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  闇に沈む  

 目の前に広がるその光景を、少女達は現実と捉えることは出来なかった。

 そう、これまでに。
 彼はどこか困ったように、仕方が無いな、とでも言いそうな表情で笑うことはあった。それは主に自分達が彼に対して無理難題を言ったり、我が侭を言ったりしていたことが殆どで、困ったように笑いながらもそれでも彼は自分達にあたたかなものをくれていたのに。そうやって、彼が笑うことが申し訳ないと思う半面で嬉しくて、幸せで、天邪鬼な気分でもっと困らせてもっとその目を自分達に向けようと、そんな甘えさえ許してくれていたのに。
 今、彼が浮かべているのは、本当に、困りきった顔。自分の失態がバレてしまったような、親に怒られることを予測して首を竦める子供のような、そんな、困り顔。
「み、なもと……?」
 呟いた声は、掠れ切っていた。本当はもっと言いたい言葉があったのにそれすら言葉にならなくて、ただ、怯える自分を必死に奮い立たせようと拳を握り締めた。それは、隣に居る葵も紫穂も同じようで、寄り添うように身を寄せてくる。
 愕然と見開いた目は、相変わらず彼と、その奥に広がる光景を映し続ける。
「ど、して……」
「なんなん、これ……」
 部屋一面に広がる、赤い、色。饐えた、臭い。どうして、そんな赤い世界に、彼が立っているのか。困りきった表情で、自分達を見るのか。――その手に握られた、黒い、もの、は。
「どうして、こんなタイミングだったのかな」
 ぽつり、と漸く彼が呟いた声は、自分の失態を後悔するような、声。いつもとは違う、冷たい、感情のない、声。
 何を、言い訳するでもなく。何を、説明してくれるわけでもなく。ただ彼は、あーあ、と自嘲するように溜息を吐いて、嘆いて、小さく、首を傾げる。
 知らない、姿。知っている人物であるはずなのに、彼は彼であるはずなのに、まるで別人のように思う。今にも笑みを浮かべて自分達の名前を優しく呼んでくれそうなのに、その願いが叶うことはない。
 一歩を踏み出してくる彼に、無意識の内に身体が震えていた。びくり、と、彼に怯えるように、身体が竦んだ。それを見て、彼はほんの小さく、口元に笑みを乗せた。悲しげな、笑み。
「嫌なものを見せてすまないね」
「っ、皆本! その人たちっ……、その人たち、は……!」
 投げ掛けられた声に、薫は咄嗟に口を開いていた。けれどそれ以上を言ってはならないと、言葉が喉に絡みつく。言葉を続けることが、出来なかった。
 これは何かの冗談であるはずなのに、一向に現実を否定する言葉が出てこない。それが余計に、薫の焦燥を急き立てる。これが現実なのだと、打ちのめされる。
 袖を引く二人の指は薫の焦燥を抑えようとしているのか、突きつけられる現実に耐えようとしているのか。
「気にしなくていいよ。君達は、気にしなくていい」
「――っ!!」
 三人分の、息を呑む音が重なる。
 冷たかった声が急に感情を伴って、それは昔のように優しく少女達の鼓膜を撫でていくのに、告げられた言葉は、変わることはない現実は、ただその声を異端めいてみせる。聞き慣れた声であるのに、この場に落ちるのは、不自然な声音。
 違う。慰めの言葉を聞きたいんじゃない。偽りの言葉を聞きたいんじゃない。例えそれがどんなものであったとしても、彼の口から真実を聞きたいのに。それしか、聞きたくないのに。
「――どういうことなのか説明しろよ! 皆本ぉッ」
 荒げた声は、空しく周囲に響き渡る。
 両隣の少女達が驚き身体を強張らせたことにも、気付けなかった。ただまっすぐに、彼を見つめていた。早く、その口からいつもの声を聞きたかったのに。ただそれだけを、願っているだけなのに。
「……知らなくていいんだよ、君達は。まだ、その時じゃないから」
「そんなんじゃ説明になってねぇよ! 子供扱いすんな!!」
「子供だよ、君達は」
「っ」
 何度も何度も、言われ続けてきた言葉。その度に否定し続けてきた。知ってる。分かっている。癇癪を起こすのは、ただの子供の我が侭だと。彼の言う通りに、自分達はまだ子供に過ぎないのだと。
 それでも、彼とはいつでも対等に在りたかったのに。信じられる、頼れる人だったから。チームだったから。早く一人前に、見て欲しかったから。
 ぐ、と、拳を握り締める。彼が、自分達は子供だというのなら。子供らしく、ただ感情に任せた、超能力で――。
「! ど、して……!」
 発動させようとした能力はしかし、現れない。それどころか、身体の力が抜けたような、この感覚は。
 咄嗟に彼を見れば、相変わらず困ったような表情で、笑みを浮かべている。その笑みに、はっと直感する。自分達がこうなる原因は、一つしか思い当たらない。ECM。この部屋の中に仕掛けられているのだろうそれが、発動された。
「いずれ、君達が大人になったら、教えてあげる。だからそれまで」
 彼の言葉を全て聞く前に、意識が急激に遠退いていく。閉ざされていく世界の中で、やはり彼は、ただ困ったように笑っているだけだった。
 でもその顔がどこか泣いているようにも見えて、……そこで、薫の意識は遮断された。

 部屋の入り口に寄り添うように崩れ落ちた三人の少女達を、皆本はただ悲しげに見下ろしていた。本当は、こんなものを見せるはずじゃなかったのに。一生この少女達には隠しておくはずだったのに。どうしてこんな時に限って、彼女達は現れてしまったのだろう。
 それを今更、悔やんでも仕方が無い。
「……君らしくない失態だね、皆本君」
 唐突に聞こえて来た第三者の声。その声がどこか気遣わしげに聞こえるのは、きっと気のせいなどではなく。皆本の心情を汲み取っているのだろう。
 その声に返事をすることはなく皆本は少女達の下へと歩み寄って、傍らに膝を折る。最後まで気丈にも涙を流さなかった彼女。瞳いっぱいに激情を湛え、それでも我慢し続けていたのは皆本への信頼ゆえ、なのか。けれど今、その少女の頬には悲しい涙の痕がある。それを流させたのが自分であるということが、皆本には耐えられなかった。でも、真実を告げることもまた、出来なかった。
 一度硬く拳を握り締めて、そっと少女の頬を拭う。
「頼みがある。兵部」
「分かってるよ。僕も、女王達を悲しませたままにしておくのは忍びないからね」
 身軽に、気配もなく近寄ってきた兵部は眠る少女達の額に手をかざして、そっと瞼を伏せる。その様子を、皆本はただ黙して見つめていた。これは、自分が蒔いてしまった種。
 戒めのように少女達の姿を焼き付けていると、不意に頭の上に乗った、温もり。それが静かに、子供にするように頭を撫でて、くっと喉が鳴る。零れ落ちた、渇いた笑い。
「行こう、兵部」
「構わないのかい?」
「ああ。そろそろ時間だろう? ……ついでだから、彼女達に目撃者になってもらおう」
「ついでと言うには少々遅かったね」
 二度手間だよ。そう嘯く少年に皆本は口元だけを歪めてみせる。
「仕方ないだろう? さっき思いついた」
「全く。これじゃ僕だけが悪役じゃないか」
「似合ってるよ」
「褒め言葉じゃないね」
 呆れたような口振りを見せながらも、兵部は再び少女達の額に手をかざす。先程は、記憶の消去。今回は、記憶の改竄。三人分、齟齬が発生しないように、この部屋に入る直前からの記憶を作り変えていく。そしてその作業が終われば、部屋の中へと視線を向ける。少女達に向けていたものとは違う、ひどく冷め切った、視線を。
 皆本も赤に染められた室内を感慨もなく見渡して、息を吐く。
「これは、どう仕上げようか」
「それくらい自分で考えなよね、天才エリート様。僕はもうヤだから」
「えー。兵部のクセにケチだなぁ」
 ごねるように皆本は呟いて、ころころと、笑う。
 それは一見、普段通りの、彼が少女達に向ける表情と何ら変わりないようにも見える。でも実際は、違う。
「……我慢しなくていいんだぜ?」
「…………兵部にはお見通し、か」
 疲れたように漏らし、皆本は兵部を見つめて、力なく笑う。この男の前では、虚勢も張れない。張らせてはくれない。
 それでも、今はまだ、膝を折ることは出来ない。
「ま、どうせ闇は闇にしか消えることは出来ないんだ。自業自得、だよ」
 呟く声は小さく、昏い。次の瞬間には、室内を彩っていた鮮やかな赤も、床に転がっていた肉塊も姿を消していた。その行方を知るのは、皆本だけ。
 元通りとなった部屋からは、そこで行われた惨劇を想像するのは難しい。それでもただ、何かを思わせるかのような、荒れた様相だけはそのまま残されている。それをヒントに辿り着ける者は果たして居るのだろうか。
「…………手抜き」
「何を期待してたんだよ」
「べっつにぃ? 天才エリート様の完全犯罪トリックを特等席で見れるのかとちょっと期待してね」
「期待に添えなくて悪かったな」
 それに第三者である目撃者がいる限り、完全犯罪は成立しないよ。
 微塵も悪びれた様子など見せずに嘯いて、皆本は笑う。その笑い顔は、やはり普段彼が少女達に見せているものと、何の遜色もない。ただ、その瞳が闇を引き摺るように暗い翳を落としたままなことを除けば。
「そろそろ時間もなくなるだろう? 行こう、兵部」
「まったくいつの間に君までそんな生意気に育ってくれたんだか」
「親の育て方が良かったからだろうな」
「……そういうところが生意気だと言ってるんだ」
「これでも色々と貴方には感謝してるよ、兵部さん」
 そう告げる皆本に兵部は不機嫌さを隠さない。その、男の妙に子供っぽさを残した内面に皆本は微かな笑みを浮かべて、その腕を取る。いつの間にか自分よりも小さくなってしまった身体に寄り添うように自分の身体を近づけて、瞬間移動する。
 その場に残される、穏やかな寝顔を浮かべた三人の少女達。少女達は目覚めた時には改竄された記憶を頼りにこれからしばらくの間、落ち着かない日々を過ごすことになるのだろうが。それでも、今真実を知るよりは、マシだろう。

 動き出した時間は、最早誰にも止められない。全てを決めてしまった皆本は、立ち止まることが、出来ない。
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