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  淡い侵食 前編  

 怪我をしていた生意気な猫を拾った。傷の手当をして餌を与えると、何故だかそのまま懐いてしまった。

「ほら、メガネのニィサン。早く」
 急かすように投げかけられる要求。駄々を捏ねる子供のような態度に呆れるべきか怒るべきか。横柄な態度を取る少年にひっそりと溜息を吐きながら、皆本は器用にフライパンの中身をひっくり返した。
 キッチンに漂う甘い匂い。少し離れたダイニングテーブルからは、ここよりももっと甘い匂いが漂っているはずだ。どうしてこんなことになっているのだろうと、もう幾度考えたかわからないことをまた繰り返し考えながら、焼き上がりを待つ。
 その傍らに、待つことに飽きたのかふわふわの頭を持つ少年がやってくる。
「まだ?」
「まだだ」
「ちぇっ」
 唇を尖らせて拗ねる様子は、一見すればただの子供と変わらないのに。甘いものが好きな、どこにでもいるような少年そのものだ。でもふとした瞬間に見せる、氷のように凍て付いた眼差し。誰かを傷つけることを厭わない、精神。
 いや、その対象が「誰でも」ということはないだろう。けれど、敵と判断を下した者には容赦ない。無邪気な子供そのものの表情で、痛めつける。それを歪んだ精神だと判断するかどうかは、それぞれの価値観と倫理観だろう。
 少なくとも皆本は、それを歪んでしまったと、判断する。彼にとっての現実が違えば、きっと違っていたはずだと、思っている。
「それにしてもよく食べれるな。これで何枚目だと思ってるんだ」
「別にいーじゃん。ちゃんと食ってんだから」
「そうじゃなくて。こんなおやつよりもまともな食事を摂れと言ってるんだ」
 焼き上げるそばから綺麗に平らげられていくホットケーキは、そろそろ合わせた生地もなくなりかけている。確かに食せば腹は満たされるだろうが、必要な栄養は取れない。
「一応食ってるよ。あれじゃね? おやつは別腹」
「太るぞ、そのうち」
「なに。敵の俺にそんな心配してくれんの?」
「……」
 心配をしているわけじゃない。敵が太っていようと痩せていようと皆本には関係がなくて、それは分かっていてもただ、見過ごせない。気にしてしまうのは性分のようなものだと、皆本も十分承知している。
 だからそのまま閉口して、焼きあがったホットケーキを葉の持っていた皿へと移す。ボウルに入った残りの生地をまたフライパンに流し込んで、片面の焼き上がりを待つ。そのまままたテーブルへと移動するかと思っていた葉はしかし、キッチンに居座ったまま念動力を使って蜂蜜の入った小瓶を引き寄せる。
「横着するな」
「俺がどう能力を使おうと俺の勝手じゃん」
 見ている側が眉を顰めたくなるほど蜂蜜を垂らして、葉はフォークだけで切り分ける。鼻腔をくすぐる甘ったるい匂いに辟易とする。もしかしなくても葉は、これまでのすべてのホットケーキをそうやって平らげていたのだろう。未開封だったはずの蜂蜜も量をかなり減らしている。
「そんなに気に入ったのか?」
「あ? 別に。でも俺、こういうの食べたことないから」
「え……?」
 ホットケーキはおやつの中でもポピュラーな類だろう。今は専用のミックス粉も出ていて、手軽に簡単に作ることが出来る。
 怪訝に見下ろす皆本に気付いているのかいないのか、葉は一口サイズに切り分けたそれを口に運びながら、続ける。
「かなりガキの頃に少佐に拾われて、それからそう不自由はなかったけど。こんなの知らなかったからねだったこともないし、少佐も作ってくれなかったし」
 何気なく、なんでもないように告げられる言葉の中に、一体どれだけのものが籠められているのか。普通人の身勝手さの犠牲となっていた子供達。普通の幸せさえも知らず、兵部に与えられる世界だけが全てだった子供。
 きっと、皆本が知っているそれ以上の世界を、葉は知っている。それが、可哀想だと思うことは傲慢で独り善がりで、そして葉に対する侮辱だ。彼は、その過去を悲観しているわけではない。悲観してはいないが、享受しているわけでもない。
「ねぇ、焦げてんじゃない?」
「え、あ、うわ」
 指摘されて慌ててひっくり返す。丸焦げ、という所までいってはいないが、焦げた部類だろう。
「すまん」
「別にいーっすよ。食べれないわけじゃないっしょ」
 それはそうだが、と口篭らせて、はたと我に返る。本当に、この日常はなんだろうか。親友が聞けば顔を顰めて呆れるに違いない。
 相手は子供といえど敵方の幹部で、聞きだせる情報も多くあるだろう。油断している今なら簡単に捕らえることも出来る。でも、そうしようと思わないのは何故。
「アンタさ、変わってるって言われるだろ」
 まるで皆本の思考を透視したかのように葉は告げる。傍らへと視線を移せば、最後の一口を放り込んでまた次の焼き上がりを待っている。
 皆本の返す言葉にはそう期待しているわけでもなく投げかけただけなのか、その意識に入っていないようにも思える。
 火を消して、最後の一枚を皿へと移す。また蜂蜜を垂らそうとする腕を引き止めて、皿を取り上げる。胡乱に見上げてくる目を見下ろして、皆本は覆い被さるように身体をシンクに押し付けた。
「なに」
「相応の礼をもらわないと割に合わないと思わないか?」
「……んだよ、それ。ここで俺をどーしようっての?」
 それが虚勢であるようには見えないが、状況を理解していないようにも見えない。寧ろ楽しんでいるとでも見て取れるようなその余裕は、事実この現状を恐れていないからか、何か算段があるからか。
 顎を捕えて視線を合わせると、間髪入れず唇を重ね合わせる。驚きに見開かれる目を間近に見ながら、皆本は割った口の中に舌を差し込んだ。噛まれるかと身構えたが、あっさりと舌を捕えることが出来た。
「ん、ふ……っ、ぅん」
「……あま」
 舌に纏わりつく蜂蜜の甘ったるい味。よくこんなものを食べ続けて胸焼けしないものだ。口の端から零れる唾液を舐め取ってやると、そこからも甘ったるい味がする。
「な、にアンタ。……そーゆー趣味の人?」
「いや……。君が初めてだな」
「あの色黒のセンセイは?」
「賢木のことか? あいつはただの親友。それよりも……、君こそ、兵部とはどうなんだ?」
「…………下世話っすね」
 一瞬過ぎった動揺を見逃すことはない。だが次の瞬間には挑発的に見上げてくる目を、皆本は楽しげに受け止める。
「で、アンタ本気?」
「残念ながら冗談ではないな」
 本当は半分弱ほどは冗談も混ぜていたのだけれど。わざわざそれを教えてやる必要はない。
 探るような声を一笑に付して身体を離す。その瞬間きょとんとしたような表情を見せる幼さに小さく笑みを零して、ふわふわの頭を撫でる。
「ちょっと焦げて冷めかけだけど、それ、どうする?」
「あー、食う」
 そう言って何事もなかったかのようにホットケーキを頬張り始める葉の姿に、皆本の頬は自然と緩められていた。

 怪我をしていた生意気な猫を拾った。傷の手当をして餌を与えると、何故だかそのまま懐いてしまった。
 懐いてしまったから、もう少し手懐けてみようと思った。
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