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  氷の世界  

 立っていた。
 青年はただ一人、赤黒く変色した世界の中で。
 剥き出しとなったコードからは火花が散り、しかし一度跳ねたそれは微かな音を立てて凍り付く。部屋全体を、寒々とした氷が覆っていた。それはまるでそこに自生しているかのように、軋む音を上げ氷柱を作り上げていく。氷の茨。漂う腐臭すら覆い隠すその氷の世界で、青年はただ、立っていた。虚ろな眼差しを虚空に向けて。
 それがいったいどれだけの時間だったのか。
 第三者の立てた物音に、青年の眼差しは緩慢に動いた。まるで鋭い刃物で切りつけたように四角く、それは人が通れるほどの大きさに入り口を覆っていた氷が切り崩され、だがまだ姿は現さない。足音だけが、ただゆっくりと、規則正しく刻まれながら近付いてくる。
 青年は、これから起こり得る事象をただ待ち、受け入れるように入り口を見つめていた。そして、彼は現れた。凍結した床に怯むこともなく、真っ直ぐに歩みをこちらへと向けてくる。年の頃は、青年よりも僅かに下か。だがそんなことも、青年にはどうでもよかった。目の前に現れるものは、全て排除する。その本能だけが青年を支配していた。
 音もなく、青年の後ろに控えていた氷柱が飛び少年の身体を貫いた。だが、上がるはずの血飛沫もなく、少年の姿は掻き消えた。
「手荒な歓迎だな」
 聞こえてきたのは不遜な声。コツ、と靴音を響かせてもう一度、少年が姿を現した。子供、であるはずなのに感じる威圧も気配もそれの比ではない。
 何者であるのか、探るような視線を向けていれば、少年は微かに笑った。
「僕は君を迎えに来た。やり合うつもりはない」
「迎え……?」
 怪訝に首を傾げる青年に少年は笑い、手を差し伸べる。
「超能力者全ての頂に立つべき王――。どうか僕と共に」
 誘いの白い手に、彼が囁く言葉に、青年は見る間に怯えるような色を双眸に走らせて、身を引く。震え出す身体に共鳴するように氷柱が小刻みに震え、自重を支えきれぬものは亀裂を走らせて崩れ始める。
 氷結の降り注ぐ中で、それでも少年が怯むことはない。青年はそんな周囲の――自身の異変に気付く様子もなく、現状から逃れんとするように、激しく首を横に振っていた。全てを、拒絶するように。
「違う違うちがうっ! 僕は普通人だ。超能力者じゃない! 王なんて知らない!!」
「そう。貴方は普通人だった。ほんの少し前までは。けれど目覚めた。超能力者として。王として。……僕は、そうして貴方が目覚めるのをずっと待っていた。貴方を、求めていた」
 少年の真摯な声が凍てついた世界に反響する。
 否定したいのに、拒みたいのに、見つめてくる眼差しに捕らえられてしまえば、逃げられない。不安定な心が、ぐらぐらと揺れる。目の前の誘惑に、縋りたくなる。
 ただ、人よりも秀でているだけだった。それが特別な力といえば、確かにそうだっただろう。しかし、かといってそれが超能力であるかどうかと訊ねられれば、答えは否だ。超能力とは超常現象を操る能力であり、学力は無関係。学ぶことによって得、応用・活用する知性は、精々が超能力の補助としてしか利用はできない。そのものが密接な関係にあるとは言えない。
 だから、なのだろう。本当にそうであるのか。ただ、まだ誰も解明しきれていないだけではないのか。飽くなき探求心に、青年は目を付けられてしまった。そして意志も無視した実験で、彼は目覚めた。普通人だったのに。普通人である、はずなのに。
 自らが生み出した凍てついた氷の世界で、皆本は超能力者として、覚醒した。
「貴方が必要なんだ」
「そういってお前も利用したいだけだ。僕を。僕の力を」
「違う。力なんかなくていい。でも、その力は多くの仲間を救うことができる。君にしかできない」
 冷たい指先が頬に触れる。それはこの氷と同じ。冷たくて、哀しい。激情を滾らせながらも、それを冷たい膜で覆い隠している。
 今すぐにでもこの手を振り払いたいのに、耳を傾けたくはないのに、拒めない。――それは、己が王だから? 王は己を信じるものを、護らなければならないものを、否定できない。
 この少年は、男は、危険だ。甘い言葉で、人を誑かす。逃れられなくする。
「僕と共に、王。能力の制御の仕方も教えてあげる。このままでは溢れる能力に君が押し潰されてしまう。強大な力は、正しく使わなければ自身も傷付ける」
 そんなことは分かっている。だが、喉が張り付いて声が出せない。漲る能力が、自身では制御しきれないほどに溢れだしてくる。力全てを絞り取られるように、能力が放出したがっている。
 窓を突き破った氷が、壁を伝い建物全体に伸びていく。漂う冷気に急激に温度は下がり、だが二人の周囲だけは温かい。それがこの目の前の少年が念動能力でシールドを張っているからだと、気付かないわけがない。
 どうして、と目を見張る皆本の前で、少年は微笑む。
「君が欲しい。だから」
 再び差し出された手に、皆本はそれでも戸惑う。自分は超能力者ではない。王などというものは知らない。己はただの皆本光一で、何の力も持たないはずで、誰かに必要とされる存在ではないのに。
 誘惑に抗えない。現実は否定できない。
 少年の手を握りしめようと震える手を伸ばしたとき、皆本が差し出した手は少年の手を掴むことなくすれ違い、音もなく身体が崩れ落ちた。乱れた呼吸も滲んだ汗も、彼が能力を限界を超えて使用し、身体へと負担がかかっているのは明らかだった。
 崩れた皆本の身体を愛おしく抱きしめると、兵部は紅い唇で緩やかに弧を描いた。
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