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  淡い侵食 後編  

「随分僕の部下と仲良くやってるみたいじゃないか、君は」
 ドアを開けると共に聞こえてきたその声に、一瞬耳を疑う。だが、視界に入ってきたそれはどうにも否定しようもなく、皆本は素早く周囲に目を配ると背中でドアを閉めた。
 待ち構えるように部屋の中に居たのは、目下要注意人物となっている兵部京介その人だ。敵陣の中に居るというのに、優雅な佇まいで笑みさえ浮かべてみせる。その余裕はどこから生まれてくるものなのか、皆本はつと眉を顰めながら低く問い掛けた。
「何の用だ」
 だがそんな皆本に対して、兵部は然もありなんというような顔をして唇に弧を描く。それに更に皆本が不快な色を見せようとも兵部は気にしない。
「僕の可愛い家族が悪い男に引っ掛かったんじゃないか、確かめに来たんだよ」
 回りくどいような言い方は、どこか皆本を試しているようにも聞こえる。何も返答を返さずにただじっと兵部を見つめ返していると、兵部は大仰に肩を竦めて見せる。芝居がかったような仕草。笑んだままの目許は皆本をからかっているようにも見えるし、検分しているようにも見える。
 要は、楽しんでいる、のだろう。この状況を。兵部からはそんな雰囲気が伝わってくる。
「最近葉の様子がいつもと違うんだよ。ウチは基本放任主義だし、葉も一人で何も出来ない子供でもない。放って置こうと思ったんだけど、君につけてる監視から面白い報告も受けたんだ。どんな内容か聞きたい?」
「結構だ」
「残念。まぁ、そんなわけで、今日僕が来たわけさ」
 言葉の割には兵部に落胆の色は見えないし、皆本が拒絶することも分かりきっていたのだろう。
 兵部の言葉を素直に受け取るならば、その通りに監視からの報告の真偽を確かめに来た、というところだろうが、そんなものは恐らく口実に過ぎない。仲間を心配して、というのは事実かもしれないが、だからといってどうこうするようにも見えない。
 結局こうして兵部が単独で皆本の前に姿を現したことは、ただの暇潰しに過ぎない。皆本は溜息を吐いて迷惑そうに言い放つ。
「確かめるだけならもう用は済んだだろう」
「あれ? 見逃してくれるの?」
「大人しく捕まる気になったのか?」
「それはないね」
 くすくすと笑い、兵部はゆっくりと皆本へと歩み寄る。一歩ずつ兵部が近づいてくる度に、言い様のない威圧に押される。あどけない表情を見せながらもその姿には隙は見られないし、あったとしても皆本がそこを突くことは出来ない。それはただ単純に、皆本と兵部とでは積み重ねてきた経験が違うからだ。
 肌の上にじっとりと汗を掻きながらも、皆本はそれを表には見せない。それがただの虚勢に過ぎずとも、屈する姿はただ兵部を楽しませるだけだ。自ら娯楽となるものを提供してやるつもりはない。しかし、今こうして皆本が必死に抗う姿ですら、兵部にとっては娯楽としか映らないのだろう。
 歩み寄ってきた兵部が、皆本のネクタイを掴み顔を引き寄せる。鼻先の触れ合うような距離で、兵部は皆本の瞳を覗き込む。濃紺の瞳の中に、険しい自分の顔が映る。
「今はあの子の好きにさせてるけど。下手な真似をしたらどうなるかわかるね?」
 声だけで笑う兵部の表情は真剣そのもの。瞳は微塵も笑ってはいない。
 だが兵部はふと急に興味を失くしたかのように、あっさりとネクタイを手放した。突き飛ばすように身体を押され、そう離れてはいなかったドアに背をぶつける。
 皆本が痛みに顔を顰めていると、兵部は踵を返して椅子に腰掛ける。
「まったく、ウチの子に限ってってきっとこういう時に使う言葉なんだろうな」
「こういう時ってどういう時だ?」
 あくまでも知らぬ存ぜぬ顔をすれば、呆れたような視線が皆本を見る。どこか気だるげに椅子に身を預け、ゆっくりと瞬きをする。再び兵部の視線が皆本を捕えた時には、その顔にはあからさまに嫌そうな表情が浮かべられていた。
 与り知らぬ所で、可愛がってきた家族が敵方の人間とただならぬ仲であることを認めきれないのか。皆本にしてもあれは成り行きであったことで、寧ろ続いていることが不思議だ。
「別にね。葉は脅されてるわけでもなく、自分の意思で君の所に行っている。だからそのことに関して僕が口出しすべきことじゃない――とは思っていても、いつ君が掌をひっくり返すかわからない」
 そういいながら、兵部は自らの掌を返してみせる。
「君は信用に値しない。いつ関係を覆すか分からないだろう? ……それとも、立場を忘れるくらいに葉の身体はイイかい?」
 品のないその物の言い方に、皆本の眉間に皺が刻まれた。冷笑を浮かべる兵部からは、敵意にも似たものが感じ取れる。返答如何によっては、その敵意はまっすぐ皆本に牙を剥くのだろう。
 皆本は肩を竦めるように溜息を吐いて、緩く首を振った。そして怪訝な表情を返す兵部へと告げる。
「今のはらしくないな、兵部」
「な……」
 二人しかいない空間に、足音が響く。
 絶句する兵部は僅かな動揺を隠し切れずに皆本を見上げる。その、普段皆本に苦汁を舐めさせてばかりの男が浮かべる表情がおかしくて、気分が高揚する。だが、ここで調子に乗りすぎればすぐに立場は逆転するだろう。
「普段のお前なら例え冗談でも仲間を辱めるような台詞は言わない。それが大切に育ててきた子供なら尚更だ。お前は、仲間を大事にする奴だからな」
 それは葉を見ていれば分かる。葉は兵部に対して絶対的な信頼を寄せている。親に向ける親愛の情であれなんであれ、強い感情を抱いていることも事実。警戒心の強い人間がそこまで心を預けられるなど、相応の信頼関係がないと成り立たない。
 そして兵部が仲間を大切にしているということは、今この場に現れているということが何よりの証となる。いくら勝算があるのだとしても、わざわざ仲間の素行を心配して単独で敵陣に現れるということはそれだけ思っているということ。どうでもいい相手ならばそこまでしない。直接本人に言えば済むことだ。釘を刺しに現れる必要はない。それに兵部が見せた敵意は紛れもなく本物。
「……反吐が出そうだ」
 忌々しげに言葉を吐き出す兵部に、小さく喉を鳴らす。
 張り詰めていたような空気が和らいだのを感じ取り、皆本は机に寄り掛かる。
「もう少し早い段階でお前が来ると思ってたよ」
 だから、兵部が現れた時にそう驚くこともなかったし、確かめるまでもなく兵部の用件は知れていた。
 葉はあまり隠し事には向かないタイプだ。どんなに隠そうとしてもその端に感情が滲み出てしまう。嘘は吐けるがその嘘が真実に変わることはない。本人も、最後まで隠しきれると思ってはいない。
 だが事が事であるだけに兵部も行動に移し難かったのだろう。仕掛けたのは皆本が先だったが、葉はそれを受け入れてしまった。兵部が告げれば葉は素直に皆本との関係を絶つだろう。けれどそれは葉にとって良い事か、悪い事か。自ら受け入れて納得しているのなら一概に悪いと決め付けることも出来ない。それに皆本との関係は、ただそれだけが目的ではない。
「もう少し葉に構ってやったらどうだ?」
「言ったろ? ウチは放任なんだよ。それに、君に言われる筋合いはない」
 睨み付けてくる眼差しを、皆本はただ受け止める。
 けれど、もし兵部のように対する接し方が違えば、こんな関係には発展しなかった。所詮たらればの世界にしか過ぎず、兵部の言葉通りに皆本には口を挟む権利などありはしないが。
 最後にきつく皆本を見据えて、兵部は消える。一人となった空間に皆本は小さく息を吐き出した。

□ ■ □

「そういえば、兵部が僕の所に来たよ」
「っぁ……、少佐、が……?」
「うん」
 薄い胸板に唇を滑らせながら、皆本は他愛もないことを話し出すように言葉を切り出す。滑らかな肌は静かに落とされる唇を受け入れ、吸い上げられるとその身を官能に震わせる。
 切れ切れの言葉の中に動揺と困惑と、居た堪れなさのようなものを感じ取って、皆本は安心させるように顔を上げて頭を撫でる。その掌も受け入れられ孕んだ緊張を緩めるが、消えたわけではない。
「かなり君の事を大事に思っているみたいだな、兵部は」
「……そんなこと」
 ふいと逸らされる顔に静かに笑む。それが葉の強がりであり照れ隠しであることは分かる。何に思いを馳せながら瞼を伏せているのか。心此処に在らずという姿を見ても、皆本の中に嫌な気分は生まれない。
 身体を起こして背を向けるようにベッドの端に座り込むと、背後で遠慮がちに起き上がる気配がする。皆本が振ったこととはいえ、意識を集中させなかったことに申し訳なさでも感じているのか。だとすれば笑みが浮かぶ。
「少なくとも、僕は君に一個人として接している。プライベートにまで仕事は持ち込みたくないからね。信じる信じないは自由だが、今のところ僕には君を捕まえようという気はない」
「今のところ……、ね」
「ああ。君が社会規範に反した行動を取るようだったら僕は君を捕まえなければならない。だけど、ただの超能力者である君を捕える理由はどこにもない。パンドラであっても、僕は君の犯罪を目の当たりにしたわけじゃない」
「その甘さがいつか命取りになるかもしれないっすよ?」
「その時は僕自身の判断ミスだ。誰も責められない。でもミスをそのまま放って置くような真似も僕はしない」
 葉の挑発にも皆本はそう言い切って、立ち上がる。自分で切り出したことではあったが、今はもうそんな気分じゃない。わだかまりを抱えたままで居るよりは話してすっきりしてしまおうと思っていただけだったが、それでも十分に皆本を納得させるだけのものは与えられた。
 振り返れば葉はどこか呆れたような表情で服を整えている。一方的に中断させた皆本を咎めないということは、葉自身ももうそんな気分ではなくなったのだろう。
「アンタほんと変わってる」
「僕は僕なりの信念で以て行動しているだけだよ」
「それが変わってるんだっつの」
 立ち上がり、やはり呆れた顔を見せてくる葉に皆本は微笑を返すだけだった。
 服を着込んでしまえば此処にはもう用はない。
 ドアへと向かう葉に、皆本もその後を追う。一番最初にこの家に上がった時以外は窓からの不法侵入だったが、今ではきちんと玄関から出入りをしている。普段好き勝手に行動しているようなものだから、誰かに背を見送られるなんて事、葉には皆本が初めてだった。
 それにどちらかといえば、葉はいつも見送る側であったし、その帰宅を待ち侘びていた。
 三和土に立って、葉は皆本を振り返る。壁に寄り掛かるように立っていた身体を離して、皆本は不思議そうに首を傾げる。
「アンタ……」
 言いかけて、口澱む。何を言おうとしているのか冷静になって考え直して、小さく首を振る。そんなことを聞いてどうするのか。……何も変わりはしないというのに。
「やっぱいいや。じゃ」
「ちょっと待て」
 ドアへと伸ばそうとした手を、皆本は引き止める。掴んだ腕をそのまま引き寄せて、皆本は口付ける。
 葉は驚きに目を見張り、けれどただ重ねたままそれ以上の触れ合いを仕掛けてこない皆本にそっと瞼を伏せる。暫くの間唇を重ね合わせただけのキスを続けて、そっと顔が離れていく。互いに詰めていた息を吐き出して、皆本は緩く口角を持ち上げる。
「今日の分はこれでチャラにしておくよ」
「……あ、そ」
 そう言って今度こそ出て行く葉を皆本は見送る。
「……やっぱり甘いな」
 ドアが閉まり足音が数歩分だけ響いて消えたことに苦笑のようなものを落として、皆本もその場を離れた。
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