甘く切なくあたたかく、優しい死を彼らに

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  Lacrimosa ex.1-01  

 締め切られた窓の向こうから、激しく降り注ぐ雨音が伝わってくる。風もひどく吹いているのか、頼りなくガラス窓が音を立てる。
 込み上げる湿気に密閉にされた室内は蒸し暑く、身体を動かしてはいなくても服が肌に張り付くような不快感が付き纏っていた。
 昨日から続く雨は、未だ止む気配を見せない。
「っ」
 皮膚を破り肉に刺さる針の感触に、噛みしめた歯の奥から小さく苦痛の呻きが洩れる。静かに注射筒に溜まり出す己の血液をぼんやりと眺め、一定の量を採血すると針を抜き止血を施す。
 圧迫されていた腕に血液が流れ出すのを実感しながら身体を脱力させ、皆本はぼんやりと薄汚れた天井を見上げた。
 己は一体なにをしているのか。どうしてこんな場所に来てしまったのか。考えれば怒りと悔しさばかりが込み上げてくる。どんなに割り切ろうとしても割り切れない。国の為、天皇の為、国民の為――。だがその守るべき国に裏切られた者はどうすればいい。信じていたからこそ、母国の為に己の命を賭して戦場に立つことを決めていたからこそ、その裏切りは残酷で、卑怯。
 所詮、兵士など代替の効く道具でしかないのか。
「――くそっ」
 洩れる苛立ちは国家へ、軍へ、己自身へ。
 込み上げる皆本の憤りにまるで共鳴するかの如く、室内のあらゆるものがガタガタと揺れ動き始める。机の上に置いていた湯呑みが振動に合わせて小刻みに移動し、端まで辿り着いたそれは支える平面を失くして自重を支えることも出来ずに床に落下する。
 陶器の割れる音と、ドアを叩く音が重なった。
「皆本准尉、――皆本主任。いらっしゃいますか」
 外からの呼びかけに、部屋に響いた物音に皆本の意識が戻る。同時に室内も何事もなかったかのように静まり返り、ただ湯呑みだけが、先刻の痕を残すように床に破片を散らかしていた。
 皆本は足下のそれをどうするか逡巡し、しかし迫る時間に手早く鞄を閉めてドアの向こう側へと応答を返した。
 ドアの向こう側から現れた、軍服ではなく白衣を纏った男の姿に皆本の胸中に昏い澱が沈む。
「お迎えに上がりました。皆本主任」
「ご苦労。少し待ってくれ。湯呑みを割ってしまった」
「片付けならば私が。機関の研究員達も主任の帰りをお待ちです」
「……では頼む」
 皆本は椅子の背に預けていた白衣に腕を通し、鞄を手に研究員を残して部屋を出た。廊下に出た瞬間、零れそうになった溜息をぐっと飲み込み、皆本は前を見据えたまま歩きだした。ここでも、どこでも、弱った姿など晒せない。
 正面の門には一台の車が止まっていた。敬礼する衛兵を一瞥するに留めて、皆本は差し出された手を無視して車に乗り込む。
「大事な研究サンプルだ」
 感情の篭もらない抑揚のない声にも動じずに研究員は皆本の後に乗り込み、それを確認した後に車が出された。タイヤがぬかるんだ地面を走り、所々に出来た水たまりの泥水を跳ねていく。
 狭い車内の後部座席には、皆本を挟むように左右に研究員が控えている。助手席にも機関直属の士官が座し、息が詰まる。雨のせいで窓も開けられず、篭もった空気は吐き気を催す程に気持ち悪い。
 これでは護送ではなく押送だ。
 居心地悪く揺れ動く移送車の中で、皆本は一切の情報を遮断するように硬く目を閉じた。

 陸軍第三科学研究所――超常能力研究機関として存在するその施設へと戻ってきても、その空気に懐古の念に捕らわれようとも自ら進んでこの地に足を運びたくはなかった。
 全ての終わりの場所であり、始まりの場所。ここで皆本は死に、生まれた。
「髪、皮膚、爪、血、体液――、全被験体から採取してきた。それ以外のデータは全て先に送っていたはずだ」
 施設へと足を踏み入れるなり皆本は待機していた研究員に鞄を預け、自身も研究へと移る。
 慌ただしい雰囲気へと一瞬にして変わり果てた研究室内で、サンプルを広げていた一人が恐る恐ると皆本へと声をかけた。
「あ、あの……皆本主任」
「どうした」
 投げられた端的な答えに肩を震わせたその研究員に、皆本は見覚えがなかった。恐らくは皆本が超能部隊へと異動になった後に研究所に入ってきた者だろう。
 改めてもう一度柔らかな声で問えば、勢いに押されたように返事をした後、資料を片手に躊躇いがちに口を開いた。
「以前頂いたデータと今回のサンプルなのですが……その、数が一つ違うのでは……? 被験対象となっているのは超能部隊のうち隊長を除く――」
「数に間違いはない。彼は見ない顔だが民間か?」
 若い研究員の進言を言葉少なに遮り、皆本は近くにいた者に声をかける。すぐに横に振られた首に視線を戻して、目の前のびくついたような姿に軽く息を吐き出した。
「資料にはきちんと目を通しておけ。験体の数は十だ」

 皆本が施設に滞在していたのはおよそ十日の間だけだった。一朝一夕で得られるものなどはなく、今回のは機関の実験成果の中間報告のような形での帰還だ。皆本自身にも長期の滞在の意志などありはしなかった。
 超能部隊の駐屯地へと戻り、身体は疲弊を訴えていたがそれでも彼らに会うべく足を向けてしまったのは、その異端を認めたくはなかったからだ。彼らの否定は己の否定にも繋がる。だが決定的な違いが、それを拒絶する。
 しかし彼らに会うその前に、偶然に耳に挟んでしまったその事実に、皆本の足はすぐさまその場を引き返し、部隊長室の扉を叩いていた。
「失礼する!」
 返答を聞く前に扉を開いた皆本の無礼にも、帰ってきたばかりの人間が唐突に姿を現したことにも驚く様子を見せることもなく、男は皆本を出迎えた。
「帰還の報告は明日で構わないと伝えていたはずだが?」
 不思議に首を傾げるその姿が意図的なものなのか本意であるのか。
 皆本は足音も荒く男へ歩み寄ると、抱えた苛立ちをぶつけるように机に両手を叩きつけた。
「一体どういうことだ!?」
「どういう……とは何のことかな」
 椅子に預けていた身体を持ち上げ、窓際へと立つ男を皆本はその一挙手一投足も見逃すまいと見据え続けた。
 悔しげなその表情は、今にも歯軋りが聞こえてきそうなほど歪んでいた。それは同時に、皆本から正常な思考をも奪い去っていた。
「何故プロフェッサーからの要請を受け入れた」
 皆本は低く唸り、全身を襲う悪感に両の手のひらをきつく握り締めた。俯き、何かを耐えるような皆本へと男は一瞥を送った後、ただ短く、それで、と切り捨てる。
 瞬間に皆本の顔に浮かんだ悲愴。それをガラスに映る内側の景色で確認した後に、男はもう一度皆本の用件を促す。
「何の用だ、皆本准尉」
「っ」
 冷たく突きつけられた己の立場に、皆本は小さく息を呑み、静かに項垂れた。
「差し出口を、申しました。……申し訳、ありません」
 先程の勢いもどこへ消えたのか、消沈する皆本に男は細く息を吐いて空気を揺らし、徐に机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
 それを皆本の前へと滑らせ、それに目を通した皆本は最後に驚愕に目を見開いた。
「要請があったのは先週。機関の主任としての懸念も理解できるが、その主任からの許可証だ。間違いは?」
「――ありません」
 だが、末尾に許諾の証明として皆本の直筆の署名が入れられていようと、皆本自身にこの書類に対する覚えはない。
 ハメられた、と、そう悔やんでも既にこれが正式な文書として受け入れられている以上、皆本がこの書類の信憑性を証明できる術はない。筆跡を真似られたか、あるいは。
 皆本には施設にいた十日の内、凡そ半分の日数の記憶が、ない。その間に書類を偽造することなど、容易なことだった。
「さすがにこちらの戦力を丸々あちらに貸し出すことは無理である以上、派遣する者は限られている。相手方をよく知る者として、同じ研究者として、上はお前の派遣も検討しているが」
「……了解致しました」
 最初から皆本の意志などどこにも存在しない。いつも、どこでも。
 皆本に出来るのはただ与えられた役目を全うし、最期まで演じるだけ。演者が勝手に舞台を下りることは許されない。
「皆本准尉」
「は」
 姿勢を正し、皆本は真っ直ぐに上官を見据える。先程の取り乱し様も微塵も見せることなく、そこに立ち尽くしているのは軍人たる姿。
「君はあちらの動向を気にしているようだが、逆に言えばこれは絶好の機会とも言える。クルト・パラスケス教授の研究への協力、粗相のないように取り計らいたまえ。――しかし、かといって全てをくれてやる必要もない」
「はっ」
「君の所属は陸軍特務機関超能部隊だ。軍規に従え」
 久しぶりの青空を覗かせいていた空には、いつしか鈍色の雲が広がり始めていた。
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