が跳ね上がる。
「ああ? 誰が小さいって? 高々数センチ高いくらいで何上から目線で物言ってんの?」
「小さいって身長のことじゃねーよっ。小さい物事って意味だよ! 大体上からなんて言ってないだろっ!? それを言うならお前こそ数センチ低いくせに何上から物言ってんだよ」
「僕はいいんだよ。それにまだ伸びる予定だし」
「何だよその自己中発言!? 予定で物を言うな! 大体今から10センチ以上も伸ばす気かっ?」
「ハッ。成長期舐めんな」
「うっわー、鼻で笑った。今鼻で笑いやがったよ、コイツ。だったらそれを言うなら僕だってまだ成長期だかんな。絶対お前にだけは負けない」
「何皆本クンてばムキになっちゃってんの? ダッサー」
「お、まえ……っ」
 怒りに言葉を失うとはこのことか。
 けれど不意に雨音に混ざってくすくすと笑う声が耳に入って、ここがどこかを思い出す。慌てて周囲を見渡せば、下校途中の学生やら買い物帰りの主婦が微笑ましく生温かく見つめていて、かぁ、と頬に血が昇る。
 勢いよく視線を兵部へと戻せばにやにやと笑っていて、腹が立つ。
「――いいから、ほらっ」
 込み上げる怒りやら何やらを耐えつつ手を差し出しても、返ってくるのは否の答え。皆本自身、この件に関して引っ込みがつかなくなっているのは否めないが、兵部の拘る理由はなんだろうか。
 差し出した手に傘が返されることもなく、代わりに兵部に手を引っ張られて、歩き出す。もちろんすぐに振り払ったが。相合い傘の上、手を繋いで帰る男子高校生など悪目立ちしすぎる。
「嫌なの」
 問い掛けてくるそれが手を繋ぐことではなく傘のことを告げているのだと気付き、皆本はそういうわけでも、と言葉を曖昧に濁す。
 本当に嫌であれば賢木と帰るという選択肢もあったわけなのだから、そういうわけではないことは自分でもわかっている。
「まぁなんていうか……、僕がただそうしたいだけっていう自己満足ってか、ずっとお前に持たせるのも悪いし、お返しがしたい? みたいな?」
 言葉にしてみればそれだけの理由でムキになっていたのも馬鹿らしい理由だ。
 ぽつりぽつりと、歩きながらそれを呟いていれば隣から大きな溜息が聞こえてきて、ムッとする。
「君ってほんと……バカ?」
「なっ、そんな言い方ないだろ!?」
「っていうかもう僕の家に着いたんだけど」
「え」
 兵部の指差す方を見れば確かにそこには見慣れた兵部の家があって、計算違いにがっくりと肩が落ちる。その内に落胆は兵部が意地を張るからだと八つ当たりに変わって、それを自覚して最早溜息しか出てこない。
 恥ずかしい思いをしてこれとは、今回限りは兵部にバカと言われても甘んじて受ける……しかないのかもしれない。
「まぁまぁ皆本クン。そんな気落ちせずにさ」
 どこか楽しげな声を掛けられ、胡乱な目を向ければ指でちょいちょいと屈むように指示される。腹は立つが逆らうのも面倒で腰を少しばかり屈めると、急に遮っていたはずの雨粒が身体中に降り注いだ。
 それに驚いている間もなく首裏を捕らえられ、ちゅ、と雨音に混ざって音が響く。それから頬、耳へと唇を寄せられて、耳元でひっそりと囁かれる声に再び顔に血が集まる。
「おまっ……、何考えて……っ!」
「何ってナニ?」
「小首を傾げるなっ、変態!」
「へぇ、僕が変態だって? だったらもっと変態っぽいことしてあげようか」
「だが断る!」
「却下。はい決まり。はい決定ー。ぐずぐずしてると風邪引くしとっととさっさとてきぱきと! 一緒にお風呂入ろう。言っておくが君に拒否権はない」
「横暴だ!」
「近所迷惑だから喚くなよ。この雨じゃあ君の喘ぎ声も消してくれないだろうしね」
「黙れよこの強制猥褻物!」
「ふーん。変態に強制猥褻物に。次は何が飛び出してくるのか楽しみだ」
「ちょ、目が全然笑ってないんですけど、兵部さん!?」
「あはは。何のことか全然分からないな、僕」
「その顔は絶対分かってるだろっ! つかマジで怖いんだけど。これから僕何されるわけ」
「だからナニ。安心しなよ、気持ちいいところに連れてってあげるから」
「いきたくねぇー!!」
 咆哮に似た皆本の叫びが、雨音を遮り近隣に響き渡った。
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